手探りの夜、手繰り寄せる糸
緒出塚きえか
第1話
深夜二時、時刻にそぐわないインターホンが鳴り響いた。
そっとリモコンの一時停止ボタンを押して、息を潜める。折角撮り溜めた深夜アニメの鑑賞は、横槍が入ってしまった。
玄関に恐る恐る近付くと、リビングのスマホが鳴り出し慌てて戻る。着信画面には、松永沙耶の名前が表示されていた。すぐに通話ボタンを押すと「起きてるんでしょ? 早く開けて!」と捲し立てた。
「何、寝ぼけてる?」
「緊急事態! 早く中に入れて! 寒い!」
スマホを耳元から下ろし、足音を立てずに扉に近付くと、覗き穴から沙耶が見えた。
顔面蒼白な沙耶は落ち着きがなく、切羽詰まっているようにも見えた。そっと扉を開くと「よかった……いた」と心なしか涙ぐんでいるように見えた。
「どうぞ……?」
お邪魔します。先程までの威勢はどこへやら、俯きながら中に入った。
ラグの上に座る沙耶の膝元にブランケットをかけてから、キッチンへと向かう。
アルコールの匂いがしたので酒が入っているのだろう。思い返してみても、沙耶が今まで酒がらみで人に迷惑をかけるようなことは一度もなかった。まして深夜二時に人の家に押しかけることなど。
電気ケトルで湯を沸かし、マグカップに注ぐ。ほんの少しだけ蜂蜜とレモン汁を滴らした。
生姜と迷ったが、沙耶は生姜が得意ではない。いつだったか「全女子が生姜好きだと思い込んで商品作ってる奴って、しょうもない男だと思うんだよね」と言っていた。……そんな人物像かは定かではないが。
一向に口を開かない沙耶にマグカップを出すと、一口飲んで「……なんで」と小さく呟いた。
「なんでって……具合、あんま良くないだろ? 顔色悪いし。洒落たもんは出せないにせよ、あったかいものの方がいいかと思って」
「……」
「で、どうした? こんな時間に」
努めて優しく、声をかける。
そりゃそうだ。長年片想いをしている相手が、急に自宅へやってきたんだから。
嬉しい気持ちと同時に内心「あぁ、男として見られていないんだ」という事実に打ちひしがれそうにもなっている。
「あのね、とっても言いにくいんだけど」
「うん」
「その……。頼れるのが、吉谷しかいなくて」
「うん? 俺、なにかお願いされるの?」
「そう……お願いがあって」
「俺にできること?」
「べ、別に自分でもできるっていうか、何回もやってはみたんだよ? だけど上手いこといかないっていうか……なんかよくわかんなくなってきちゃって。ただでさえお腹痛いのに、なんでこんなことになっちゃったんだろって感じでもあるんだけど……。原因はお酒なのかな……お酒、だとは思うんだけど、でも会社の人たちと呑み会で、どうしても行かなきゃいけない流れで、断れなくて……」
「うん、そっか。よく頑張ったんだな、お疲れ様。それはそれとして、俺へのお願いが見えてこないんだけど……?」
「うぅ……。でも、やっぱ辞める。自分でもう一回やってみる。帰る」
ちょ、ちょっと待った! と立ち上がる沙耶の手首を掴んだ。思っていたよりもずっと、ずっと細くて丸みを帯びていた。
「自己完結すんなって! 俺も言い方がキツかった、突き放したみたいに聞こえたかもしれないけどごめん、そうじゃないから。そこまで言われたら気になるし、人に頼りたくなるぐらい切羽詰まってるんだろ? 話だけでもしてみたら? 俺で力になれるなら、」
沙耶ちゃんの頼みなら、なんだって。とは言えなかった。
「……ありがとう、吉谷」
ずるずるとしゃがみ込み、ぼろぼろと泣き出した。不安だったんだろう。なんでも抱え込みがちな沙耶は、人に頼ることがほとんど無い。
小さく疼くまる身体をそっと抱きしめて、真綿を撫でるように、背中を優しくさすった。
「…が、ないの」
腕の中で、ぽつりと溢した。
「ん? なにがないの?」
自分でも引くぐらい語尾が優しくなった。
「タンポンが……ないの」
「……はい?」
紅茶を高い位置から淹れる某ドラマの刑事並みに、訝しむ声が出た。……聞き間違いか。
両肩を掴み、ゆっくり身体を離す。
「入れたはずのタンポンが、入ってないの」
いいや、間違いなく、沙耶ははっきりと、タンポンと言った。
「仕事が終わって、居酒屋に向かう前に会社のトイレでタンポンを入れたの。トイレで中座する時にポーチとか持って行けないじゃない? それでナプキンじゃなくて、タンポンにしたの。で、帰ってきて外そうと思ったら入ってなくて、探したんだけど紐もなくて、色々ネットで調べたんだけど……」
ちょっと待った、と静止を入れる。沙耶は平然とタンポンやらナプキンと言っているが、これはもしや……。
「タンポンって…あれ? 生理用品の」
「逆に生理用品以外のタンポンってあるの?」
いいや、俺は知らない。残念なことに実物すら見たことがない。男三兄弟の俺は、生理用品に触れる機会が皆無の人生を送ってきた。
「奥に入りすぎちゃったのかと思って、何回も何回も血塗れになりながら探してみたんだけど、全然なくて……自分の指じゃ短いのかな、って思って。男の人の方が、ほら、指長いじゃない? だから探しやすいかな、って思って。吉谷なら……頼まれてくれるかな、って……」
教習所で初めてマニュアル車を運転した時も、仕事でトラブルが発覚した時も、心臓がこんなに脈打つことはなかった。
俺は今、人生で初めて気が動転している。
そんな俺を置いてきぼりに、俺の右掌と沙耶の左掌を合わせ「ほら、吉谷の方が長い!」と喜んでいる。
「あ、え……ん? あー、え、今までこんなことってあった? その、入ってる、みたいな異物感? とか、わかんないもんなの?」
「しっかり入ってると、異物感ってないの。手前とかだと『あ、変なとこに入れちゃったな』みたいなのはあるんだけど……いかんせん、自分で探すのに掻き回しちゃったから、もう感覚がイマイチわかんなくて……」
それは俺にもわかりません。というか……、
「そもそも俺、タンポンって実物を見たことがないんだけど、どう、」
はい、これ。と、ビニールに包まれた白い物体を渡された。
長さ約四センチほどのロケット状で、縦に線が幾つも入っている。ピンク色の紐のようなものがくしゃくしゃっと端に纏められていて、想像していたよりも硬かった。
「フィンガータイプって言って、私が使ってるやつ。指でグッと入れるんだけど、いつもならこの下の紐を外に出しておくんだけど、今日は紐を出したかどうか、急いでて記憶も曖昧で」
「え、っと……紐? は、何に使うの?」
「交換する時に紐を引っ張ると出てくるの。じゃなきゃ出せないでしょ?」
あぁ……。正直、生理用品の広告やパッケージぐらいは見たことがあれど、実物を開封したものはさすがに見たことがなかった。
この十分そこらで、情報過多だ。
「え、んじゃ沙耶ちゃんの中にコレが入ってるから探して欲しい、ってこと……? 俺が? どうやって!」
「いや……だからその……指で。ほら、私より指長いでしょ? だから、探しやすいかな、って」
そもそもタンポンとは、女性の体中に入れる目的の商品のはずだ。それが奥に入ってしまって、取れなくなってしまうことなどあるのだろうか。女性が使うものなのに、女性が取り出せなくなってしまうのは本末転倒ではないだろうか。
しかも生理用品ということは読んで字の如く生理中に使うものであって、取り出せなくなるということは肉体的にも精神的にもかなりの負担がかかるのではないだろうか。
一刻も早く取り出さなければならないことはど素人の俺にでも判る。血液を吸収する異物が体内に入りっぱなしなど、衛生的にも良くない状況のはず。
でも……!
二人向かい合ったまま、俺はタンポンを握りしめて、なぜが正座になっていた。
沈黙を破ったのは沙耶だった。
「……だめ?」
俯いた顔を上げると、沙耶が不安げな表情でこちらを伺っていた。
「彼氏は、」
「別れた」
「はあ? 付き合ったばっかだろ?」
「昨日別れたの。その話は後でするとして、彼氏がいたとしても、私は吉谷に頼んだと思うよ」
それはどういう……。沙耶の頭の中はいつだって読めない。
「だからお願い。吉谷、助けて」
好きな女に頼りにされて、助けてとまで言われて、動かない男がどこに居よう。
でもその前に、俺にはやらなきゃいけないことがある。
「わかった、やるよ。でもその前に、話があるから聞いて欲しい」
千載一遇の告白のチャンス。今まで引き寄せることのできなかった、最初で最後になるかもしれない好機。
そして、俺なりの誠意。
「俺、沙耶ちゃんのことがずっと好きだった。だから、不安なときに頼ってくれて嬉しいし、凄く心配もしてる。本当なら救急で病院に行ってもいいんじゃないかとすら思ってる。でもきっと、沙耶ちゃんの判断で俺の所に来てくれたんだよね。だから、その信頼に俺なりに全力で応えたい。でも好きだからこそ、下心無しで沙耶ちゃんに触れることはできない。……そんな奴だけど、それでもいい?」
自信はない。そもそもこの状況で、いい返事が貰えるとも思わない。沙耶が困っている状況での告白は、卑怯な気すらする。
片想いを続けて五年余り、潮時だと自分でも判っていた。けれど下心の混じった人間が、善意と称して沙耶に触れることを俺自身が許せなかった。
これで悔いは、ない。
沙耶はゆっくりと、艶然に微笑んだ。瞬間、全てを悟った。
さしずめ俺は、目前に人参を垂らされた馬でしかなかった。
「うん。知ってる」
手探りの夜、手繰り寄せる糸 緒出塚きえか @odetsuka_kieka6
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