一太にとって、深萩神社での生活は楽しかった。ご飯はたくさん食べれるし、宮司も神官も、一緒に遊んでくれる。大人に優しくされることには慣れていなかった一太は、当初は戸惑っていたものの、宿禰たちがぶったり、理由もなく怒鳴ったりしなかったので、すぐに懐いた。

 もう小梅村には帰りたくないなんて、思ったりする。

 穏やかな日々を過ごしていたとき、突然、顔にひどい怪我をした少女が、神社にやって来た。

 初めて会うはずの少女に、一太は何故なぜか、懐かしさを感じた。

 抱きしめてほしい。遊んでほしい。声が聴きたい。

 恋慕れんぼに似た感情さえ、芽生え始めている。

神子みこ様はしばらく、ここで一緒に生活しますよ」

 大人たちの長い話が終わってから、神官が教えてくれた。

 一太はうれしさのあまり、うた探しに廊下に駆け出したとき、

「子どもをかくまっていることは知っているんだ。早くその子を渡してもらおう」

「何のことでしょうか。ここには私と、神官の二人しかおりません」

 外で野太い男の声が聞こえた。答えているのは、宿禰の声である。

 一太のいる廊下からは、彼らの姿は見えなかった。

 絶対に、姿を見せてはいけない。一太は瞬時に、そう感じた。

 宿禰と話している男は自分を連れ戻そうとしている。嫌だ。小梅村には帰りたくない。もうぶたれたり、怒鳴られ続ける生活には戻りたくない。

(おねえちゃん……)

 うたの姿が恋しくなって、一太は再び駆けた。

「いくら申されましても、おられないものはおられません」

「恐れ多くも老中の子だぞ。それでもしらばっくれるんなら、どうなってもしらねぇよ」

「なぜ左様な高貴な方がおりましょうか……」

 いきなり深萩神社に、男が五人で押しかけてきた。人を見た目で判断してはいけないと言うが、明らかに不逞ふていな浪人たちで、刀をちらつかせては脅してくる相手に、宿禰は一太がいることを隠すことにした。

 しかし男たちは、話し合いでは納得してくれそうにない。

 同心と御用聞きがいてくれたら心強かったものを、いま、神社には他に神官が一人と、か弱いうたと一太しかいなかった。

「宮司、この方たちは……」

 うたと一太に茶菓子を持っていこうとしていた神官は、不穏な男たちと話している宿禰を見かけて、思わず声をかけた。

 もし男たちに踏み込まれたら、二人を護る人が側にいない……宿禰の不安は早くも的中した。

「ええい!まどろっこしいわ!」

 宿禰たちの制止をはねのけて、一斉に男たちが神社に乱入した。

 一方、ただならぬ様子で逃げてきた一太は、うたと一緒に、押し入れの中に隠れていた。

 助けてほしいとすがってきた一太を、必ず守り通さなければならない。この使命感の源は、何だろうか。

——この子だけは、守らなきゃ。

 命に代えても、胸にうずくまる小さい身体を、守ってみせる。

 足音が、二人の前に迫ってきた。

 男が押し入れに手をかける。勢いよく、引き戸が開かれた。

「どこに隠れている……!」

 すべての部屋、押し入れの中、隅から隅まで探しても、男たちの探し人はいなかった。

「災難だのう」

 この世には不思議な世界が存在するわけで、うたと一太が男たちに見つからなかったのも、その世界にいたからだった。

 深い霧は、かの方が作り出す世界の象徴である。

 見事に現実から別世界に切り離された二人は、同じ押し入れの中、いつの間にか横に座る女の子の声を聞いた。

「みこ様!」

 うたはあわてて口を押さえた。

「案ずるな。ここにいれば声は聞こえない」

「あ……神社にいた、女の子……」

 君は誰?と聞こうとした一太の視界は、濃霧に埋め尽くされた。うたがみこ様と呼んだ女の子と出会ったとき——はじめて一太が深萩神社に来たとき以来、会うことのなかった女の子は、一体何者なのだろうか。

「……そろそろ、いいだろう」

 霧が晴れたとき、みこは姿を消していた。代わりに姿を現したのは、宿禰である。いや、姿を現したのは、うたと一太の方か。

「……!二人とも、今までどこに……」

 無人だったはずの押し入れの中には、無事な姿の二人がいた。

「私、また神隠しにあったみたいです。みこ様が私たちをかくまってくれました」

 十二年前に神隠しにあった少女は、うれしそうにそう言った。


 客足はめっきり減ってしまったけれど、うたは毎日来てくれて、他にも木花屋に蔓延まんえんしてしまった悪しき噂を気にせずに来てくれる客もいると、いつ子が久方ぶりに笑顔を見せてくれた。

 誰からも見捨てられたわけではない。うたのような、そして自分のことを信じて、事件解決に奔走ほんそうしてくれている伝吉たちがいるのに、いつまでも落ち込んだままではいけないと、最近では店の手伝いもしているという。まだ外に出かけるのは恐ろしいらしいが……

「伝吉さん、危ないことはしないでね」

「危ないことをするのが仕事だからよ」

「もう。すぐ人の揚げ足を取る」

「少しは調子が戻ってきたみたいじゃねぇか」

 いつ子が目撃した事件で殺された、身元不明の男は、一太と小梅村に住んでいたという又良が同一人物かもしれない。

 それを確かめるため、伝吉が思いついた術とは、事件の捜査ではお馴染みの、京斎環游に絵を描いてもらうことであった。

 伝吉は殺された男の顔を知っているので、伝吉の記憶をもとに環游に絵を描いてもらい、その絵を一太に見せて、又良かどうかを確かめるという考えであった。これならば、一太に死体を見せて確認する必要はない。しかも捜査に協力すれば、環游も手間賃をもらえるので、一石二鳥といったところであった。

 さっそく伝吉は環游に会いに行って、絵を描いてもらったわけであるが、さすが、そっくりだと褒めれば、深萩神社には自分が確かめに行ってあげると、気を良くした環游が言ってくれたので、伝吉は空いた時間に、いつ子を訪ねたのである。

「なっ、口吸いの一つでももらえれば、もっと頑張れるっていうか……」

 調子に乗るのは伝吉もだ。

「いいよ」

 張り倒されると思ったが、いつ子からは意外な返事をくれた。

 目を閉じて、にやけながら、伝吉は待った。まだか、まだか……

「やっぱだめ」

 ちぇっと、目を開けるより早く、柔らかい感触が伝吉の頬に触れた。

 ああ、満足。恥ずかしがっているいつ子の顔が、また可愛い。

 だが、伝吉のにやけ顔も長くは続かなかった。

「いつまでも騒いでるんじゃねぇ!近所に迷惑だろうが!」

 伝吉といつ子のやり取りを知ってか知らずが、朔蔵が怒鳴りながら後ろに陣取っている。 

 この人にだけは敵わないと思わせるような威圧感と後ろめたさが、伝吉に降りかかった。

「す、すいやせん……」

「うるさいのはおとっつあんの方よ!」

 いつ子が着実に元気を取り戻そうとしている様子がわかっただけでも、よしと言うべきか。だが、安心して日常を送れるようになるためには、犯人を捕まえなくてはいけないのだ。


「可哀想に……霊だろが誰だろうが、俺が必ずとっちめてやるからな」

 井楢屋香七郎から、妹の身に起きた一件を聞いた兎之介が深萩神社を訪ねたときには、夜半よわを待てずに気の早い月が、空に降臨していた。

 さらしを巻いたうたの顔を見て、兎之介は真っ先にうたを抱きしめていた。その後にいたのは、誰が妹をこんな目に合わせたのかという怒りだ。

 激しい同情と怒りは彼の冷静さを欠き、うたの傷が心霊現象によるものだと説明するのにも、時間がかかった。兎之介にしてみれば、言葉通りどんな存在であっても、妹の顔に傷をつけた相手を許すことはできないというものだ。

「霊は悪くない。こんな傷を負って、可哀想なのは霊の方なの」

 影響を受けてしまっただけで、霊が自分に悪さをしたのではないと、うたは懸命に説いた。

 悪と判ずるべき人物は、他にいる。しかし、その人物こそが波川屋久兵衛だと言ってしまえば、兄は何をしでかすかわからないので、うたは言わなかった。

「お前はなんて健気けなげで良い子なんだ……」

 いつもむきになる口の悪い兄でも、すぐに自分の元に飛んできてくれたことがうれしくて、抱きしめられれば安堵あんどさえする。ことに、今日の兎之介は妹の非常事態を前にして、素直な気持ちで優しく接することができていた。

「苦しい……」

 でも、兎之介の想いは強すぎる。

 押しつぶされそうなほどに強くするのは、心配でたまらないのと、危険な目に合っているときに側にいてあげられなかった、悔しさからだ。

 思えば、兄に甘えられるようになったのも最近で、苦しくても、この時間が愛おしい。

「兄様もほっとする」

「も……?」

 兎之介の太い眉が、反応した。

「仁様も同じように慰めてくれたの。だから、兄様にもぎゅっとしてもらえるなんて、私は果報者なんだわきっと」

「まさか、あいつにも抱きしめ返したりなんかしてねぇよな……いや、何も言うな。聞いたら俺は、人の道を踏み外すことになる……」

 急に兎之介が、常の彼らしい調子に戻っていて、自分の爆弾発言の所為せいであるとは思ってもいないうたは、仁助ではないが気楽である。

 意外にも兎之介が、形ばかりは冷静なのは、うたに火傷の痕ができてしまったこと、大事なうたが悪い虫に寄られたという一大事が一気に起きてしまって、一周回って、暴れるほど頭に血が上らなかったからであった。

「次に会ったら、容赦はしねぇ……」

(兄様、忙しそう……)


「は、っ……!」

 込み上げてきたむずがゆさにくしゃみをしようとした……が、不発に終わった。

 何となくかっこ悪いと感じながら、寒さもあまり感じていないのに、仁助は羽織をにぎりしめる。

 伝吉と待ち合わせている番屋に先に着いたので、しばらく待っていると、一人の町人が番屋に飛び込んできた。

「女が刺された……!」

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