第1話 新人アリアの災難

 「やってられない。こんな事務所すぐに辞めてやる!」

急な上り坂を全速力で登る一匹の犬に引きずられるように走りながらアリアは叫ぶ。

所長のウキタが期待の新人にとっておきの仕事を任せるというから家から飛んできたのに。

「騙された。あのクソ所長」

任されたのは事務所で飼っている柴犬の散歩。

しかも散歩とは名ばかりの筋力トレーニングのような運動量。

「この犬、普段どんな訓練してるんだよ!」

もう坂を十往復しているのに息も荒れず次の走り出しを急かしてくる。

ようやく体がほぐれてきたところとでも思っていそうな爽やかな顔。

「ダメだ。限界だ」

崩れ落ちるように倒れ込み、肩で息をする。

酸素が足りない。大の字になったまま深呼吸した。

腕がもげそうな勢いで手綱を引っ張られているが体力の限界で動けない。

視界に広がる空は見渡す限りの青色。

明日もこの地獄のような走り込みが待っているなんて。

あんな所長の言うことなんて聞くんじゃなかった。

君にしか任せられない大切な仕事だとかふざけたことぬかしやがって。

心躍らせて呼び出しに応じた私が馬鹿だった。

「ボサボサの髪に胡散臭いひげ面。魚介類がびっしり描いてあるダッサい柄シャツ着やがって!」

「確かにダサいよなあのシャツ。磯臭そうだしナ」

「わかる」

「自分はかっこいいと思ってるけどサングラスも似合ってないしナ」

「めっちゃわかる。アフロにサングラスは本当に全然似合ってない」

「でもアリアと違ってウキタは勤務初日から俺についてくることできたゾ」

「マジかよ。あんなにヒョロヒョロのくせに体力の化け物なの?」

「いや、依頼内容に気がついてスケボーを持ってきていタ」

「ズルじゃん」

「深読みと考察ダ」

そういえばこの人やけに所長に詳しい。

あの人が勤務する前からいたような口ぶりだ。

確か所長は二十年のキャリアだと言っていたからそれより以前から勤めていたのだろうか。

声からすると若そうなのだが実は結構な歳なのか。謎は深まるばかり。

「あなたの名前は?」恐る恐る問う。

「ところでトレーニングは終了なのカ?」

もとより答えてはくれない気がしたので気にせず返答する。

「そうだね。走り込みはもう限界」

「実に残念だ。久しぶりに見込みのある奴かと思ったのニ」

「見込み?」

「頭脳明晰な名探偵になりたいんだろ。教えてやるヨ」

「えっ。かっこいい探偵になる方法教えてくれるの!」

急いで起き上がったが目の前には誰もいない。

「幻か」肩を落としながら小さくつぶやく。

「目の前にいる。夢でも幻でも妄想でもないゾ」

「現実ならどこにいるのよ」

周りを見回しても私に話しかけているような人は見当たらない。

「ここダ」

声のした方向を見ても散歩させている柴犬が小首を傾げているだけだ。

「どこに隠れてるの、その木の裏とか?」

木の周りを一周しても近くに人の姿はない。

「だからここだと言っているだろウ」

目の前に座る柴犬の口から声が聞こえた気がした。

どこかにマイクでもついているのかと全身を撫で回す。

「やめろ。くすぐったイ」

身を捩りながら笑う犬が目の前にいる。

犬が喋っている。信じられない事態を前に硬直してしまう。

痒みが治まった柴犬はアリアの正面に座り直し、神妙な面持ちで話し始めた。

「俺が喋っていることに気がついても叫ばないのは感心ダ」

叫ばないのではなく、叫ぶ気力もないのだが。

そんなことを伝える間も無く。

目の前にいる犬らしきものは凛々しい顔をしながら頷き。

やっぱり見込みがあると思って特訓に呼び出したのは正解だったと独りごちている。

目の錯覚だろうかと思い力強く両目を擦るが見えるものは変わらない。

柴犬が人の言葉を流暢に話している。

「目の錯覚じゃないゾ」

「心まで読めるの?」

「そう思っている顔をしていル」

単純な奴だと柴犬にため息を吐かれた。なんとなく腑に落ちない。

おかしいのは人語を話す犬の方なのに。

「あれぇ君たち、もう仲良くなったのかい」

陽光を遮る黒い毛玉。鮮やかな海鮮の泳ぐ開襟シャツ。

「所長がどうしてここに」

目を見開いてサングラスの向こうに隠れている感情を読み取ろうとするが全くわからない。

「僕がここにきた理由が検討もつかないって顔をしているね」

「所長も心が読めるんですか」

「君の表情は雄弁だね」

「いいこと言っている風ですけど、私のこと貶してますね」

「バレた?」

「人としては好感が持てるけど探偵としては、その表情の豊かさは減点対象だね」

相手に考えが筒抜けだよねと柴犬と頷き合っている。

信じがたい光景だ。

少しの間に私の知っているこの世の常識が大きな音を立てて崩れ落ちてきている。

所長は柴犬を抱き抱え説明を始めた。

「この子はうちで飼っている犬ではなくて、事務所のエース探偵。オアゲ君です」

「オアゲだ。よろしくナ」

お手だろうか。前足を差し出してきている。

「お手じゃないゾ。握手ダ」

「あぁ握手か。こちらこそよろしくです」

「よろしくお願いしますだロ」

「よろしくお願いいたします。オアゲ先輩」

アリアは所長のウキタと柴犬探偵のオアゲの顔を見比べ首を横に振った。

柴犬がエースの探偵事務所ってなんだ。私は職場選びに失敗したのかもしれない。


 地獄の急坂の十往復は事件調査の一環だったとウキタ所長が言っていた。

犯人の痕跡を探すために柴犬のオアゲの嗅覚を使い証拠の探索をしていたそうだ。

一匹でウロウロしていては野犬か迷子犬と間違われてしまい、

保健所に連れて行かれてしまうので飼い主のふりをすることが期待の新人の仕事。

つまり調査が完了するまであの走り込みは続くのか。絶望だ。

「たった十往復くらいで音を上げたのカ」

「四足の脚力と同じだとは思わないで欲しいですね先輩」

「先輩か。やっぱり君を選んで正解だっタ」

「どういう意味でしょうか」

「なんでもないヨ。後輩」

「そうですか。まぁ別に答えてくれなくてもいいですけど」

「今回は調査も兼ねていたが、体力づくりは毎日行うゾ」

「あの走り込みは毎日やるってことですか」

「当たり前だろう。そんなことより、事件について君にも詳細を話しておこうと思ってネ」

「そんなことって簡単に言いますけど、私にとっては重要ですよ」

アリアの弱音を無視して柴犬は流暢に調査の概要について説明を始める。

今回の調査対象者はイジマという名前の男。

イジマはエトウ夫妻の経営する商店に盗みに入り、現金と宝石類を持ち出した。

乱雑な犯行だったためすぐに逮捕され現在服役中。

逮捕が早かったこともありほとんど全てのものがエトウ夫妻の元に戻されたが、

唯一行方がわからなくなってしまったものがあった。

今年九十になる夫妻が七十年前、奥様への婚約の際に送った指輪だけが見つからないのだ。

夫妻は被害届を出しているが、イジマは売った中に指輪はなかったと言っている。

血のように濃く赤い珊瑚が印象的な夫婦の愛の証。

犯人が逮捕されたことで捜査は終了してしまい。

指輪のためだけに時間は割けないと警察は手を引いたため夫婦は探偵を頼った。

牢の中にいるイジマの痕跡が完全になくなってしまう前に指輪を見つけ出す。

そのために駆り出されたのがウキタ探偵事務所のエース柴犬のオアゲだった。

「というわけダ」

「自分のことを自分でエースって言うのちょっとどうかと思いますけどね」

「本当のことを言って何が悪イ」

「まぁウキタ所長よりは有能そうですけど」

「当たり前ダ」

手綱を咥えオアゲは調査への出発を急かす。

「わかりましたよ。飼い主のふり頑張ります」

「精進したまエ」

犬に教えを乞うなんて世も末だ。あぁ今日も空は綺麗な青色だな。

「現実逃避しないで仕事しロ」

「はい、喜んで仕事させていただきます」

今度は目撃者への事情聴取を行うとのことだったはずなのに。

ここはどこだろう。

「この公園に情報提供者がいル」

「どなたでしょうか。見渡す限りそれらしい人はいないみたいですけど」

猫がベンチの上で日向ぼっこしていて、雀が花壇の縁に数羽止まり囀っている。

特筆することのない朝の公園といった感じだ。

「あの茶トラと雀たちダ」

「猫と鳥?」

動物からどうやって話を聞くつもりなんだ。

「俺も犬だから動物だゾ」

「そうだった忘れてた。先輩は柴犬だった」

犬なのに私のことを憐れんでいるのがわかる。結構傷つく。

可哀想なものを見る目に打ちひしがれている間に、

オアゲ先輩は茶トラの猫と雀たちから話を聞いたらしい。

「茶トラはエトウ宅から逃げる犯人の姿を目撃したそうダ」

「でも犯人はもう捕まっているから意味ないんじゃ」

「続きがあル。逃げる時にきらりと光る何かが抱きしめた鞄から落ちタ」

「光る何かって。それは」

「そう。それが珊瑚の指輪の可能性が高イ」

「じゃあ家の近くに落ちているかもしれないですね」

「それはなイ」

「なぜですか。だってそこで落ちたなら」

「雀の証言が違うことを裏付けていル」

「雀はなんて言ったんですか」

「大きな黒い影がキラキラしたものを持って行ってしまったようダ」

「黒い影?」

「鳥だから夕闇の中の何かまでは確認できなかっタ」

「鳥目だから」

「影が去るとき急な突風が吹いたそうダ」

「強い風?」

「証拠は揃った。帰るゾ」

指輪の居場所は特定できたとオアゲ先輩が言うので事務所に戻ることに。


 「さすが我が事務所のエース。たった数時間で指輪の居場所を見つけたんだそうだね」

嬉しそうに頷くとブラックホールのようなアフロが小刻みに揺れる。

「これから真犯人のところに行ってくル」

「気をつけて行ってらっしゃい」

「犬とアフロの新婚夫婦。っふふ」

「何笑ってル」

「なんでもありません」

何も説明されず脚立とバケツを所長から手渡された。

「これは一体?」

「すぐわかル」

「消毒液はたっぷり用意してあるからしっかり働いてこいよ新人」

「消毒液って何ですか。誰かが怪我する予定でもあるみたいな」

「行くゾ」

追い立てられるように事務所を出る。

黙々と先輩の揺れるお尻を目で追いかけていると数分で到着した。

目的地はエトウ夫妻の店の近く、こじんまりとした遊具もない静かな公園。

手入れの行き届いたふわふわの尻尾を触りたい欲求に抗いながら神妙な面持ちで説明を待つ。

「バケツをかぶって脚立に登レ」

確かにすぐにわかるとは言っていたけれどそんな曖昧な指示が来るなんて思ってもみなかった。

「痛いっ痛いって。降参!降参です。許してぇ!」

「ここに指輪があル」と言われるがまま、木に立てかけた脚立を登る。

バケツを帽子のようにかぶり、そっと覗くと確かにそこには赤い珊瑚の指輪があった。

「指輪を盗んだ犯人はその木に巣があるカラスダ」

「カラスが犯人なんですか」

「光るものが好きな黒い影。急な風は飛び去った影響だろウ」

「確かに証言に合いますけど、でも」

「巣の中に指輪、あるだロ」

「あります。ありますけど」

「さっさと回収しロ」

「絶対もっと穏便な方法があったはずだと思うんですけど」

子育て中の巣の中に腕を突っ込むなんて正気の沙汰じゃない、流血を覚悟しなければ。

所長の用意していた大量の傷薬や絆創膏はこのためだったに違いない。

わかっていたのに誰も教えてくれないなんて酷い人たちだ。

「酷い人とでも考えているようだが、人は所長だけ俺は犬だゾ」

「心の中読まないでもらっていいですか」

「無理だナ。働け新人」

悔しいけどオアゲ先輩には口では勝てない。

潔く諦めてエトウ夫妻のためだと思って仕事をすることにした。

頭にバケツをかぶって、顔だけでも無傷で帰ることができるように祈ろう。

「痛いっ痛いって。降参!降参です。許してぇ!ごめんなさい。謝りますから許してぇ!」

巣を荒らされたカラスの襲撃にあい傷だらけで戻る。

「指輪を夫妻に返しに行こウ」

頑張ったのに。柴犬ですら褒めてくれない。

涙を堪えながらオアゲの尻尾を見つめながら事務所に帰る。

扉を開けた瞬間、エトウ夫婦に抱きしめられた。

「ありがとうございます。指輪を見つけて下さったそうで」

「ほんにありがたい。あんさんはうちらの女神じゃ」

心の底から安堵した表情。花が咲くような空気が事務所に充満していた。

「探偵さんに頼んでよかった。よかったのう婆さん」

「えぇよかった。二人の思い出を守って下さった」

涙を流し喜ぶ夫婦に感化されたのかアリアは嬉しくて泣いた。

やっぱり探偵になって良かった。

「良かったナ、アリア」

「二人ともお疲れ様。はいアリアちゃんには傷薬」

「ありがとうございます。これからも頑張るのでよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくナ」


 ー翌日ー

「ほら早く走れ。この程度じゃ筋肉がつかないゾ」

「頑張って走らないと、良い探偵になりたいんだろ」

急な上り坂を全速力で登るオアゲに引きずられるアリアは叫ぶ。

「やってられない。やっぱりこんな事務所すぐ辞めてやるぅ!」

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