第2話 アナスタシアの朝
アナスタシアの朝は早い。
起床後、素早く寝床を離れ顔を洗い、質素な作りの衣服に袖を通す。
アッシュゴールドの髪に軽くブラシを通し、化粧台の鏡越しに自分の顔を見つめた。
「おはよう、アナスタシア」
ぎこちなく笑みを浮かべたアナスタシアだったが、すぐに表情は消え去った。
彼女の憂い帯びる緑色の瞳にまつ毛の影が落ちる。こうして毎朝、鏡越しの自分に挨拶をするのも虚しくなってきた。
そんな彼女の思いに寄り添うように、光の玉が姿を現す。
「あ、おはよう」
その柔らかな光の玉は、ふわふわと宙を上下に浮いては、アナスタシアの周囲を飛び回っている。
この光が精霊だと知ったのは、もう幼き日のことだ。
公爵邸の敷地内にある別邸で暮らす孤独なアナスタシアが孤独に耐えられているのは、この光の存在のおかげだと言っても過言ではない。
「ルル」
アナスタシアに名前を呼ばれた光の玉は、嬉しそうにふわふわと周囲を漂った。
精霊は世界中のどこにでも存在するが、普通は人の目に映ることはないという。
それでも、ひと握りの人間が彼らの姿を視ることができるのだと学んだ。
彼らは危害を加えたりしない。アナスタシアを見かけると挨拶のように身体の周りを飛び回り、満足すると離れていく。とても可愛らしい存在だった。
しかしルルは、いつもアナスタシアのそばに居た。他の精霊と違ってどこへ行ってもくっ付いてくるのだ。
だからアナスタシアも愛着が湧いてしまい、名付け親となっていたのである。
「うーん、それにしても……今日は天気がいいね。早めに朝ごはんを食べて、街に散歩へ行かない?」
ルルは答えるように、ぽぽぽっと光の反射に加減を付けて浮いた。
「それじゃあさっそく食堂に移動しようね」
そう言うとアナスタシアはもう一度鏡に向き合った。
化粧台の引き出しを開けると、柔らかなクッションに包まれる仮面が顔を出す。
目の周りを隠すような造りの仮面は、白色に金の刺繍が施されている。鼻筋を隠すほどの大きさであるため、装着すれば素顔を完全に隠せてしまう。
「これで、よし……」
アナスタシアは仮面を顔にぴたりと付け、慣れた手つきで後頭部に回した留め具で頑丈に固定した。
魔法の発動、そして魔力を強引に抑え込む効果のあるそれは、父親のヴァンベール公爵が生成したものである。
就寝時以外は仮面を付けるように言い付けられているアナスタシアは、その言葉を破ることなく守っていた。
それは十年前から変わらず、アナスタシアにとって戒めともなっている。
またあのような事件が起こらないように、そして、憎く思う人間の顔を見ないで済むようにという意味が込められた仮面。
いついかなる時も人前で外したことのない仮面。
それ故に、現在のアナスタシアの素顔を知るものは、誰ひとりとしていなかった。
アナスタシアがたった一人で暮らす別邸は、公爵邸内の敷地に建てられている。
まるで存在を隠すように鬱蒼とした木々に囲まれる別邸は、アナスタシアが十年の日々を過ごす慣れ親しんだ場所となっていた。
食堂へ入るとすでに朝食が用意されている。
前菜、スープ、主食、飲料と、一人分の朝食のみ置かれた食堂のテーブルがアナスタシアにはとても広く感じた。
「聖なる恵みに感謝を」
両手を組んで食事開始の言葉を呟き、アナスタシアは黙々と朝食を摂り始める。
ひんやりと冷めたスープは、置かれてから数時間経っていると推測がついた。
おそらく食事を運んでくる担当の使用人がアナスタシアと鉢合わせしないように、日が昇る前にはテーブルにセッティングしているのだろう。
「ルル、食べる?」
アナスタシアはスコーンのかけらを手に乗せ、肩に乗っていたルルに差し出した。
ふよふよと香りの良いスコーンに誘われたルルは、アナスタシアの手に止まると少しずつ物体を吸収し始める。
ただの光の玉であるが、ルルは人が食するものが大好きだった。口はどこにも見当たらないが、差し出して少し経つと無くなるということは体内に入れているのだろう。
朝食を摂り終えたアナスタシアは、食器をまとめて立ち上がった。
静まり返った廊下を少し歩いてたどり着いたのは、この屋敷の厨房である。カチャ、カチャと小さな音を立てて食器を一枚一枚洗ってアナスタシアの手つきは慣れたものであった。
公爵家の人間ともあろう者が、使用人の領域である厨房に入り自分の使用した食器を洗っている。貴族ならば考えられないことであった。
だが、この生活はアナスタシアにとっての日常である。
侍女が一人もいないアナスタシアは、朝の身支度から自分で行っていた。他人の手を借りずに着用可能な衣服は月に一度の間隔で送られてくるものである。
極力、ほかの者がアナスタシアに関わらないようにするため手配された衣服は、上質な生地を使用しているがデザインは質素……もっと言うならば地味だった。
それもそのはず。
アナスタシアはヴァンベール公爵家の人間であるが、ヴァンベール公爵家の者たちは誰も彼女が公爵令嬢として公に立つことを望んでいない。
アナスタシアがヴァンベール公爵から言い渡されていることは、たった一つだけである。
――決して他人の前で素顔を晒さないこと。
これだけにヴァンベール公爵、そして他の者の意向のすべてが集約されていた。
素顔を晒さない。つまり仮面を外さない。
仮面を外さないということは、魔法はおろか魔力の発動さえできはしない。
仮面を付けていれば、公の場に姿を現すことは困難である。貴族が集う場で仮面を付けていれば嫌でも好奇の目に触れ、アナスタシアは全員から敵視されるのだ。
実質、アナスタシアの行動範囲とは、この公爵邸内の別邸だけであった。
――十年前。
魔力と魔法の暴走によって母親と、母のお腹にいた赤子の命を奪ってしまった罪は決して許されることではない。
もう何度も、
お前のせいで聖女は死んだ。お前のせいで最愛の人が死んだ。お前のせいで優しい母が死んだ。お前のせいで大切な娘が死んだ。
アナスタシアも自分の罪を理解した。
だからこそ、自分から生活を変えようと懇願したことはない。これまでも、今も、この先も。
それでもやはり、息が詰まるときがあった。
どうしようもない孤独感に襲われそうになったとき、アナスタシアは街へと出かける。
仮面が見えないように底の深い被りが縫い込まれた頭巾付きのローブを着用して、必ず頭をすべて覆い隠した。
もちろんアナスタシアが街へ出かけることは、誰も知らない。知られてしまったら一大事になってしまう。
だからアナスタシアは街へ出かける時、もう一人の自分を作った。
名前の最後から二文字を取って「シア」と名乗り、ただの街人として装うことが、アナスタシアの数少ない憩いである。
そして、まずアナスタシアが別邸を出て向かうのは、街の片隅にある小さな小さな工房であった。
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