大きな鳥の、翼の影

かつエッグ

大きな鳥の、翼の影

 スーパーで晩ご飯の食材を買った。

 今日の献立は、「お母さんのカレー」にしようと思う。

 辛くない黄色いカレーは、夫が好きなやつだ。

 団地への帰り道、めっきり人のいなくなった小さな公園を通る。

 そして、気がついた。

 子どもが一人、ジャングルジムの上に腰を下ろして、空をじっと見上げていた。

 半ズボンの足はぶらんと垂らして。

 どこの子だろう。

 このあたりで見かけたことのない子どもだけれど、最近、団地に越してきたのだろうか。

 子どもはそのまま動かず、ずうっと空を見ている。

 私は、思わず、その子の視線を追いかけた。

 目に入るのは、夕暮れの、次第に青みが深くなってきた空。

 その空に。

 あれかな?

 飛行機雲が、ひとすじ、白く、長く伸びていた。

 のびていく飛行機雲の、その先で、沈みかかった太陽の光を、きらりと反射する飛行機。

 ああ、あの子は飛行機雲を眺めていたんだね。

 私はなんとなく胸落ちして、また家へと歩き出す。

 私の世代なら誰でも知っている、あの歌を口ずさみながら。




 膝の上にバッグを載せて、市バスに揺られていた。

 これから市役所に行かなくてはならない。

 平日は、夫が車を通勤に使うので、私はいつも市バスを使う。

 ぼんやり、窓の外の、町の風景を見ていた。

 いくつ目かのバス停にバスが停まる。

 高齢の女性が、苦労しながら乗車してくる。

 運転手はそれをじっと待っている。

 お年寄りは、3と印字された整理券をとると、手すりを掴み、大儀そうに身体を持ち上げる。

 私は、視線をまた、窓の外に向けた。

 ん…?

 あれは?

 そう思ったときには、もうバスは走り出していた。

 腰を浮かして、ふりかえった。

 ああ、もう見えない……。

 私が見たのは、いや見たと思ったのは、あの公園で見た子どもだった。

 あの時の、半ズボンの子どもを見たような気がしたのだ。

 でも……。

 考えるほど、自信がなくなる。

 一瞬のことだったし、場所が、おかしかった。

 通りに面した銀行の屋上。

 そこに設置された大きな看板の、その上に。

 あの時のように腰をかけて、空を見ていた。

 いや、ありえない。

 ちょっと考えれば分かる。

 あんなところに子どもが入れるわけはないんだから。

 見まちがいだ、なにかの。

 私はそう考えて、自分を納得させることにした。

 はっと気がつくと、私の後ろの座席から、さきほどのお年寄りが私を見ていた。

 瞬きの少ないその丸い目。三角に曲がったマスクがまるでくちばしのように、とがって突き出していた。

「あ、ああ、すみません……」

 思わず謝る。

「知り合いを、見かけたような気がしたので……」

 あわてて身体を戻した。

 用事を済ませた帰りのバスで、銀行の横を通過するとき、目をこらしてみたが、もちろん、そこに人がいるはずはなかったのだ。



 それからだった。

 私は、その子どもをよく見かけるようになった。

 彼は、いろいろなところにいた。

 毎日の生活の中で、私がふと視線を向けたその先に。

 夫と車ででかけたその道すがら、通り過ぎる道路の脇に。

 マンションのベランダで洗濯物を干していて、のばした視線のその先、向こうのビルの屋上に。

 田圃の中に建つ高圧線の鉄塔の、その途中に。

 ひょっとしたらありえる場所、どうしてもありえない場所。

 その子どもは、いつも、空を見上げていた。

 友だちと、久しぶりに二人でお茶していた、喫茶店の窓から、彼を見つけたこともある。

「ねぇ、ちょっと見て!」

 私はおしゃべりを中断して、

「あそこ、あの子ども!」

 友だちに声をかけたのだが。

「えっ? どの子? どこ? だれも――」

 そんな返事が返ってきただけだった。

 そして、見直したとき、たしかにそこには誰もいなかった。



 私がおかしいのだろうか。

 ほんとうは存在しないものを私は見てしまっているのだろうか。

 そんなことが繰り返されるうち、私はどうしても、その子どもに直接問い詰めるしかないと思うようになった。

 そうはいっても、ビルの屋上などにいられても、どうしようもない。

 でも、そうだ、最初にあの子を見つけたあの公園のジャングルジム。

 あそこなら――。

 それから私は、公園をできるだけ通るようにした。

 子どもがいないか、目を光らせる。

 そして、ついに努力は報われた。

 いた!

 その子は、最初の時と同じように、ジャングルジムの上にいた。

 私は、子どもから目をそらさず、急いで走りよる。

 公園は静まりかえり、私とその子ども以外誰の姿もない。

 私の足音だけが響く。

 公園を挟むように立つ、団地の壁に、私の足音が反響する。

 子どもは、私がそんなふうにけたたましく近づいても、気にするそぶりもなく、空を見上げている。

 私もあの時と同じように、子どもの視線を追うが、やはり、そこには青白い空があるだけ。

 今は、空に飛行機雲もなかった。

「ねえ、何を見てるの?」

 私の問いただすような呼びかけに、子どもは空を見たまま、応えた。

「鳥を……鳥を見ています」

 静かな声だった。

「鳥?」

 私は、もう一度空に眼をこらす。

 でも、空のどこにも鳥なんかいない。

「どこに、鳥がいるの。私にはみえないわ」

「おおきな、鳥です、空いっぱいの」

「ええっ?」

 おかしなことを言っている。

「何のことなのか、ぜんぜんわからない……」

 つぶやくようにいった私に、ようやく子どもは、顔を向けた。

「空を覆う、おおきな鳥です」

 と言った。

「その鳥をみはっているのです」

「それで、その鳥は何なの。なんであなたは見張っているの」

「その鳥が、羽ばたくのです、翼をひろげて」

 わからない。

 私は混乱するだけだ。

 しかし、子どもは続ける。

「そうすると、世界が翼の影に入る。その時、右の翼の影に入れば、それは吉兆です」

「吉兆って」

「世の中に、善なる連鎖が生まれるのです」

 どう考えてもおかしな会話。

 私の毎日の暮らしと隔絶したこの子どもの言葉。

 でも、聞き続けずにはいられない。

「もし、世界が左の翼の影に入れば、それは――」

「それは」

「凶兆です。さらなる災厄が——」

「そんな」

「だからぼくは、空を見ている。鳥をみているのです」

 その顔はひどく大人びていた。

 その時。

 どこからともなく聞こえたあの——バサリというあれは、まさか、あれは大きな羽ばたきの音。

 一瞬、日が陰るように辺りがかすかに暗くなり、そして戻った。

「今のは、今のは!」

 私は叫んだ。

「どちらの翼の影なの!」

 だが、叫んだ私の前に、もう子どもの姿はなく。

 私一人が、公園に立ち尽くしている。

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