第9話 家族
咲弥の四十九日法要が終わり、納骨と食事会を済ませた権厳寺ファミリーが帰宅したとき、屋敷の空気は異様な緊張感を孕んでいた。
喪服を脱ぐ間もなく、リビングで待ち構えていたのは、絵里だった。
彼女の背筋は、かつてないほど凛と伸びている。その瞳には、長年の
「空。あなたと、家族のみんなに話があるの」
絵里の声が、高い天井のリビングに響く。
「それから、こちらの家族にも」
絵里の視線が、開かれた玄関に向けられた。そこに入ってきたのは、絶縁状態にあったはずの双子の弟、陸とその家族だった。
陸、その妻、そして二人の子供たち。彼らもまた、困惑の色を隠せないまま、喪服姿で立ち尽くしている。
空の眉間に深い皺が刻まれた。
全身の血が逆流するような怒りが込み上げる。経営難に喘ぐ自分を見捨てた弟。母の通夜の晩、自分の妻を抱き寄せていた裏切り者。
「母さん……これは一体どういうことなんだ?」
空の声は低く、震えていた。
陸もまた、不快げに唇を歪めた。
「僕にも教えてよ、母さん。どうしても来てほしいと言うからついてきたけれど、どうしてよりによって空の家なんだ? 僕がここに来ることをどう思っているか、知っているはずだろう」
「まーまー、二人とも。玄関先で立ち話もなんだから、中に入ってお話ししましょう。さあ、上がってちょうだい」
殺伐とした空気を割るように、明るく声を上げたのは優子だった。
彼女はまるで何もなかったかのように振る舞い、硬直する二つの家族を半ば強引にリビングへと案内した。
広大なリビングのソファに、八人が腰を下ろす。
空、優子、その子供である四歳の男児と五歳の女児。
陸、その妻、六歳の女児と三歳の男児。
本来なら従兄弟同士である子供たちは、互いに警戒し合い、母親の膝にしがみついている。
絵里は、手作りのクッキーと、昔懐かしい黄金色のべっこう飴をテーブルに並べた。甘い香りが漂うが、誰も手を伸ばそうとはしない。
絵里は何も言わず、ただ静かに時計を見上げ、時折窓の外へ視線を走らせている。まだ、「誰か」を待っているようだった。
重苦しい沈黙が十分ほど続いた頃、チャイムの音が屋敷に響き渡った。
絵里が弾かれたように立ち上がり、玄関へと向かう。
やがて、廊下から足音が近づいてきた。
絵里に導かれてリビングに入ってきた人物――その姿を見た瞬間、空の脳内で何かが弾けた。
白髪交じりの短髪、社会との断絶を感じさせる古びた衣服、そして深く刻まれた苦渋の皺。
十年という歳月が彼をさらに老いさせていたが、見間違えるはずもなかった。
かつて絵里の夫であり、十年前、この家の玄関先で父・京介の胸にナイフを突き立てた男。
山下耕太だった。
「きさま……!」
空はソファを蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。
抑え込んでいた陸への怒りに、父を殺された憎悪が油となって注がれ、感情が爆発する。
「よくもノコノコ現れたな!! どうして親父を殺したあんたがここにいるんだ!! 人殺しが! 帰れ! 今すぐ出ていけ!」
子供たちが怯えて泣き出す中、耕太はその場に土下座をした。額を床に擦り付け、震える声で呻く。
「悪かった……悪かった……。この通りだ。本当に、本当に申し訳なかった……。あの時の俺は、家族を奪われた悲しみと怒りで、どうかしていたんだ……」
「謝って済む話かよ! 母さん! これは一体どういうことなんだ! 説明してくれ!」
空の怒号に対し、絵里は静寂を湛えた湖面のような声で言った。
「いいわ。でも、説明する前に――耕太さん」
絵里はうずくまる男を見下ろした。
「京介さんのお仏壇の前に行って、お線香をあげてきてちょうだい。話はそれからよ」
その言葉には、誰も逆らえない絶対的な響きがあった。
耕太はよろめきながら立ち上がり、仏間へと向かった。
チーン。
澄んだ鐘の音が、殺気立ったリビングの空気を浄化するように響き渡る。線香の香りが漂ってくる。それは、加害者と被害者、生者と死者が交錯する、鎮魂の儀式だった。
耕太が戻り、部屋の隅の椅子に小さくなって座ると、絵里はようやく口を開いた。
「みんな。これから私が言うことを、感情的にならず、落ち着いて聞いてちょうだい」
絵里は一同を見渡した。
「まず初めに、耕太さんは京介さんの殺害で懲役十三年の実刑判決を受けたけれど、模範囚として刑期が短縮され、先日出所しました。私が迎えに行ってきたの」
空が何か言おうとしたが、絵里は手で制した。
「偽装死亡の件については、そのほとんどが京介さんと付き合いのあった裏社会の人間の工作だったことが判明したわ。耕太さんも偽造私文書行使罪に問われたけれど、こちらは時効が成立し、戸籍も元に戻されました」
絵里は一息ついた。
「そして今日、この場へ来るように私が無理を言ってお願いしたの。耕太さんは『合わせる顔がない』と拒んだけれど、どうしてもみんなに聞いてほしいことがあって、私が説得したの」
絵里はバッグから一冊の古びたノートを取り出した。
革の表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。
「これは、十年前に亡くなった京介さんの手記よ。咲弥さんが形見として持っていたものを、遺品整理の際に見つけたの。その中の一文を、あなたたちにどうしても伝えたかった」
絵里は震える手でページを開いた。
「読むわね」
『一九九〇年 八月某日
DNAの鑑定結果が届いた。
実に残念な結果である。
双子は両方とも、私の遺伝子を引き継いではいなかった。
私とよく似ていた兄の空だけでも、と思ったが、他人の空似だったとは。全く面白くもない。
今、咲弥のお腹にいる赤ん坊はまだ二カ月で、男女どちらか分からない。跡継ぎには男児が欲しい私としては、保険をかけておいて損はないだろう。
この鑑定結果を書き換え、偽造して絵里に見せよう。
うまくいけば、双子の男児を私の養子として、手元に置くことができる。
それにしても、残念で仕方がない』
読み終えた絵里が顔を上げたとき、部屋は真空になったかのような静寂に包まれていた。
空と陸は、言葉の意味を理解しようと必死に思考を巡らせていた。
二卵性二精子性双生児。空は京介の子、陸は耕太の子。
三十年間、彼らのアイデンティティを決定づけ、そして引き裂いてきたその「事実」が、たった一冊の日記によって覆されたのだ。
「以上よ。つまり……」
絵里の声が涙で潤む。
「空と陸は、正真正銘、耕太さんと私の子供だったの。二人とも、同じ父と母から生まれた、血の繋がった双子なのよ」
誰も言葉を発せない中、絵里は一枚の書類をテーブルに置いた。
「その証拠に、優子さんにお願いして空の髪を、そして私が陸の髪と耕太さんの髪を密かに集めて、先日、改めてDNA親子鑑定に出したわ。念のため三つの機関で鑑定してもらったけれど、全て同じ結果だった」
絵里は書類を二人の前に押し出した。
「勝手なことをして悪かったと思っている。でも、どうしても証明したかったの」
空は震える手で鑑定書を拾い上げた。
【親子関係が存在する確率:99.9999%】
その数字が、網膜に焼き付く。
陸も横からそれを覗き込み、息を飲んだ。
「正直……驚いているよ」
空が搾り出すように言った。
「でも、だからって……俺を育ててくれた親父は京介だ。経営者としての厳しさも、帝王学も、すべてあの人から教わった。尊敬もしていたし、感謝もしている。それは変わらない」
陸も頷いた。
「僕も同じ気持ちだよ。二十年間育ててくれた恩は、この紙切れ一枚で消えるものじゃない。それに……」
陸の冷ややかな視線が、部屋の隅の耕太に向けられた。
「京介さんを刺したこの男は、その前にも借金苦で母さんを捨てて逃げた男だ。今さら父親面されても困る」
耕太はさらに小さくなり、消え入りそうな声で「すまない……」と繰り返した。
しかし、絵里は強く首を横に振った。
「そうよ。別に耕太さんを『お父さん』として慕ってほしくて集めたわけじゃない。この人を憎んだままでもいいの。私が伝えたかったのは、そんなことじゃない」
絵里は、空と陸、二人の顔を交互に見つめた。
「私が伝えたかったのは、あなたたち双子が、いがみ合う理由なんて、最初からどこにもなかったってことなの」
その言葉に、優子が立ち上がった。
「そうよ。空」
優子は夫を真っ直ぐに見据えた。
「咲弥お義母様の通夜の時、陸さんが私を抱きしめていたのは、心身ともに弱り切っていた私を、義理の兄として慰めてくれていただけなの。あなたが思うような、やましい関係なんて一切ない。すべて、あなたの誤解なのよ」
優子は涙を堪えて続けた。
「だから、お願い。あなたたち双子が憎しみ合う理由なんて、もうどこにもないの。喧嘩をやめてほしかったから、私も絵里さんに協力したのよ」
空と陸は、互いの顔を見合わせた。
幼い頃、いつも一緒だった。同じおもちゃで遊び、同じ布団で眠り、言葉を交わさなくても通じ合えていた片割れ。
「父親が違う」という呪いが、二人を分断し、憎悪を植え付けた。
だが、その呪いは解けたのだ。
二人の表情から、険しい棘が少しずつ抜け落ちていくのを、絵里は見逃さなかった。
「優子さん。例の物はあった?」
絵里の合図に、優子が頷いた。
彼女は部屋の奥へ行き、布で覆われた大きな額縁を運んできた。
権厳寺家のコレクション倉庫の最奥、埃を被ったまま眠っていた一枚の絵画。
優子がゆっくりと布を取り払う。
そこに現れたのは、柔らかな色彩で描かれた油絵だった。
題名【家 族】。
今から三十年前、一九九〇年のグッド絵画展で大賞を受賞し、二千万円という高値がついた、いわくつきの作品。
そして、全ての悲劇の始まりとなった絵。
京介の手記から、彼自身がこの絵を買い取り、封印していたことが分かっていた。
四つの柔らかな輪が、漢字の『田』の字のように寄り添い、重なり合っている。
技術的な巧拙を超えた、圧倒的な温もりがそこにあった。
その絵を見た瞬間、空と陸の記憶の扉が開いた。
「俺……この絵、見たことある」
空が呆然と呟く。
「すごくおぼろげだけど……暗がりの中で、ロウソクの火が揺れていて、その横にこの絵が飾られていたような……」
「僕も覚えてる」
陸が目を細める。
「この絵と一緒に……香ばしい、いや、少し焦げたようなクッキーかケーキの匂いがしたのを覚えてる」
絵里が涙を拭いながら微笑んだ。
「そうよ。あなたたち双子の一歳の誕生日をお祝いした時のことだわ。私がケーキを焼いたんだけれど、オーブンの調子が悪くて丸焦げになっちゃったの。仕方がないから、お茶碗のご飯にロウソクを立てて、ハッピーバースデーを歌ったのよ」
絵里は耕太を見た。
「耕太さん。もう一度、この絵の説明をしてあげて。あの時のように」
耕太はおずおずと立ち上がり、自分の描いた絵の前に立った。
三十年前、希望に満ちて筆を走らせていた頃の記憶が蘇る。
「これはね……成長する絵なんだ」
耕太の声は嗄れていたが、そこには確かな情熱が戻っていた。
「この四つの輪は、当時の僕たち家族四人を表している。そして、今後僕たちの大切な人が増えるたびに、ここに輪が足されていくっていう算段なんだよ。ダルマの目玉を描き足すみたいにさ」
耕太の指が、キャンバスの上の輪をなぞる。
「仮にどこかが欠けても、周りの輪が補い合える。輪が多ければ多いほど、強く支え合うことができるんだ」
耕太は深く頭を下げた。
「絵里……。僕は画家としての魂を金で売ってしまい、この絵を最後に筆を折った。でも、これは僕の人生で最高の出来だと思っていたよ。よくぞ今まで取っておいてくれた。探し出してくれて、ありがとう、優子さん」
部屋を包む空気が、完全に変わっていた。
氷解した時間の中で、陸がゆっくりと空に向き直った。
「空。……優子との件は、誤解をさせて悪かった。本当に、優子とは妹としてしか接していない。信じてくれ」
陸の目には、昔と変わらない誠実な光があった。
「それと……元々僕の会社はITには強いが、リアルな不動産開発のノウハウがない。大手のデベロッパーと連携するプロジェクトを模索していたところだったんだ。できれば……君の会社と手を組ませてほしい。どうかな?」
空は唇を噛み締め、涙を堪えるように天を仰いだ。そして、陸の肩を強く掴んだ。
「陸……俺の方こそ、悪かった。すまなかった……!」
空の声が震える。
「連携の件、こちらこそよろしく頼む」
そして空は、優子の手を取った。
「優子。君を放っておいて、その疲れた心にも気づいてやれなくて、本当にすまなかった。これからは……もっと家族を大切にするよ」
「ううん……いいの、あなた」
優子は空の胸に顔を埋めた。
十年という長い歳月、べっこう飴のように硬く膠着していた関係が、温かな熱によって溶け出していく。
大人たちの表情が穏やかになるのを見て、緊張していた子供たち四人も、いつの間にかソファから降り、無邪気に遊び始めていた。
絵里はその光景を目に焼き付けると、バッグの中からあるものを取り出した。
古びた画筆と、新品の油絵具のセットだ。
彼女はそれを耕太に差し出した。
「絵里さん、この筆は……」
「そうよ。耕太さんが死んだと思っていたあの日から、私がずっと大切に持っていた、あなたの愛用の筆よ」
絵里は耕太の目を真っ直ぐに見つめた。
「私は、三十二年前の京介さんとの過ち以来、心の中ではずっとあなただけを想い続けていたわ。本当に、ごめんなさい。……さあ、これで、この絵に新しい輪を足して。この絵を『成長』させてちょうだい」
耕太は筆を受け取った。その手に馴染む感触に、涙が溢れ出した。
「絵里さん……。僕も、塀の中でずっと、君と子供たちのことを想っていた。こんな日が来るとは、夢にも思っていなかったよ。ありがとう」
耕太はパレットに絵具を出した。
慣れない手つきだったが、キャンバスに向かうと、画家の目が戻った。
彼は慎重に、しかし力強く、四つの輪の周りに、新しい輪を描き足していく。
優子の輪、陸の妻の輪。
そして、四人の孫たちの、小さな可愛らしい輪。
色彩豊かな輪が重なり合い、大きな一つの大輪の花のように広がっていく。
「わあ、きれい!」
子供たちが集まってきて、目を輝かせながらキャンバスを見上げた。
「おじいちゃん、わたしにも教えて!」
「ぼくも描きたい!」
孫たちに囲まれ、耕太は困ったように空と陸の顔色を窺った。
二人の息子は、顔を見合わせ、穏やかに微笑んで頷いた。
「私の過ちと勘違いから始まった物語だったと反省しているけれど」
絵里は、大きくなった家族の輪を愛おしそうに眺めながら呟いた。
「今こそ、もう一度この絵みたいに、寄り添って、欠けた部分を補い合って生きていきましょう」
夕日が差し込むリビングで、新しい絵具の匂いが、かつての焦げたケーキの匂いを上書きしていく。
私たちは、家族なのだから。
全編完
年表
1984.6 耕太.絵里 結婚
1988.1 京介.咲弥 結婚
1988.3 京介.絵里 W不倫
1988.7 京介.絵里 破局
絵里 権厳寺不動産退職
1989.5 双子誕生
京介事故で半身不随
1990.5 双子一歳誕生日
京介から絵里へ手紙
1990.7 耕太借金2千万円を背負う
絵里が京介の会社へ乗り込む
1990.8 DNA鑑定結果
1990.9 耕太グッド絵画展大賞
耕太偽装死亡
1991.3 優子誕生
2010.5 優子誕生の真相を知る
2010.6 陸.優子がキス
耕太バンコクから密入国
2010.7 ライジングタワーパーティー
京介死亡 耕太殺人で逮捕
2010.9 陸と絵里が権厳寺家を出る
2015.4 空.優子 結婚
陸.同僚 結婚
2020.9 咲弥ガンで他界
空と陸が10年ぶりに再会
咲弥の遺品整理で京介の手記発見
2020.10 耕太出所
2020.11 咲弥の四十九日で双子和解
呉越同腹 団 田 図 @dandenzu
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