第40話:暗闇の女

 明かりに照らされたのは長身の女。暗闇に溶け込みそうなほどの黒いローブを身に纏い、フードで顔は見えないが、それでも有り余るほどの強調された肉体は、間違うはずもなく女性のものだと分かる。

 こんな所でもなければ、魅惑的な身体に見惚れ、鼻の下を伸ばしていたかもしれない。だが、今はそんなことに意識を向けることなどできるはずもない。

 先ほどまで煩く飛んでいたカラスが集まったかと思うと、暗黒が凝縮して女になったのだ。非現実的な光景に呆け、身の危険を感じているのにリボルバーを引き抜くことすらできない。


 ……魔女……。


 テレンスの頭にワイルドから聞いていた単語が浮かぶ。

「逃げろ! 振り返るな! 死ぬぞ!」

 何とかガンベルトのリボルバーを引き抜きながら、テレンスは誰に言うでもなく叫んでいた。

 それを合図に、時間がようやく進み始めたように、固まっていた者たちが動き出す。

 情けなく悲鳴を上げる者もいれば、明かりを投げ捨て背を向けて逃げる者、勇敢にも銃を女に向ける者など。様々だが、共通しているのはパニックでまともに思考できた者はいないこと。

 女は、表情こそ分からないが、その様子を楽しそうに眺める。

 そして微かだが、その周囲の闇がブレた……ような気がした。

 それは全員が気付き、そのブレに視線が集まる。


「補佐官、頭を下げろ!」


 銃の引き金を絞ろうとするテレンスを、そばにいたバグジーが無理矢理地面に引き倒す。

 目前を暗闇は通り過ぎる。


 何だ? 何が通り過ぎた?


 床に転がりながら思わず、通り過ぎた闇を追って視線を背後に向けると、そこに立っていたシェリフ数人の首から上が消えていた。

 小刻みに体を痙攣させ、血を撒き散らして崩れるシェリフの姿に、その場はさらに錯乱状態に。視線を女に向けると、頭上に浮かんだシェリフの首から流れ落ちる血を、彼女は長い舌を出して浴び、飲んでいる。

「化け物が!」

 テレンスは震える声を上げながらも銃を向けるが、発砲することはなかった。持っているリボルバーが、シリンダー部分の途中から無くなっていた。鋭利な刃物で切断された様になっている。

 先ほど地面に転がらなければ、銃ではなく首が同じように切断されていた事だろう。それが分かると、体の芯から震えがやってくる。

 女が血で汚れた口元を露に、口の端を吊り上げ愉快に笑う。すると、持っていた全ての明かりが一斉に消え、辺りは漆黒の闇に包まれる。

「工場の外まで走れ!」

 誰の声だったかは分からない。だが、全員がその声に従った。

 暗い中を手探りで、それでも急いで走る。

 周り闇からシェリフやギャングの声が響き、そして闇へと消える。


「どうなってるんだ?」「あれはなんだ?」「チクショー、何も見えない」「あの女はどこだ?」「バグジーさん、どこですか?」「明かり、明かりを付けてくれ!」「止めろ、止めてくれ」「落ちつけ!」


 そんなパニックに陥っている中、女の嗤い声が聞こえる。

 悪態、弱音、命乞い、罵声、そして悲鳴が、視覚奪われ、敏感になった聴覚に入ってきた。

 テレンスとバグジーは、互いに掴みあって逃げた。冷蔵棚のある隠し部屋から工場内を走る。隣に人がいるだけで安心できた。それはバグジーも同じだろう。

 すると少し前が明るくなる。

 ギャングの一人がマッチに火を点けたことで、辺りを照らしたのだ。

 ぼんやりと明るくなり、ギャングはテレンスとバグジーを見つけて叫ぶ。

「バグジーさん。こっちです」

「バカヤロウ! 明かりを消……っ!」

 バグジーが言い終わるよりも前に、そこにいたギャングは横から現れた大きな闇に飲まれて宙に浮いた。落ちるマッチの炎がまだ微かに周囲を照らす。ギャングの悲鳴が聞こえ、その後、バラバラになった塊が床に落ちて火を消した。

 バグジーの喉の奥から漏れる抑えきれない悲鳴をテレンスは聞いた。それは女に対する恐怖であり、目の前で仲間を失った悲しみ、何もできない自分への悔しさ。様々な物が混ざっている。


 一層強まる女の嗤い。

 

 遊ばれている。

 漠然とそう理解した。でなければ、すでに全員が肉塊と化している。怯えて逃げ惑うのを見て楽しんでいるのだ。凶悪で醜悪な性格。人智を超えた力の前に、涙が出そうになる。

 幻覚を見ているのか? そうでなければ説明がつかない。何かの薬を知らぬ間に摂取させられていて、幻を見せられているのではないか。

 そう思いたいが、目の前で起こる惨劇は、これが現実であると突きつけてくる。



 もはや入ってきた場所から出るなど考えない。

 手近な窓を突き破り、ガムシャラに外へと逃げた。シェリフもギャングも、同じように出てくる。窓ガラスで怪我をするなど、一切考えない。いち早く工場から離れるという本能が、彼らにそうさせた。

 外は相変わらず強い雨が降っている。

「ありゃ、なんだ? 俺の頭がおかしくなったのか?」

 パトリックがふらついて立ち上がりながら、テレンスに詰め寄る。

「こんなこと、聞いてねぇぞ! 今、見たのは現実か?」

 その問いにテレンスは答えることができなかった。彼自身、現実とは認めたくない。隣のバグジーも血の気の引いた顔で黙っている。

 パトリックは荒い呼吸を整えるように、頭を抱えながら天を仰ぐ。

「バグジー。あんたには借りができた。死ぬところだった」

「借りと言うほどのことはしてねぇ……それに、まだ逃げ切ったわけでもない」

 彼の言う通り、まだ工場から出ただけだ。どこまで逃げれば安全かなど分かるわけもないが、それでも工場から離れた方がいいに決まっている。

 テレンスとバグジーが立ち上がり、生き残った者たちと、さらに逃げようとしていると、工場の一角が吹き飛んだ。

 大雨の中、瓦礫の上に『あの女』が佇んでいるのを目の当たりにして、心臓が握りつぶされるような錯覚を覚える。何人かからは諦めにも似た嘆息が聞こえる。

 女が一歩、踏み出した途端、周囲の空気が一層冷える。

 誰もとなく発砲した。

 それは恐怖からだったろうが、それを皮切りに後ろへ下がりながらも銃を構えて撃つ。冷たい雨の中、乾いた音と男たちの雄叫びが工場にぶつかり反響する。

 弾丸は閃光となって女に飛んでいくも、彼女とその周りの闇に飲みこまれただけ。何事もなかったかのように足を進め、手を広げて挑発する。

 自分たちの唯一の武器が効果なしと分かる(もっとも薄々、そうではないかと気付いていたが)や、その目の奥に絶望が影を落とし始める。

 皆が覚悟した。いや覚悟せざる得なかった。


 ここで死ぬ、と。


「繋がったな」


 それはテレンスらの後方から聞こえたが、聞いたことのない声だった。シェリフやギャングでもない。

 振り返るとそこには場違いにもカソックを身に纏い、傘を差した青年が立っている。

 その青年は、目の前で起きていることを気に留めることなく前へ進む。

 「危ない」と警告をしたかったが、青年のまとう雰囲気にテレンスは言葉を飲み込む。

「天と地と精霊の聖名において……」

 青年は口の中で言葉を転がしながら、十字架を前に掲げた。

 すると、弾丸すら効果のなかった女の顔から笑みが消え、半歩だが下がっている。

 何が起きているのか分からず、テレンスらはその様子を見守るしかない。

「土は土に、塵は塵に、灰は灰に」

 一歩、一歩と近づくにつれ、凍えるほど寒かった気温が戻っていき、吐く息も白くなくなる。女は何か目に見えない力に押し込まれているように踏ん張り、後ずさっている。

『忌々しいわ!』

 声が聞こえたというには誤りで、体の内側から女の怒りの声が湧いてきたに近い。

 青年が苦しそうに片膝を付く。鼻から血が流れていた。

 元に戻りつつあった気温もまた下がり始めている。

 テレンス達には何が起きているかはさっぱりだったが、青年と女の間で目に見えない力の押し合い、もしくは引き合いがあることだけ分かった。到底、納得できる事象ではないが、今は何も考えずに理解した。

 青年は少し驚いたように見開くと傘を捨て、立ち上がる。

「これが魔女? なるほど、これほど強力とは予想してなかった」

 独り言ちると、傘を持っていた手には金属とガラスでできた円柱が握られている。

「我らは為すべきことを為さずにすまし、為すべきでなかったことを為す。身のうちに健全なる部分は何もなし」

 先ほどよりも覇気のある声に、周囲の空気が一気に変わった。どんよりと浸蝕しようとしていた闇が、消えていくのが分かるほど。

 女は圧に耐え切れず、ジリジリと後ずさっていく。

 それに追い打ちをかけるように、青年が一層声を張り上げた。


「悪しき魂よ。神の名のもとに、今すぐ立ち去れ!」


 十字架を高く掲げ、言葉が終わると同時に、女が「ギャ」と短い悲鳴を上げて後方に吹き飛んだ。そして地面に着いた途端に体が砕け、大量のカラスとなって夜の空へと飛んでいく。


 一連の出来事に、テレンス達は開いた口が塞がらず、しばらく呆然としていた。

「怪我はないか?」

 青年が話しかけてくる。綺麗な英語だが、イタリア系の顔つきだ。

「あ、ああ。今のは?」

「この街に巣くう魔女だ」

 テレンスの問いに、青年はさも当然のように答える。ただ、そうだろうな。とは思っていた分、衝撃は少ない。他の者も同じような感じだ。

「それで、今ので死んだのか?」

 最も気になっていたことをパトリックが聞くが、青年は表情一つ変えることなく首を横に振る。

「いや、あれは本体ではない。ただの人形だ」

 その言葉に、落胆するが、青年は気にせずに踵を返してしまう。

「どこに行くんだ?」

「魔女の気配はなくなった。ここには用がない」

 そう言って青年は歩いていってしまう。

「今日起きたことは忘れなさい。これ以上は首を突っ込まない方がいい。次は命を落とすことになる」

 青年は去り際、そう言い残し、立ち去っていく。

 テレンスはまだ聞きたいことが山ほどあり、引き留めたい気持ちでいっぱいだったが、これまでに起きたことのショックがまだ抜けず、その背を見送ることしかできなかった。

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