花粉症を殺すシカ

もちもちおさる

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 まだ雪が気まぐれに点々と残っている中、春の匂いも近づく頃だった。花粉症撲滅委員会というものの存在を、シカはそのとき初めて知った。「対策」委員会ではないのかな、と思う間もなく、その言葉は猟銃の如く突きつけられた。

「スギの木を殺せ。その次はヒノキだ。わかったな」

 ガスマスクとゴーグルで顔を覆い、真っ黒な作業着を身につけたその人間にそう言われ、シカは初めて知った。こんなに恐ろしい人間がいるのだと。くぐもった、静かな怒りに滲む声を聞いて、シカは震えた。きっと、「スギ」というのを「殺す」しなければ、ぼくがそうなってしまうのだ。


 お母さんが言っていた。人間というのは恐ろしい生き物だと。あるところでは、シカに優しい人間がたくさんいるのだけど、その人たちは結局、シカをただの見世物としか思っていなくて、いざとなったときには見捨てられてしまうのだ、それは偽りの、一時的な優しさに過ぎないのだと教えてくれた。そうだとしても、ぼくたちに優しくしてくれた事実は変わらないし、それがぼくたちの大切な何かを支えてくれたんじゃないかとシカは思った。思ったけれど、口には出さず、その「優しいところ」に行く気にもなれなかった。人間が優しくても、そこにいるシカが優しいとは限らないからだ。

 シカはただのニホンジカだった。まだ大人になりたてで、立派な角に憧れを抱く年ごろだった。専門職の人間しか立ち入らない山の中で、人間をよく知らずに生きてきた。お母さんは、シカに教えるべきことを全て教える前に、どこかへ行ってしまった。「優しいところ」に行ってしまったのかもしれない。だけれど、なんでぼくを連れて行かなかったのだろう。それが幸せだとは、必ずしも限らないからじゃないの。シカの友達であるうさぎはそう言った。

 そんなうさぎは突然飛び上がって走り出し、シカは一匹、取り残されてしまった。いや、わざと取り残されたのだ。だってあんな人間を見たことがなかった。山を、自然を、全てを憎んでいるかのように真っ黒な人間を。人間はシカに向かってガサガサと音を立てて歩き、不気味な呼吸音とともに「花粉症撲滅委員会」と名乗った。何か他に長い役職名と名前を言った気がするけれど、シカはもう思い出せなかった。「スギの木を殺せ」とは、どういうことだろう。シカは角の無い頭で考える。


 もう一つ、お母さんが言っていた。人間というのはかわいそうなんだと。辛い冬が明けた後の春は暖かくて、命が生まれて、そよ風も緑も全てが素晴しくてみんなが幸せになる季節だけれど、人間にとっては違うらしい。人間はみな等しく、春の「花粉症」というものに悩まされていて、春を憎むようになってしまったらしい。だから「かわいそう」なんだ。シカはぼんやり思った。あんなに穏やかな春を憎むようになってしまうなんて、一体、どんな悪いことをしたんだろう。うさぎは言った。

「ぼくは知ってるよ。人間はね、ぼくのお父さんを捕まえてパイにしちゃったんだ」

 シカはよくわからなかった。だったら、きみを追いかけるきつねも悪いことになるし、ぼくらだって悪いことになるよ、たぶん。うさぎは少しだけ考えて、

「悪いことだよ。少なくとも、ぼくにとっては」

 うさぎはそれ以上、何も言わなかった。


 「スギ」というのを「殺す」ということは、きっと「花粉症」のためなんだろう。それは悪いことなの? それとも、そうすることで人間の悪いことがなくなるの? 真っ黒な人間は言った。

「何が良いことで悪いことなのか。我々はとうに諦めた。おまえも好きにしろ」

 「好きにしろ」とは、どういうことだろう。人間は少しだけ語気を和らげた気がした。だけど、

「いいか、この山はじきに焼き払われる。これはおまえたちの問題でもあるんだ」

 「焼き払われる」? あの恐ろしい火で焼かれて、ぼろぼろの粉々の真っ黒になってしまうこと? この山を、みんなを? どうして。「スギ」というのがいるから? でもそんなことしたらぼくたちは、うさぎは、お母さんは、みんななくなって、ああそうだ、シカはやっと思い出した。

 「スギの木」とは、この山にある全ての木のことだ。


 誰かが言った。「なぜ日本中のスギの木を伐採しないのか」。「こんなにも苦しんでいるのに」。花粉症に苦しむ人々は考えた。なぜ我々が耐えねばならないのか。もはや自然との共存は難しいのではないか。その人々の中でもひときわ苦しむ人々は考えた。何かが、敵を都合よく滅ぼしてはくれないだろうか。この「都合よく」というのは、人間がみな納得して妥協できるような、そんな「言い訳」のことだった。この国が本当の意味で一つになるまでには、あまりに時間がかかりすぎる。

 シカがまさに、その「言い訳」だった。シカがスギの苗木を食べ、枝葉を食べ、樹皮を食べ、角で幹を削る。「森林被害」だと、真っ黒な人間は言った。それは悪いことのように聞こえた。でも、ぼくたちは悪いことと気づかずに行ってきたらしい。悪いことをした人間は言った。おまえたちがそうしなければ、もっと恐ろしい「悪いこと」がおまえたちに降りかかるのだと。そんなふうなことを言った。シカは気づいた。ぼくたちは、人間は、みんな悪いことをしているのだと。そうだ、共犯と言うのだ。罪と呼ぶのだ。


 シカは、仲間たちが人間に捕まっているのを見たことがあった。しかし、それは遠い昔のこと。人間はシカに優しくなったのかもしれない。いいや、お母さんが言っていた。それは偽りの、一時的な優しさに過ぎないのだと。だけれどそれによって、シカたちは平和に増えていった。シカが増えれば、それだけ食べ物が必要になる。飢えた者は木の芽まで掘り起こして食べるようになる。

 この山のシカは、花粉症撲滅委員会と契約を結んだ。結ばされた。シカがスギの木を「殺す」代わりに、害獣駆除(とても悲しいことよ、とお母さんが言っていた)と恐ろしい火を放つことをやめてくれるそうだ。他のシカたちはそれぞれ、好きなようにした。従う者もいれば、逃げ出す者もいた。シカと争う者もいた。シカは泣きたくなるような気持ちで戦った。

 スギの木がいなくならなかったら、スギの木を殺さなかったら、みんななくなってしまうんだと思いながら足を踏みしめた。草を食んだ。それから木の根まで掘り起こして、木の皮まで引っ剥がした。枝葉を折った。硬くて歯が痺れても、必死に食らいついた。「殺す」というのがどういうことなのか、あまりよくわからなかったけれど、きっと辛いことなんだ、だからこんなに痛いんだ、と思った。


 それから、一年が過ぎた。また春が来る。

 その前の冬は、今までよりずっと辛く厳しいものだった。周りの山は全て焼けてしまったからだ。他からやってくる動物も草木も、全て焼けてしまったからだ。不運で不幸な山火事によって。真っ黒な人間がそう言うのだから、彼らにとってはそうなのだろう。少なくとも。

 友達のうさぎの毛は、真っ白なままだった。冬毛にはえかわって、それから春に向け、夏毛になることはなかった。眠ったまま起きることはなかったからだ。シカは幼い頃、氷の張った湖の上で、うさぎと滑って遊んだことを思い出した。シカの蹄はつるつる滑ってしまって、すてんと転んだところで、滑りの上手いうさぎは不思議そうに首を傾げていた。どうしてできないの、と。いつか見返してやるんだと思っていたのに、ぼくはもう氷の上を滑ることができなくて、割れたその下で冷たい湖に抱かれることしかできないのだ。きっと心臓が凍りついてしまうのだ。何かを失うたびに、そうして心が凍っていく気がする。ぼくでさえそう思うのだから、あの人間の心は一体どうなってしまったのだろう。

 悪いことを悪いことだと思ってするのと、そう思わずに、もしくは気づかずにするのとでは、だいぶ違う。シカは半分気づいていて、もう半分は気づかないフリをしていた。でも、いつかはそのもう半分と向き合わなねばならないのだ。だって季節は巡るのだから。

 スギの木のほとんどは枯れ果て、別の木々、人間にとっては「無害」なものに取って代わられた。硬くて味の無い、木の形をした何かだった。シカはまだ雪の残る、枯葉の絨毯をしばらく見つめ、顔を上げた。去年の今頃と変わらぬ光景があった。高い木々の隙間から光が差し込み、それを照らしている。

 真っ黒な、それを。


「やあ、」

 かつての真っ黒な人間は、随分小さく見えた。声も、随分柔らかく聞こえた。そうだ、ガスマスクをしていないのだ。

「おまえたちが好きにしてくれたお陰で、こちらは大変助かってね」

 人間は話しながら、ゴーグルや防護服を脱ぎ捨てる。

「もう、こんなのはいらないんだ。花粉症はなくなったからね」

 そう語る人間の姿は、オオカミのような牙も無ければ、クマよりもずっと小さく、鋭い爪も角も、厚い毛皮すらも無かった。凶悪さの欠けらも無い、うさぎのように至って大人しく無害そうな、普通の顔をしていた。

「スギの木を、花粉症を殺したんだ」

 そう言われ、シカはハッとした。やっと終わったのだ。だけれど、終わったとて、ぼくたちはどうなるのだろう。また次の「花粉症」とやらが出てきたら、ぼくたちはまた、何かを殺さないといけないのだろうか。何を? だって、だって、


 もうここには、何も無いじゃないか。


 一時的な優しさで、一時的な平和なんだ。でももう誰も戻ってこないし、スギの木は帰ってこない。春はまた巡ってくるけれど、いや、ここに春は来るのだろうか? 一見、何も変わらない景色のようだけれど。そこには、命が無い。

 ああ違う。こんなのは、ぼくの見たかった景色じゃない。ぼくが殺してしまったんだ。ぼくが、ぼくが。シカは、顔に全ての熱が集まっているように感じた。それから頭にずんとした重さを感じて、足をどうにか踏みしめた。人間は言う。

「なんだ、おまえは他のとは違うようだったのに。母親と同じことを言うのだな」

 それは、笑っていた。ああそうか、そうなんだ。お母さん、お母さん、お母さん、


 お母さんを、おまえが、お母さんが、お母さんが!


 全身の血が沸騰したように、熱く燃えた。シカは全てを思い出した。お母さんがどこかに行ってしまったのではない。ぼくが、ぼくがはぐれてしまったのだ。逃げてしまったのだ。生かされたのだ。お母さんの優しいアーモンド色の瞳を思い出した。雷の日の夜、お腹の下に潜り込んだ、その温かさを思い出した。お母さんが最後に教えてくれたのは、紛れもない愛だと気づいた。そうだ、ぼくは凍ってしまっていた。

 シカは頭を低く下げ、力強く地面を蹴った。

 ああなんて、かわいそうな人間!


 シカの角は、シカが思っているよりもずっとずっと、大きく、硬く、鋭くなっていた。それは人間の柔らかい腹を貫き、鉄の臭いが辺りに漂った。シカが角を引き抜くと、人間は低くうめいて、

「お前に解るものか、この苦しみが」

 静かにそう呟くと、倒れて動かなくなった。シカはそれを見ることができなかった。けれど、いつかは向き合わなねばならないのだ。いつかは。それまでは、この頭の重さを抱えて生きねばならないのだ。偽りの木々も、命も、平穏も、いつかは。

「もうこれで、誰も殺さなくていいのかな」

 シカは顔を上げた。空は気の抜けるような青だった。静かな陽の光が、痩せた枝葉を包み込むように差している。木漏れ日になるはずの光だった。風が鉄の臭いを運んでいく。春の匂いがする。

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花粉症を殺すシカ もちもちおさる @Nukosan_nerune

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