第32話 涙の素顔
本当は、とうにわかっていた。
自分は、母親を殺していないのだということを。
けれどアナスタシアは「聖女殺し」の大罪を、自分が犯した罪のように振舞っていた。
ディートヘルムが言った通り、本当に人を殺めるだけの魔力暴走を起こしていたのなら、アナスタシアは外へ一歩も出歩くことはなかっただろう。
しかし、アナスタシアは寂しさを紛らわせるために「シア」という偽りの名を使ってまで街に居座った。
そうすることで、人々の憎しみに触れることで、母親を殺してしまったという事実を、あたかも己が起こしたように自身を騙していたのである。
なぜそんなことをする必要があったのか。
理由はただひとつ、守るため。
大切な大切な――病弱なあの子が矢面に出ないように。
『わたしの、せいなの。わたしがお母さまをこんなふうにしたの。わたしのせい、お腹の赤ちゃんも、死んじゃった……わたしが……はは…………あはは、あははははっ』
無惨に息絶えた母親のそばで、父や関係者に視線を注がれる中、アナスタシアが無意識下で咄嗟についた嘘だった。
その笑い声はまさに狂気としか言いようがなく。
目にした人々は、アナスタシアの言動を鵜呑みにした。
しかし、アナスタシアが自身につき続けていた嘘と本心に気づいたのは、最近のことである。
体調を崩したディートヘルムの額に手を触れ、癒した瞬間、蘇った記憶によって思い出されたのだ。
***
「私は――」
アナスタシアが口を開いたところで、
「ねえ、ママ〜。どうして聖女さまは、いなくなっちゃったのぉ?」
休憩場所からそれほど離れていない通りで、親子の会話が聞こえてくる。
母親と思わしき女性の腕には、あでやかな花束があった。
おそらく大聖堂に向かっているのだろう。母子共に、服装は白に統一された正装服を身に包んでいた。
参堂に決められた服装はないが、熱心な信仰者であるほど聖堂から支給される正装服を着用しようとする。
あの母親も熱心な信者なようで、幼い娘が口にした疑問に、わかりやすくある人物に対して嫌悪を滲ませていた。
「……聖女クリスタシア様はね、お子であるアナスタシア・ヴァンベールに殺されてしまったのよ」
「ころされた……? それは、わるいことなんでしょ?」
「そうよ、とても悪いことなの。だからね、本当なら罪を償わなければいけないの」
「悪いことをしたらばつがあるって、ママいっつも言ってるもんね。その人は、ばつをちゃんと受けたの?」
幼子の問いに、母親は眉をひそめて首を振った。
忌々しそうな表情は、どれだけアナスタシアを憎悪の対象としているのかがわかる。
「でも、ママだったんでしょう? ママがしんじゃったら、すごくかなしいよ。その人もかなしかったんじゃないかなぁ」
「……自ら命を奪っておきながら悲しむだなんて、おこがましいにもほどがあるわ」
「マ、ママ?」
母親から感じとった禍々しい気配に、娘はびくりと体を震わせた。
しかし、母親はすぐに優しげな笑みを浮かべて、諭すように言い連ねる。
「だからね、この国のみんな、アナスタシア・ヴァンベールに裁きが下ることを、待ち望んでいるわ。だからあなたもクリスタシア様を想って、そう願いましょうね」
「は〜い」
そうして親子は、アナスタシアとディートヘルムが立つ休憩場所の横を通り過ぎていく。
間近で会話を聞いていたアナスタシアの心は、驚くほどに冷静なものだった。
(……)
結局のところ今の話がすべてである。
この国は聖女を失った悲しみが大きすぎて、元凶であるアナスタシアに感情の矛先を向けていた。
それは彼女にとって耐えがたい環境ではあるものの、生まれる団結力は馬鹿にならない。
――もし、ここで。
事実が覆ってしまったら、どうなるだろう。
たとえば、悲劇の元が別の対象になったとき、国民はどんな思いを抱くだろう。
きっとこの国は、
そうなってしまうくらいなら。
(私のせいで、それでいいんだよ。私のせいでお母様が死んでしまって、この国から光を奪ってしまった。だから、悲しむ資格なんてない。それで、もういい――)
その時、佇むアナスタシアの体に影が落ちる。
「聞くな」
ディートヘルムの声音が、沈みいっていたアナスタシア思考の中に溶け込むように入ってきた。
「ル、ム……」
頭に被った頭巾越しに、ディートヘルムの手のひらがアナスタシアの両耳を覆った。
あくまでもそっと触れただけの大きな手。少しだけ音が遠ざかった世界で、彼の真摯な言葉が降ってくる。
「君も大切な人を失くしたひとりだ」
おかしいことにアナスタシアよりも彼のほうが辛そうな顔をしている気がした。
まるでディートヘルムは、固く覆い隠していたアナスタシアの本心にそっと語りかけるように、あるきっかけを口にする。
「悲しんだっていい。泣いたっていい。君の悲しみを許さない者がいるというなら、俺がそれを許しはしない」
誰にも話していないのに、心の内側を知られているような気がしてしまう。
胸を痛めることも、悲しむことも――涙を流す資格すらないと頑なに思い続けていたアナスタシアにとって、ディートヘルムの言葉は、たしかな引き金となる。
「わ、たし、なんで」
瞳から流れる生暖かい感触に、アナスタシアは唇を震わせた。
一粒伝えば、それを皮切りにぽろぽろと滴り落ちる。
ディートヘルムの言葉は、あの悲劇から一度も流したことのなかったアナスタシアの涙を誘うきっかけとなった。
「ふっ、う……うう」
嗚咽が漏れ、その声にもアナスタシアは驚いてしまう。
拭うこともせず身を固くして泣くその姿は、泣き方を忘れてしまった子どものように小さく、幼い。
(涙も、声も、とまらない)
遠くから通行人が来ようともそれは治まらず、アナスタシアにはどうすることもできなかった。
そんなアナスタシアを見守るように、ディートヘルムは自身の体で影を作り、盾になってくれていた。
「――、シア」
ふと、目の前のディートヘルムから、息を呑む音がして。
彼が名前を呼んだ瞬間、アナスタシアの後頭部にある仮面の留め具が緩んだ。
濡れていた目が、頬が、冷たく澄んだ外気に当てられる。
かしゃん、と地面に響く落下音。
狭まっていた視界がどこまでも晴れる感覚に、アナスタシアは怖々と自分の頬に手を添えた。
「……あ、」
仮面が、はずれている。
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