長屋で一人暮らしをしている女が、何者かに刺された。

 白昼堂々の出来事である。幸いにも、女の悲鳴を聞いてすぐに、長屋の住人が駆けつけて、刺されたおくまという名の女は、深手を負うことはなかった。刺した何者かは裏戸から逃げてしまったが……と、まだ動転している番屋に知らせに来た男が、う這うのていで言った。

「お前は、波川屋の……」

 番屋に居合わせた仁助が来てみると、なんとおくまはつい先日、仁助が訪ねた女であった。

 おくまは、仁助たちが訪ね歩いていた波川屋の元奉公人の一人である。

「まったく、波川屋に関わってから散々だよ……」

 自分を刺したのは、勤めていた時分に見知っていた、波川屋の用心棒だとおくまは言った。

 用心棒は突如として現れ、土足で家の中に踏み入って刺したそうだ。一突き目は心臓めがけていたのを避け、左腕をかすめた。二突き目がくり出されようとしたときに、運よく、長屋の住人が来てくれて助かったのだった。

 また、波川屋に関わる事件がもう一つ……

「その用心棒は、織本という男か?」

「違うよ。織本ってのは会ったことがないけど、私を刺したのは違う用心棒さ」

「波川屋にいる用心棒は一人ではないのか?」

「一人だけじゃ不安なんだろ。命を狙われる覚えがありすぎて、何人も雇ってるんだから」

 悪事をしてまで永らえたい命ということか。人を人とも思わない所業を繰り返し、そのうえ自分は保身に走る。調べれば調べるほど、胸糞が悪い。

「お前にはすまないが、まだ聞きたいことがある」

 おくまはそっと、てのひらを差し出した。

 彼女も波川屋に奉公して、深い傷を負った一人である。幽霊の気味悪さにやめた奉公人を除けば、仁助が会った中では、おくまの精神はましな方だ。やさぐれてはしまったようだが……

 仁助から渡された一分銀に、こんなにくれるのかとおくまは気を良くしたようだ。

「波川屋で手代が一人亡くなっているが、手傷を負わせ、蔵に閉じ込めたのは久兵衛だろう」

「閉じ込められた次の日には、ぽっくりっちまいましたよ。箝口令かんこうれいは敷かれましたがね、もう辞めちまった私には関係ないから……」

 否定しないということは、やはり、手代を殺したのも久兵衛ということだ。

 もしや、手代を殺したことが露見しないように、おくまは口封じをされようとしたのではないか。しかし、今になってするだろうか。手代が亡くなったのは二年も前のことだ。

「他に、火傷やけどをしてしまった者はいないか……もしいたとして、久兵衛にやられたのか、教えてほしい」

「……おみののことかい」

「おみの……」

 その名を聞いたことがある。どこで……そうだ、ついさっき……!

「小梅村の、おみのか」

「ああ、たしか小梅村の出身だって言ってたことがあったっけ」

 小梅村出身のおみのとは、深萩神社にやって来た一太の母だった。

 一太の母親は波川屋に奉公していたおみのであり、うたが影響を受けてしまった霊でもあるということだ。

「おみのは特別だったのよ。特別っていっても、いい意味ではないけど。久兵衛がえらくおみのを気に入っていてね。おみのだけはろ……」

 そこでおくまは言葉を区切った。一分銀の力で手代の死については言えても、どうやら躊躇ためらう存在がいるらしい。

「老中にくれなかった」

 飲み込んだはずの言葉を仁助が口にして、おくまは少し驚いた様子だ。

「なんだい、知っていたの……」

「手代は、お前たちをないがしろにしている久兵衛をとがめたが、逆に痛めつけられたのだろう」

「そうだよ。思い出しただけでも忌々いまいましい……偉いお人だからって、あんな奴に……」

 口惜しさと恐怖は今も、おくまの中に存在している。

 あと少しだけ……当時を思い起こさせることを聞くのは非道と思いながら、仁助は尋ねた。

「相手が違くても、おみのだって地獄だったさ。もっと可哀想なのは、嫌がるおみのと久兵衛が揉み合って、あの子……茶釜の湯をかぶって顔に大火傷をしたんだ」

「それからおみのは……」

「実家に帰されたよ。顔に傷ができたから用なしって、こくな話だろ」

 本当に、忌々いまいましいな……つぶやいたかどうかも定かでない、仁助の言葉であった。

 このまま久兵衛が裁かれなければ、犠牲者は増え、浮かばれない怨霊たちが跋扈ばっこし続ける。久兵衛が裁かれるための犠牲であるのならば、甘んじて受け入れる覚悟だ。

「辞めたときに久兵衛自慢の植木鉢の一つでも壊しときゃよかったよ」

 悪を断つ。それ以外に道はない。

「気分を悪くさせてすまなかった。しばらくは手下にこの長屋を見張らせるから、安心はできねぇだろうが、命は守る」


 深萩神社から戻ってきた織本は、勝手をしていたことを久兵衛になじられていた。

「またあの娘のところに行っていたのか」

 織本は久兵衛という男が好きではない。しかし浪人の身分で、ありつけた用心棒の仕事を失うわけにはいかず、仕方なく勤めているのだ。

「井楢屋が連れてきた娘は知り合いなのか?」

 儀式で見かけたきりであったうたが、波川屋を訪ねて来たのには驚愕きょうがくした。しかも波川屋を探っているのがありありと伝わってきて、なぜ彼女がと思いもしたが、織本にとっては理由など、どうでもよかった。

 うたのためならば何でもする。深萩神社でうたの姿を見たときに、その決意はより一層固くなっていた。

 心霊現象に巻き込まれたうたが心配で、我慢できず、彼女のもとに行ってしまうのだ。

「いや……」

「ならばよい。織本、あの娘を殺せ」

 織本は殺気とともに、久兵衛を見る。しかし久兵衛を取り巻く瘴気しょうきの方が強く、殺気ははじき返されてしまった。

「断る」

の悪事をばらされてもいいのか」

「悪事とはよく言えたものだ。この前、取っ捕まったのも、本当はお前が殺したんだろう。言っておくが、俺に脅しは効かない」

 久兵衛は動じなかった。彼には絶対に自分は捕まらないという自信と、後ろ盾を得ている。面の皮が厚いとはこのことだ。

 この男がうたを殺そうとしているのであれば、もはや用心棒にこだわる理由はない。一番は、うただ。

「待て!」

 久兵衛の制止を聞かず、織本は波川屋を去っていった。


 殺された男の顔を描いた絵を見て、一太は又良に間違いないと断言した。

 という知らせを環游から聞いた伝吉が仁助と合流したのは、仁助がちょうどおくまの家を出た後だった。

 環游の報告はもう一つ、深萩神社に男たちが押しかけてきて、一太をさらおうとした騒動があったということだ。

「老中の子と言っていたんだな」

「へい。まさか一太は、老中のお手付きになってできた子じゃ……」

「一太の母は老中には与えず、久兵衛だけが独占していたはずだ」

 おくまがそう証言している。仮に老中の子であったとしても、疑問がある。

「老中が一太の存在を知って引き取ろうとした。けど、又良が反対したから、腹心の久兵衛が殺したっていうんなら、話が通るんですがね。でも、又良は一太を波川屋に連れて行こうとしてたってことは、反対してたわけじゃねぇか……」

「情もかけなかった男が反対するとは思えない。しかも反対していたのなら、一太は連れてこなかったはずだ」

 ときには殴ってしまうほど鬱陶うっとうしく思っていた一太が、老中に引き取られるとなれば、又良はよろこんで差し出したのではないか。金をくれるのではないかとも、欲が出たかもしれない。

 しかし、一太が老中の子であることはあり得なかった。わざわざおくまが嘘の証言をする意味もないはずだ。だが、現に一太を老中の子であると言った者がいる。

——話が違う!

 殺される前に又良が言っていたという言葉を、仁助は思い出した。

「……逆だ」

「逆?」

「一太は老中ではなく、波川屋に引き取られるために江戸に来たんだ。一太の母だけは久兵衛が手を付けた。おみのが波川屋を辞めた後で、身籠っていることがわかり一太を産んだ。又良は一太の父親が、久兵衛であると知っていたのだろう。はじめはけんもほろろにおみのを店から追い出した久兵衛が、一太を引き取ると又良に話を持ちかけた」

「老中の子っていうのは、嘘だったってんですかい?まさか……」

「そうだ。久兵衛は自分の子である一太を、老中の子と偽っている。誰か一人を気に入っていたのならともかく、老中の犠牲になった女は多い。いちいち女中の名前など気に留めていなかっただろうし、名前すら知らない女に手を付けていたかもしれない」

「お前が手を付けたおみのって女が、実はお前の子を産んでいたと言っても、不自然じゃねぇ。なんて野郎だ……」

 一太の歳は五つ、つまり五、六年も前に手を付けた女を偽るのは容易たやすい。

 自分が手を付けていたおみのではなく、別に架空のおみのを作り出すことによって、あろうことか老中をだまそうとしているのである。

(そうか、別人か……!)

 ばらばらだったいくつもの事件が、一つにまとまろうとしている。冴え渡った仁助の頭の中では、久兵衛が偽った理由、すべてのからくりを見破っていた。

「おくまは波川屋を辞めた女中の中でも、精神的にはまともだった。おみのは老中に手を付けられていないと知っているおくまを、口封じに……」

「旦那?」

 久兵衛は手段を選ばない男だ。

「うたが危ない……!」


 兎之介は苛々いらいらしながら、うたの膝の上に座る一太を見ていた。

 異常な状態に巻き込まれたうたが、元気でいてくれるのはほっとする。その笑顔を独り占めしたいというのに、一太はうたから離れようとしなかった。

 また悪い虫だ。

 一太と折り紙で遊んでいるうたは楽しそうで、可愛いと思いつつ、構ってくれなくて寂しい。

「おい、ガキ。うたから離れろ」

「ガキじゃなくて一太くんよ。兄様は子ども相手にも口が悪いんだから……」

「子ども相手にくなよ。みっともないなぁ」

「生意気なガキだ……」

 たしかに、子どもに目くじらを立てるのもみっともない。何より、うたの自分に対する好感度が下がってしまうのは嫌だと、兎之介は溜息一つで抑えることにした。まあ、子どもと遊んでいる姿も目の保養になる。

 どたどたどたどた……

 なんだ、せっかく心が落ち着いてきているのに。

 せわしい足音を立てて部屋に入ってきたのは、宿禰だった。

「また、一太くんを連れ去ろうとする方たちが……!」

 耳をすませれば、激しい喧騒の声が聞こえてくる。

 一太くんは裏から逃がしますと、宿禰は一太を抱えて走り去った。四人で逃げれば気づかれてしまうかもしれないと、その場に残ったうたと兎之介は身を寄せ合った。喧騒は目の前に迫っている。

「て、てめぇら、何度来てもいねぇもんはいねぇんだ」

 子どもがいないとわかれば、前回のようにあきらめてくれる。自分たちが引きつけている間に、一太が逃げられるようにと、災難が去るのを待っていたのだが……

 どうしたことか、部屋の中に一太はいないのに、男たちは去ってくれない。それどころか、白刃を抜き放った。

(違う……一太くんじゃない……)

 男たちの殺気立った視線は、うた一人に注がれている。

 彼らの目的は、うただった。しかも、穏便な形ではない。

 逃げることもできず、殺されるという強い思念が、うたの身体を硬直させた。振りかざされた刃のあとで視界にとらえたのは、自分をかばおうと包み込んでくれた、兄の姿だった。

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