2021年
断水のせいで
それは、突然訪れた。
「だんすいっ!?」
「そうよ。断水。水道工事らしくって……明日の午後、三時間くらいお水が止まるみたいね」
お母さんから告げられた、断水工事のおはなし。
最近、水道の調子がおかしかったような気はしていたのだ。ちょっと流れにくかったりということもしばしば。直してくれないと困るってくらいだった。
「でね、その間はお水も飲めないしおトイレも使えないから――」
おトイレ、使えない。
不意にドキッとした。
トイレが使えない。つまり、おしっこは我慢するか、あるいは……おむつを穿くしかない。
そう、おむつ。何年も前……これは私が小学校に上がる前だろうか。
渋滞対策で履かされた紙おむつ。その可愛い柄ともこもこでふわふわな感触を、十歳の私はいまだに覚えていた。
あの感触をもう一度味わいたい。
少女漫画とかで、よく「恋」なんて言葉が出てくるけど、いまの私はおむつに恋してるといっても過言じゃなかった。
いま、その願いが叶うかもしれない。そう思うと、居てもたってもいられなかった。
「――わかった?」
「うん!」
「なんか一気にテンション上がってない?」
……なんだか悪いことを考えてる気がして、私は目を逸らした。
その翌日。運命の日。
「じゃあ、行ってくるわねー」
お母さんは出かけて行った。今日は小学校がお休みで、さらにうちにはお父さんも兄弟もいないから、これで一人きりのお留守番。
お財布の中には、五百円玉と百円玉が一枚ずつ。あとは十円玉と一円玉がいっぱい。
ドキドキする胸を抑えながら、私は家を飛び出し。
歩いてすぐのところにあるドラッグストア。その棚に置いてあったのは、夜空と寝転がる女の子の描かれた小さめの袋。二枚入りのオヤスミパンツ。
おむつが外れたお姉ちゃんのためのおむつ。だから、おむつの外れてる私が使っても、不思議じゃないんだ……!
自分を正当化しながら、きょろきょろ、周りを見て、誰もいないのを確認して……さっとそれを取って、腕の中に隠した。
顔を真っ赤にしながらレジに出す。
私がこれを買ってても、何にもおかしくない。
そうやって言い聞かせてても。
これ、なんで買ったのって聞かれたら、どうしよう……。
「お客様?」
「ひ、ひゃいっ!?」
「会計は二一四円ですよ」
しまった、お金を出すのを忘れかけてた。
気が付けばおむつ……オヤスミパンツの入った袋は、小さな黒いレジ袋の中だった。
慌てて五百円玉を差し出し。
「おつりとレシートです」
「は、はい」
しっかりとお金と紙を受け取って。
「またのご利用をお待ちして……お客様ぁー」
さっさと店を後にしようと思ったら、声がかかった。
「お品物、お忘れですよ」
「…………っっっ」
恥ずかしさで悶絶したのであった。
家に帰ってから、袋からそれを取り出す。
「これ……わたしの、おむつ……」
手に持っているのは、桃色のふわふわしたもの。いかにも「女の子向け」といった感じの、可愛らしいお姫様のようなイラストの描かれた、紙おむつ。
言い逃れできない。これは、私のおむつなんだ。
心臓のバクバクが止まらないまま、ゆっくりと下半身を覆うものを下ろす。
ピンクのハートのワンポイントが入ったスパッツ。膝くらいの丈のピンクのひらひらしたスカート。そして、ちょっと子供っぽい、薄い水色の、可愛い動物のあしらわれた布のパンツ。
最後の一枚を足から引き抜いたとき、もはや自分に逃げ道などないと悟った。
ああ、これから、夢にまで見た……おむつ、はいちゃうんだ。
一度床に置いたオヤスミパンツ。それを拾い上げて、横の部分を軽く広げていく。
そして、一呼吸して、腰をかがめて――それに足を通した瞬間、驚愕した。
「きもちいい……」
ふわりとした、まるで綿をそのままさわってるような感覚。
もう片足を通し、するすると腰まで引き上げる。
……すごい、まったくひっかからない。私が小柄なおかげ、だったのかもしれない。でも、その時はそんなことは考えられなかった。
しっかり腰まで、おへその下あたりまで引き上げると、その綿のようなふわふわがお尻をしっかりと包み込む。
こんなものを、赤ちゃんはずっと穿いてられるんだ。
それがすごく羨ましく感じて。
……このふわふわを、ずっと味わってたいな。
なんだか、おまたがきゅんとした、ような気がした。
スカートを穿きなおして、お水を飲みに台所に向かう。そこでコップ一杯の水を飲み、もう一度汲もうとしたときには……出なくなっていた。ついに断水が始まったらしい。
ということは、もうトイレは使えない。
……ああ、これからおしっこは全部ここにしないといけないんだ。もう後戻りはできない。
でも、あいにくお水を飲んですぐじゃおしっこは出てくれない。だから、しばらくテレビを見て時間を潰すことにして。
――一時間くらいが経った頃、チャンネルを適当に回してたら。
『はかせるおむつ、ムーミーマン♪』
おむつのCM。
どきりとした。自分の使っているものも、目の前の赤ちゃんが使っているものと同じようなものだということを、いまになって実感する。
そして、さらなるサプライズが私を襲う。
『たっぷりおしっこ、もらしません!』
『オヤスミパンツ♪』
まさか、自分がいま使っているものと同じおむつ。写っていたのは男の子用のものだったけれども。
しかし、私の胸は締め付けられるようだった。
「たっぷり、おしっこ……」
うわごとのように呟く言葉。
ああ、私って、たっぷりのおしっこをがまんできない、あかちゃんといっしょなんだ……。
心臓がぎゅうっと締め付けられて、悲鳴のようにバクバクと鼓動する。もはや、周りのことなんて見えていない。
「あぅ、ちっち、で、ちゃ……」
呂律は回らなくなって、おしっこの穴がひくひくとして――。
少しずつ、放出が始まった。
やってはいけない行為。はずかしいこと。おトイレじゃないのに、おしっこなんて、ほんとうはいけないのに。
だって、そのおトイレが使えないから。そうやって自分を正当化しても、到底この背徳感は拭えることはない。
否、むしろこの背徳感こそが、いまの私を恐ろしいほどに興奮させていた。そのとき、自分がいまどこにいるのかも、どんな顔で、どんな格好で、どんなことをしているのかも思い出せなくなっていた。
「ああ、わたし……おむちゅに、おも、ら、し……」
恍惚、茫然と、空中を見つめながら発した言葉が、いまの私のすべてで。
故に。
「ただいまー……え」
ドアの開く音に気が付いたころには手遅れ。目の前には買い物袋を床に落として口をあんぐりと開けたお母さんがいて。
自分はというと、小麦色に膨れた赤ちゃん用のおむつを見せびらかすように、いわゆるМ字開脚した状態で放尿しながら、顔面を蒼白にしたのであった。
「……なんであんなことしてたの?」
お母さんの質問に、私は無言で目を逸らす。
「怒らないから、言ってみて」
そんなこと言われても、恥ずかしいものは恥ずかしいもん。
でも、ひしひしと感じるプレッシャーに、私は耐えきれなくなって……涙が、一滴、二滴、やがて雨のようにあふれ出し。
ついには、声を上げて泣き出し――泣きながら、告げた。
「おむつが、すき、で……ずっと、したいって……だからっ……」
「よく言ったね。よしよし」
お母さんは、言いながら私を抱き寄せ。
私は、お母さんを抱きしめながら、しばらく泣き声を上げていた。
それから数日後。
「ただいまー!」
家の玄関を開けて声を上げ、ランドセルを放ると、お母さんが寄ってきて。
「もう、ランドセルは投げないって何度言ったら……」
「えー」
ちょっとしょげたような顔をして、私はふくれっ面。けれど、お母さんの次の言葉で、私は少し笑顔になる。
「……ちゃんとしないと、『アレ』、してあげないわよ?」
ドキリとして、赤くなった顔を見せないように「はぁい」と返事をして、私はランドセルを自分の部屋へと持って行った。
「ふふふ、こんなに大きくなっても、まだ赤ちゃんなのね」
「ちょ、からかわないでよぉ」
リビングに待っていたのは、一枚の紙おむつを持ったお母さん。傍らには、そのおむつのパッケージ。
お母さんがそれを買ってくれたのは、あのお漏らしのすぐ後のこと。一緒にドラッグストアに連れていかれて、選ばせてくれた。とっても恥ずかしかったけど……まあ、ちょっとした罰だって思うことにしている。それに、とってもかわいいやつを買ってもらえたのは、とってもうれしかったし。
「ほら、こっちおいで」
言いながら、お母さんはおむつを広げる。
ムーミーマンの赤ちゃんっぽい柄、そしてその内側のまっしろな吸収帯に胸をときめかせて。
「ほら、右足上げて」
不意に、懐かしい気持ち。
あのとき――おむつに恋したあの日も、車の前でこうやって穿かせてくれたんだっけ。その前、おむつが外れてなかった頃も、ずっと――。
胸があったかくなって。
「はい、出来上がりよ、おっきな赤ちゃん!」
ぽんぽんとお尻を叩かれた。
ふわふわ、もこもことした、綿のような感覚がお尻を包む。
ああ、とっても、しあわせ。
たまらなくなって、私はお母さんに抱き着いた。
「ママ、だいすき!」
「あらあら」
お母さんは笑いながら受け入れ、抱きしめる。
断水のせいで、私は赤ちゃんに戻っちゃったみたいだ。自分をさらけ出して、無邪気に笑えるような、そんな赤ちゃんに。
幸福感を胸いっぱいに抱きながら、私はお母さんの胸に顔をうずめて、全身から力を抜いた。
解き放たれたものは、静かにおむつを膨らまして。
それから、息を吐き、「にへへ」と幸せに満ちた笑みをこぼしたのだった。
*
初出:2021/02/21 小説家になろう・pixiv・ノベルアッププラス「雑多掌編集」
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