第49話 アステレード領 大公爵



 船に揺られて早くも二日が経った。ディートヘルムによればそろそろ港が見えてくる頃らしい。

 穏やかな波の中を逆らうようにして魔法船の針路はまっすぐアステレード領を目指している。


(やっぱり海上だから、ほとんどが水の精霊だな)


 意識して目を凝らすと、水の精霊の光は飛沫に混じって色んなところに飛んでいる。そしてアナスタシアの存在に気がつくと、近寄ってきて挨拶するように輝きを強くした。

 人目につかないところでは手に乗せて触れ合いも楽しんだ。一貫しているのは皆アナスタシアに好意的ということだった。


「見て、ルル。今日も海が綺麗だよ」


 アナスタシアは部屋から持ってきていた装飾箱の蓋を開ける。

 そこには聖獣の卵が収まっており、柔らかなクッションに包まれ大切に仕舞われていた。


(シロちゃんは気が向いたら声をかけてやれって言っていたけど。こういうことでいいんだよね?)


 白きドラゴンの話によれば、聖獣の卵は成長するに連れて大きくなるという。話しかけることや外を見せてやることも重要らしい。

 それを聞いたアナスタシアは、たとえ卵の姿であっても変わらずこれまでと同じように接しようと決めていた。


「喉は乾いていないか?」


 ルル(卵)に景色を見せていると、肩をトンッと叩かれる。

 全く感じなかった気配に振り返ると、そこには二つのグラスを持つディートヘルムが立っていた。


「ルム! びっくりした、いつからそこに?」

「んー……たった今かな。はい、これ差し入れ」


 ディートヘルムはグラスをアナスタシアに手渡す。

 縦に長い透明なグラスの中には、しゅわしゅわと空気の粒が動く鮮やかな青色の液体と、白くて丸い物が絶妙なバランスで浮かんでいる。

 その冴えた青は目の前に広がる海をそのまま閉じ込めたように美しく眩しい。

 思いもよらない差し入れに目を奪われながらも、白い物体が徐々に溶けだしていることに気づいてアナスタシアは目を丸くした。


「これはなに?」

「去年の夏あたりから帝都で流行っていたジュースだ。この白いのはアイスクリーム。今日は日差しが強くて暑いだろうからと料理長が作ってくれたんだ」

「アイスクリーム……」


 聞いたことがあるような。けれど見たことも食べたこともないというのはわかる。

 まじまじと観察しているわずかな時間にも、アイスクリームとやらは溶けて青色のジュースと混ざり合っていた。


「まずは一口どうぞ」


 ディートヘルムは持ち手の長いスプーンを渡してくる。何事も挑戦だとアナスタシアはアイスクリームを慎重に掬って口の中に入れた。


「……!」


 口内に広がるひんやりとした不思議な食感と優しい甘み。

 アナスタシアは緑色の瞳を大きく見開き、表情を緩めると次の瞬間には笑顔をほころばせた。


「どう?」

「うん、冷たくて美味しい。気温が高い日にぴったりだね」

「気に入ってもらえたようでよかった。……じゃあ、ジュースも飲んでみて」

「……? うん」


 どこかいたずらっ子のような笑みを浮かべるディートヘルムに頷き、アナスタシアは疑いもなくジュースに口をつける。

 液体が舌に触れると、ピリリと何かが弾ける感覚にギョッとした。


「痛っ……くない? え? なにこれ、痺れ……ううん、違う、なんだかパチパチ破裂しているような」

「……ふ、くく、破裂……物騒な表現だな」

「ルム?」


 隣で笑いを堪えているルムを少しだけじろりと一瞥する。

 どうりで口にジュースを含むアナスタシアの様子をじっくり見つめていたわけだ。この反応を待っていたのだろう。

 変なところで子供のような人だと思いながら、アナスタシアはディートヘルムからジュースの説明を受けた。しゅわしゅわの正体はゼナンクロム帝国の南領にある鉱泉から湧き出る天然発泡飲料なのだという。

 慣れない舌触りだが、かなり癖になる。

 アナスタシアはゆっくりと鮮やかな色の発泡ジュースを堪能した。



 ディートヘルムと談笑を交えながらジュースを飲み終える頃、アナスタシアは空になったグラスを片手に辺りを見渡した。


「そういえば、バーンはどこに――」

「まずい、クラーケンだっ!!」

「大型級じゃないか!?」


 その時、甲板から船員たちの悲鳴があがった。



 ***



 騒ぎを聞きつけ甲板に向かうと、多くの船員が慌ただしく動き回っていた。

 

(……あれは!)


 アナスタシアの視界が捉えたのは、海面付近でうねうねと何本もの触手を自在に操り、魔法船にしっかりと狙いを定めた巨大クラーケンの姿だった。

 海の怪物として恐れられるクラーケンは、船乗りの天敵であり、最も注意しなければならない魔物である。

 個体差があり、中には島と勘違いしてしまうほど巨大な種類も存在するという。魔法船に張り付こうとしているクラーケンの全長は船半分くらいの大きさだが、船員たちの様子を見れば緊急事態だということは一目瞭然だった。


「シア、こっちだ」


 生まれて初めて目にする野生の魔物に固まっていると、ディートヘルムはアナスタシアの手を引いて甲板の真ん中に連れてくる。

 周囲は大騒ぎだというのに、ディートヘルムは怯えた素振りもなく驚くほど落ち着いていた。


「そうそう、二人はそこで大人しくしててくれよ。特にルム、お前はな!」


 アナスタシアのすぐ横を、何かが素早く通り抜ける。

 その何かが剣を所持したバーンだとわかったときには、彼は大胆に跳躍し魔法船からクラーケン目掛けて飛び降りるところだった。


「バーン、危なっ……!!」


 魔法船を降りればそこは海。足場のない場所でクラーケンに挑むのは明らかに不利である。

 アナスタシアは出そうになった悲鳴を呑み込んで足を前に動かす。けれどその歩みは、隣にいるディートヘルムによって止められた。


「シア、問題ない。バーンはあれくらいの魔物に負かされるほどヤワじゃないよ」

「最近腕が鈍ってたからな! 覚悟しろよ怪物!」


 信頼しきったディートヘルムの言葉のあと、そんなバーンの声が甲板にまで届く。

 魔法船の床を利用して高く跳んだバーンは、長剣を手にしてクラーケンの頭部に着地した。敵を捕らえようと動く触手を華麗に避け、バーンの刃が狙いを定めたのは頭部の真ん中の長細い窪みのような箇所である。


(バーンの剣、燃えてる? ちょっと違う……魔法で刃に纏わせているんだ)


 そして炎の威力を後押しするように、バーンの剣先を飛び回る炎の精霊たち。

 クラーケンが本格的に攻撃を仕掛ける前に、バーンは剣を振り下ろす。

 燃え上がる炎の長剣は容赦なく頭部の窪みに突き刺さり、同時にクラーケンの悲痛な叫びが響いた。


「……っ」


 魔物の……というより、生き物の命が刈られる瞬間を見るのは、思えば初めてのことだった。

 おそらく最後の力を振り絞って紡がれたクラーケンの絶叫に、アナスタシアの体は硬直する。


 バーンの腕が良かったというのも勿論あるのだろうが、こうも呆気なく、生き物は死んでしまう。

 

 そんなアナスタシアの感情をよそに、クラーケンが仕留められたことで魔法船からは歓喜の声があがった。

 遠くを旋回しながら固唾を呑んでいた漁師らも「兄ちゃんよくやったぞー!」とバーンに声をかけている。


「…………シア、大丈夫か? 魔物討伐を初めて見る君には少し、残酷だったかもしれない」


 アナスタシアの様子に気がついたディートヘルムは、気遣わしげに尋ねてきた。

 

「ううん、大丈夫。驚いたけど……私が触れてこなかっただけで、これも当たり前のことなんだと思うから」


 アナスタシアが王都で譲ってもらっていた欠陥素材の中にも、魔物の爪や角、クラーケンの皮を乾燥させた素材など、魔物の体の一部だったものは幅広くあった。

 素材だけではなく、生きる過程で命が搾取されるのは避けられない自然の原理なのだろう。


 こうしてアナスタシアはまた一つ、当たり前を自覚することができた。



 ***



 クラーケンの騒ぎで気づかなかったアナスタシアだが、魔法船はすでにセザール港に到着していた。

 先ほどのクラーケンは港に到着して気が緩んだ船乗りを襲うタイプの魔物だったようで、バーンの討伐を港湾から見守っていた人々も拍手を送っている。


「――良い動きだったじゃないか、バーン。信頼する護衛とはいえ、お前も加勢すればよかっただろうに」

「……?」


 ふと、頭上から女性の声がして、アナスタシアは上を見あげる。


「この声、まさか」


 同じくディートヘルムも上を向く。心当たりがあるような顔をして、少し呆れを滲ませている。

 逆光でうまく見えないが、声の出どころは見張り台に立つ人物からだったらしい。

 アナスタシアが目をすぼめて確かめると、うっすら見えてきた姿はひょいと見張り台を降りて二人の前に音もなく着地した。


(……綺麗な人)


 突然現れた謎の人物。長い黒髪を一纏めにし、紺色と赤を基調とした軍服に身を包む女性にアナスタシアは釘付けになった。

 かなり長身だが、身に着ける厚手のマントが海風にはためいているからだろうか。体格とはまた違う、その存在自体が大きく感じられた。


「――大公」

(大公?)


 ディートヘルムのつぶやきに、アナスタシアは堪らず目の前の人を凝視する。

 その視線を受け、女性は悠然とした動きでアナスタシアに顔を向けると、ふっと口角を持ち上げた。


「遠路はるばるよく来た。ようこそ、我がアステレード領へ」

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