028 新たなる世界へ


 鈍い意識はまどろみの中で覚醒し、空の青さがキッカの目覚めを照らし出す。深緑の葉の隙間から見える雲が、呑気に流れていた。鼻孔を刺激する植物の香りが、気怠い神経を優しく解してくれる。


「……おい」


 甲高い呼び声とともに、ヘンテコな生き物が視界を覆った。ぺしぺしと、短い手でキッカの頬を叩く。


「おい……起きろ。本当に寝てるのか? ……ん? もしかして、今ならこいつ、喰えんのかな? うひょー、うまそー!」


「あ……?」


 舐められたような気がしたキッカは、本能的に拳を振るっていた。


「ぶへぇっ!?」


 汚い悲鳴とともに、べちゃりと地面に落下した。寝ぼけたままでも、中々の鋭さである。


「痛ってぇええええ!! じょ、冗談だよ冗談! 今更、私がお前に逆らうかよ……!」


「……なんだ、えーっと……ヤギ太郎か。ったく、なんでこんなところで――」


 遅れて、水鏡による爆発を思い出した。緩みきっていた本能が、すぐさま警戒態勢を取らせる。


「――!? フェリエル? シューカ? なんだ、ここは……!?」


 信じられないほど美しい草木に包まれた、魅惑の光景が視界に飛び込んできた。宝石を散りばめられたような輝きは、キッカの知る世界には存在しないものだ。これが、森? 新緑とは、ここまで美しく育まれるものなのか。


「おい、てめぇ。とっとと説明しやがれ! 一体、何が起きた……?」


 キッカはすぐに、ヤギ太郎の首根っこをつかんだ。


「……し、知らねえよ、私だって……巻き込まれた側だ……!」


 目をそらしながら、ヤギ太郎は言う。


「だけど……何が起きたかだけは、わかる。怒らないで聞いてくれるか?」


「ああ」


 即答したキッカの眼差しが、ヤギ太郎を捉える。唾をごくりと飲み込んで、ゆっくりと口を開いた。


「――異世界転移だ」


「は?」


 キッカは、耳を疑った。


「あれは、この世ならざる化物が生み出した禁断の秘術だよ。水鏡は、この世ではない別の世界に対象を転移させる」


「……冗談を言っているわけじゃなさそうだな」


「当たり前だろ! しかも、座標や時間軸すら指定してねぇから、どこに飛んだかすら検討もつかねぇ。ああ、畜生……! こんな状態で飛ばされるなんて、最悪だ……!!」


 シューカの術式によって魔素を喰らい尽くされたヤギ太郎は、脆弱な存在に成り果てていた。かつての力は、ほとんど失われている。


「……異世界転移」


 限られた情報を踏まえて、キッカはすぐに立ち上がった。考えていても仕方がない。あらゆる疑問を一旦は保留して、行動することを選んだ。


「行くぞ、ヤギ太郎」


 その決断は、誰よりも早く。


「ど、どこに行くんだよ……? ここはもう、お前の知っている場所じゃねえんだぞ?」


「決まってんだろ」


 迷っていたところで、事態が好転するわけがない。


「――シューカとフェリエルを、探しに行く。巻き込んだオレの責任だからな」


 水鏡の封印を破ったのも、瘴気領域に行きたいと言い出したのも、キッカ自身。興味本位に引っ張られた行動が、まさかこんなことになるとは思いもよらなかった。じんわりと胸の内に広がる終わりなき後悔。もし、彼女たちに何かあったらと思うと、心はどこまでも沈んでいく。


「……大丈夫だ」


 だが、キッカはそれでも俯くことはない。心配する一方で、二人を信頼していた。あの二人ならば、簡単にやられることはないだろう。早く迎えに行かなければと、瞳は前を向いていた。


「……この世界に飛ばされたとは、限らねえぞ」


「関係ねえよ」


 獣道へと歩を進めながら、キッカは言う。


「どこにいようが、必ず見つけ出す」


 そしてキッカは、見知らぬ森の奥へと進み始めた。



 ◆



 キッカとヤギ太郎(キッカの適当な呼び方がそのまま定着した)がどれほど森を進もうとも、目の前に広がる風景は代わり映えしなかった。脈打つ大樹に囲われた森は一見して美しく見えるのだが、その実とても不穏だとキッカは感じていた。


「……魔物の体内にいるみたいだな」


「た、体内!?」


 地に足を付けて、歩を進めるキッカ。足の裏から伝わる感触が、いつもとは全く違う。どくん、どくんと、血管が脈打つような感覚がする。


「こ、怖いこと言うなよな! ちゃんと私のこと、守ってくれよ!?」


「うるせえなぁ」


 キッカの方にしがみつきながら、ヤギ太郎は懇願する。


「それよりもお前……本当に何も分かんねえんだろうな?」


「当たり前だろ! 少しは信じろ!」


 道中、キッカは何度もヤギ太郎に水鏡のことや、魔人の目的を聞き出そうとしていた。だが、ヤギ太郎から引き出せる情報は殆どなく、ろくに役に立たなかった。


「使えねえなぁ」


 元の世界に戻れるかどうかすら不明。そもそもここがどこだかわからない以上、一寸先は闇であった。だが、キッカは動じることはない。ここへ転移できた以上、帰る手段もあるだろうと。


 気がかりなのは、シューカとの間に結ばれた『血盟』のことだった。ナイトメア襲撃以降、繋がりを結んだ姉妹は、ある程度互いに感覚を共有していた。大まかな位置であれば離れていても把握できていたし、シューカの身に危険が迫れば虫の知らせのように伝わった。


 その二人の繋がりが、今はまるで機能していないのだ。シューカの存在が、どこにも感じられない。


「……この世界とは、別の世界に飛ばされちまったってことか」


 気が遠くなりそうな可能性だと、現状の辛辣さに嘆いていた時。


 ふと、音がした。

 真後ろの茂みをかき分けて、何者かが勢いよく現れる。


「……イノシシ、か?」


 ヤギ太郎が、胸を撫で下ろしながら安堵した。


 だが、キッカは見逃さない。


「違う」


 瞬きする間もなく、ヤギ太郎の背後に銃口を向けた。


「――後ろだ」


 本命を捕捉した銃口は、爆音とともに跳ね上がる。


 ――BANG! BANG! BANG!


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!!!!!!」


 咄嗟の判断だった。

 イノシシに気を取られていたヤギ太郎の背後を、人型のナイトメアが襲いかかっていた。音もなく、気配もなく、森の息吹に隠れながら接近していたのだ。


「ひええええええええっ!?」


「……こんなとこにも、こいつは湧いてくるのかよ」


 引き金を引いたのは、早計だったかもしれないと唇を噛む。銃は強力だが、発砲音は良くない。何者かがここにいると、森に教えてしまった。


「き、キッカ……!」


「わかっている!」


 新手が来たことを、二人は同時に察知した。目にも留まらぬ速さで対象を捕捉したキッカは、無防備を晒す二人の後頭部に銃口を突き付ける。


「――動くな」


「……っ!」


「え……!」


 ナイトメアでは、なかった。だが、人間でもない。


「な、何……? どうして、え……?」


 大きな九つの尻尾が、まず目に入る。琥珀色の眼差しが、怯えて揺れていた。一見して無表情に見えるが、ぴくぴくと狐耳が反応している。表情よりも、そちらの方が感情を露わにさせていた。


 ――妖狐。


 人類と対立する、魔族の少女だ。


「わ、わ、わああああああああっ……!!」


 もう一人の青年は、大きな翼を背中に広げながら、大量の羽毛に覆われていた。ぐるぐると目を回しながら、命を握られたことでパニックを起こしている。


 ――鳥人族。


 こちらもまた、妖狐とは別の魔族だった。


「……こいつは、驚いた」


 キッカはまだ、魔族というものを見たことがなかった。彼らは歴史上の存在とされており、グアドスコン王国では遠い過去に観測されたのを最後に、魔族は絶滅したとされていた。


 だが、驚いたのはキッカだけではなかった。


「……嘘」


 妖狐の少女が、キッカを見て言葉を零す。


「人間……? 初めて、見たです……」


「ええええええええ!!??」


 少女の言葉に、鳥人族の青年は泡を吹いて気絶した。振りではなく、本当に気を失っている。え?


「……参ったな」


 冷や汗を浮かべながら、キッカは笑うしかなかった。


 彼女の言葉が真実なら――この世界には、キッカの敵しかいないということになる。


 人間と魔族。

 理解し合えぬ種族同士は血で血を洗う戦いを繰り広げる。果たして、この世界の魔族は自分をどう解釈する? キッカの常識では――魔族は、人間を殺したくて仕方がないはずだ。


「…………」


「…………」


 妖狐と人間、互いの視線が交錯する。

 引き金に触れる指が、答えを出せないまま沈黙に揺れていた。先手を取ったが、これで片がつく程魔族は弱いのか? 否、追い詰められたふりをしている可能性が高い。


 互いの緊張が、ひしひしと伝わる。

 最初の一言を間違えれば、戦闘に直結する。相手もそれを理解しているから、微動だにしない。抵抗するわけでもなく、服従するわけでもなく、次の一手を探っていた。


 静寂を破ったのは、人間でも魔族でもなかった。


 先程キッカが撃ち抜いたナイトメアが、音もなく立ち上がり、妖狐の少女に襲いかかっていた。妖狐の少女は、ナイトメアが生きていることに気が付いていない。こちらに集中して、真後ろに迫る脅威に無防備を晒す。


「ガアアアアアアアア!!!」


「ちっ」


 咄嗟に、キッカは狙いを変えていた。


 ――BANG!


 キッカの弾丸をもろに喰らったナイトメアは、遥か後方まで吹き飛ばされていく。


「……え?」


 呆気にとられていた少女は、狙いを変えたキッカを攻撃することもせず、後ろを振り返った。どこまでも甘い少女だ。人間であるキッカに背を向けるだなんて。相手の力量を把握したキッカは、続いて妖狐の少女を制圧しようと重心を傾ける。


「待て」


 だが。


 気絶していたはずの青年が、キッカの背後を取っていた。


「一言、聞け」


 鋭い殺意に、自然と身体が動いていた。腰をひねり、軸足を逆の足に切り替えてからの、変則的な後ろ回し蹴り。殺意に対して、殺意で切り返す。鳥人族の青年の首を刈り取る、容赦ない一撃は――


「……!」


 達人の所作の如く、流れるような速さで前かがみに回避する。大技を、見事に避けられてしまった。隙だらけの状態に、危機感を覚えたキッカは、歯を食いしばって反撃に備えたが。


「――命だけはぁあああああああああ、助けてくださぁぁあぁぁぁあああああい」


「……は?」


 意図的に、回避したわけではなかった。勢いよく土下座をしようとした結果、運良く避けただけである。情けない声を上げながら、地面に頭を擦り付ける鳥人族の青年。あまりにも美しい土下座の姿勢は、彼らに抵抗の意志がないことを示していた。


「どぉぉおおおか! 寛大なご配慮をいただければとぉおおおおおおおおお!!」


「……お、おう……」


 これほど気合の入った命乞いは、キッカも初めて見た。だが、その選択はとても正しい。ここまでされてしまえば、毒気は抜かれる。もはやキッカに、戦闘の意志はなかった。


「……敵対する意志はないです。どうか、武器を収めていただけますか」


 方や妖狐の少女は、緊張した面持ちで白旗をあげた。


「わかった」


 二人の力量を確かめたキッカは、大人しく武装解除する。彼女の言葉を信じたわけではない。二人の実力が、取るに足らないと判断したのだ。脅威でないのなら、急いで殺す必要もない。


「いやったあああああああ!! 助かったああああああ!!!!!!」


 キッカが武器を収めた後も、地面に額をこすり続ける。このまま、靴でも舐めそうな勢いだ。


「ださ……」


 容赦のない一言が、妖狐の少女から飛び出していた。薄っすらとした笑みが、キッカと同時に沸き起こる。


「キッカ・ヘイケラーだ」


「……ニールです」


 互いに名乗り合って、敵対心を緩和する。


「ロアでございますうううううううううううう!!」


「うるせえ」


 敵対だけは避けられたことに、ひとまずキッカは胸を撫で下ろした。

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