第二話



 藍歌らんかは驚いてしばらく言葉を失っていた。

 

 それがどこからやって来てなぜここにいるのかということはとりあえず横に置いておいて、生まれたばかりの赤子が無事であることに安堵する。


 暖かな日差しと青い澄み渡った空。縁側は明るく、置かれた籠の中ですやすやと眠る赤子の顔はどこまでも穏やかだった。

 

 その籠を守るかように丸くなって眠っている黒い物体もまた居心地が良いのか、まったりとくつろいでいるように見える。


「あらあら。立派な毛並みのわんちゃん。どこから入って来たのかしら?」


 よく見れば門が少しだけ開いていた。そこから入って来ただろう、野良犬には到底見えない、立派な毛並みの黒い大きな犬に話しかける。


 藍歌らんかの問いかけにぴくぴくと耳が動く。それが可愛らしくて、思わず肩を揺らしてくすくすと笑う。


 邪魔をしないようにその場にしゃがんで、赤子の頭を撫でながら優しい声をかける。


無明むみょう、ほらほら、見て? わんちゃんが遊びに来てるわ。嬉しいわねぇ」


 藍歌らんかが近づいてもなにも気にしないその黒犬は、人に慣れているのかしっかり躾けられているのか、とにかく品がある。


 その声に応えるようにぱちっと大きな瞳を開いた赤子が、その翡翠の瞳に藍歌らんかを映すと、短い両手をめいっぱい伸ばして上下に動かした。


 包まれている白い布に貼られた封印符が剥がれそうになって、慌てて手で押さえると、藍歌らんかはいたたまれない思いで、伸ばされた小さな右手をそっと包み込む。


「あなたの父上が頑張ってくれてるから、どうか、もう少しだけ我慢してね?」


 気付けば黒犬はお行儀よくその場に座っていた。黒犬は思った以上に大型で、藍歌らんかが縁側に正座をしたら、ちょうど同じ高さに金色の眼がある。赤子は興味があるのか犬の方へ手を伸ばそうとするが、届かない。


 それに気付いてかどうかは解らないが、黒犬は自ら頭を下げて覗き込むように鼻を差し出す。触れられたことに満足したのか、赤子はご機嫌な声を上げてきゃっきゃっと笑った。


「ふふ。この子、あなたのこと好きみたい」


 首を下げ赤子に鼻を触らせたまま、金色の眼が様子を窺うように少しだけ藍歌らんかの方に向けられる。


 首を傾げて藍歌らんかはにこにこといつものように花のような笑みをこぼしたかと思えば、眼を細めて悲し気な表情になる。


「私のせいで、この子が苦しむのは嫌だわ」


 黒犬は顔を上げ、藍歌らんかの腕に頭をすり寄せる。人の言葉を理解して慰めてくれているようなその仕草に、思わずふふっと笑みをこぼす。


「あなたは、ただのわんこちゃんじゃないわね?」


 黒犬は金色の眼を見開いて、ひどく驚いたように耳をぴんと立てた。それを確認して得意げに藍歌らんかはふふんと鼻を鳴らし、黒犬の頭を撫でる。


「そう、あなたはわんこちゃんじゃない······そう、狼さんね!」


 ドヤ顔で言い放った藍歌らんかに、黒犬はぴんと立てていた耳を心なしか下げ首を傾げる。想像していた斜め上の答えが返って来たからだ。


(なんだか懐かしいな、この感じ)


 表情をくるくると変える藍歌らんかに、親近感を覚える。肝心なことには的外れで、天然炸裂なところが、遠い日のあのひとの面影に似て。


光架こうかの民ってみんなこんな感じなのかな?)


 黒犬はすやすやといつのまにか眠ってしまった赤子に視線を落とす。黄色い封印符がべたべたと貼られた白い布に包まれた、赤子。


 光架こうかの民である藍歌らんかは気付いたはずだ。気付いていないはずはない。時が過ぎても彼らの記述は受け継がれている。


 まるで、その事実を隠したいかのようだ。


「あなたがなんであっても、この子を大切に想ってくれるなら、私は、嬉しいわ」


 それは、どこまでも見透かしているかのような。不意打ち。


「もし、万が一、この子がひとりで危ない目に遭ったら。今みたいに、近くで見守っていてくれる?」


 まっすぐに見つめられ、黒犬はこくりと頷く。それを確認して、藍歌らんかはよしよしと頭を撫でてくる。


 春は、あのひとが生まれた日。優しい陽だまりの匂い。桜が雪のように舞い散る縁側で。何度も笑いかけてくれた日々。


 たったひと月だったが、永遠ほどに愛しい時間だった。


 そして、あの日から七年が経った。



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