三
儀式当日となった。
朝は曇っていたのが昼には晴れて、このまま好天気が続きそうな気配である。儀式は夜に行われるので、うたは大詰めにかかっていた。
本殿の裏には小さな森があり、真ん中には
小径の脇、それに儀式の場には
失敗してしまったらどうしよう。覚えているはずの祝詞を忘れてしまったら……
深萩神社にいる間は、神子の役目を立派に務めるのだという強い意志で守られていたというのに、うたは儀式当日になって、急激な不安に襲われていた。
「大丈夫ですよ。いつも通りに、心を清らかに、神子様ならきっと成し遂げることができます」
うたの緊張が伝わってきた宿禰が優しく語りかけるも、うたの表情は固いままだった。
「儀式までにはまだ時間があります。それまでに心を落ち着かせなさい」
再び深萩神社の本殿まで戻ってきたうたは、境内から聞こえる喧騒が耳に入った。
「無断で妹の絵を描こうとはいい度胸だ!」
「私はちゃんと、ここの宮司様に許可をもらって描いているんです。世間に公開しなければ構わないと、そう仰ってくれたんで」
言い争っているのは、今日も妹の様子を見に来た兎之介と、絵師の京斎環游だった。といっても、語気が荒いのは兎之介だけである。
「売り物にならねえ絵なんか描いてどうする気だ。妹に手を出そうなんざ俺が許さねえ」
「何で絵を描くことが手を出すことになるんですか。五十年に一度の儀式に立ち会えるなんて、そうそうありませんからね。単純に興味があるんです。それにこの絵を神山の旦那に売って、
「なに……!神山の旦那だと」
兎之介が環游の胸倉をつかんだところで、うたが止めに入った。
「兄様、恥ずかしいからやめて」
「兄に向って恥ずかしいとはなんだ」
そう言いつつ、兎之介は環游から手を離した。環游はほっとした顔をしている。
「この方はいま売り出し中の絵師で、神山様のお手伝いもしている方なんです。乱暴はしないでください」
「うるせぇ。なんであいつの知り合いだからって、俺が気を遣わなきゃいけねぇんだ。いい加減、悪い虫とは関わるな」
「私、虫なんか飼ってない」
思わず環游が吹き出してしまい、兎之介もそれ以上悪態をつく気がなくなったようだ。
他人に対しても、妹に対しても口の悪い兄であるが、お蔭でうたの緊張は少し解けていた。
「環游さん、絵を見せてくれますか?」
「もちろん、どうぞ」
うたが儀式の練習をしている姿を見ることは宿禰から禁止されていたので、環游は境内に腰を落ち着かせ、神子の衣装を
儀式のときはうたの知り合いとして、見ることを許されていたのだが、版元で世間に売らないことを条件に、絵を描くことは許されていた。
環游は練習も兼ねて描いていたのが、兎之介に見つかり、今に至るわけである。
環游の描いた絵はどこか幻想的で、この世のものとは思えない空気に満ち溢れている。しかも描かれている自分が美人になっていて、うたが己と比べて美化させ過ぎだと抗議しようとしたとき、視界に入ったあるものに目を奪われた。
「この記号は……」
小鳥が舞うように、神子の周りに描かれていたのは、仁助から見せてもらった謎の記号であった。おとまの死体の近くに落ちていた紙に書かれていたものである。
「ヲシテ文字ってやつです。太古の昔に使われていた文字で、この神社の儀式で必要な祝詞も、はじめはヲシテ文字を使っていたとか」
祝詞は毎回同じものではなかった。そのときそのときで内容が変わり、祝詞を作るのは禰宜の役目である。今の深萩神社には禰宜がいないため、今年の祝詞は宿禰が作っていた。
なぜ環游が祝詞のことを知っているかというと、絵を描き始める前に、古い書物をかき集めて、深萩神社の儀式についてを調べたからである。誰でも参加できる儀式ではないため世間の認知度は低いが、探して情報を集めることができるくらいには、歴史のある儀式であった。
「お願いします。ヲシテ文字のことを、神山様に早く知らせてあげてください」
記号だと思い込んでいたものは、古来の文字だった。文字ということは、もし解読ができれば、意味もわかるところである。
「へ、へい。神山の旦那ですね」
おとまのことを知らない環游は、うたが急き立てる理由がわからなかったが、何かの事件に関わることだと察して、
「神子様」
宿禰に声をかけられたうたは、部屋に戻るほかなかった。
また仁助の手伝いをさせられているのかと聞きたかった兎之介は、去ってゆくうたの後姿を見ている。
「さて、旦那のところに行かねば……」
「待て」
「まだ何か用ですかい?」
「あいつの二倍、いや三倍は出す。だから完成した絵は俺に譲れ」
「どうしやしょう……旦那もその気になればもっと出すと仰ってくれるだろうなぁ」
「ちっ……ならこれでどうだ」
環游の
で、環游はうたに言づけられた通り、仁助に会いに行った。
「よくやった。これで何かわかるかもしれない」
「俺には何が何だかわかりませんが、褒めるなら嬢ちゃんを褒めてやってください」
かな文字とは程遠い、古代日ノ本で使われていた文字であったとは、環游がいなければ判明しなかったことだろう。そして環游の絵をたまたま見たうたが文字を発見しなければ、仁助は一生ヲシテ文字の存在を知ることはなかったはずだ。
「どうも俺は、いつもうたに助けられているらしい。それで、読めるか」
仁助は紙を手渡した。
「ちょっと待ってくださいよ……ヲシテ文字はいろはの順じゃなくて、あかはなま……だからこの文は……」
ヲシテ文字の存在を知っているとはいえ、かな文字の定義とは遠く離れているので、書物に頼らなければすぐには解読できない。すらすらとは読めないものの、環游は解読した一文字一文字を紙に書いていった。
「旦那……これは」
みこはかならずしびととなるさだめ
これが全文であった。みことは神子、つまりうたのことだとすれば……
仁助は思い至るなり、環游の声にも止まらずに駆けだした。
夕日は地上に半分の姿だけを残して、今日の名残りとともに沈みゆこうとしている。完全に姿を消したときが、儀式の始まる刻限であった。
うたは一人、部屋の中で深呼吸をする。緊張をしている
こんな気持ちで儀式に望んでいいのか。いや、駄目に決まっている。
神子の務めを果たせると信じてくれている宿禰や、これまでの歴史と神に対する人々の願い。見守ってくれるすべての人たちの期待が、
最後になって甘い覚悟になるなと、うたは自分を戒める。
事件を解決するのは仁助の役目であり、神子の務めを果たすのは己の役目なのだ。うたが今すべきことは、儀式のことだけを考えて集中することである。
「神子様、ご準備を」
神官の声が障子戸の向こうから聞こえて、うたは返事をした。
(いよいよだ……)
うたは花簪に手を伸ばそうとした。が、勢いよく障子戸が開かれて、反射的に振り返る。
「神山様!」
「いいから、早く!」
現れた仁助は普段の表情とは違い必死の形相で、来るなりうたの手を引いて外に連れ出す。訳がわからないままうたは
何があったのかと問おうとしたのだが、急に仁助は立ち止まってしまった。
「みこ様……」
ちょうど鳥居の真下に立ちはだかっているのはみこ様である。立ち止まったということは、しかも目線は下の方にあって、仁助にもみこが見えているということだ。
「逃がさない」
感情のない、無機質な声でみこが
恐怖を感じたときには、すでに巻き込まれている証左だ。
体温と力を感じられる互いの手だけが、
目の前の霧は次第に薄まったが、辺りは深い霧に包まれたままである。後ろには深萩神社の本殿が、正面には鳥居の姿が確認できた。しかし、みこは姿を消している。
「とにかく、神社から離れよう」
隣を見やれば仁助の姿も見えて、うたはほっとした。霧が発生しただけで、他は何も起きていない。肌に触る空気が変わったように感じられるが、霧の所為だと自身に納得させた。
二人は鳥居の向こうへと歩き出す。
仁助はうたを神社から遠ざけようとしている。なぜかと、うたは聞いてみた。
「いや、それは……」
歯切れの悪い返事で答えながら、仁助は違和感に気づいた。
たしかにうたの手を引いて、鳥居の向こう側へと歩き出したはず。なのにまた、頭上には鳥居が出現していた。
「鳥居は一つだったよな」
「ええ……」
真っ直ぐ歩いていたつもりでも、ぐるりと舞い戻ってしまったのだろうか。そんなはずはと仁助が後ろを振り返ると……
「……!」
深萩神社の本殿が見えた。鳥居から離れたとすれば、本殿との距離も離れているはずなのに、少しも距離は縮まってはいない。
不意にうたが手を強く握ってきて、彼女の不安が伝わってくる。えい、今度こそと、仁助は小走りで鳥居の先へと足を進めた。
「神山様……また……」
しばらく歩けば鳥居の前へ、何度歩いても、結果は同じだった。
「どういうことだ……同じ場所に戻っている」
うたを神社から引き離すのが目的であったが、何度も奇妙な体験をしたのでは、宿禰に助けを求めたい気持ちも起きてきた。他の誰かが来れば、この奇妙な出来事はなくなるのではと考えてしまったのは、仁助もまた混乱しているからである。
「貴方たち、誰……?」
霧の中、姿を現したのはうたと同じ歳くらいの、巫女装束を着た女だった。
深萩神社に巫女は一人もいなかったはずだ。儀式の日にあって、臨時で誰かを呼んだのだろうか。宿禰はそんなことは言っていなかったと、うたも仁助も
「私は、今日の儀式で神子を勤める
「「えっ!」」
仁助とうたの声は重なり、二人は互いに顔を見合わせる。言われてみれば、寧という女は神社の巫女よりも
「神子は貴女に変わったのか」
「いえ、私が神子になることはずっと前から決まっていましたが……」
「そんなはずは……」
二人は寧を知らないし、まったくの初対面である。今年の神子はうたが務めるはずなのに、寧は自分が神子であると言い張っている。悪意があるようには感じられなかったが、不可解なことに変わりはない。
「宮司様に会われますか?」
これは宿禰を問いたださねばならないと、仁助は
宿禰に紙を見せたとき、彼は一瞬だが反応を見せた。かつて深萩神社の祝詞にはヲシテ文字を使っていたので、宿禰はヲシテ文字が読めたのかもしれない。読めていて意味を隠していたのなら、それは何のためか。
もうどうしようだとか怖いだとかの感情が抜けて、すっかり同心に戻っている。一人意気込んでいると、うたも平静になっていて、じっと繋いだ手を見つめていた。
「す、すまん……」
小さくて細い手だった。他の感想を味わう暇もなく、ただただ彼女の手を引いていたので、今さらになって
少し心が痛んだのは、ぱっと離して謝っても、うたがだんまりだったからだ。
汗ばんでいた手が気持ち悪かったのか、女性に対して無神経だったのか、単に嫌だったのか、普段は仕事以外で難しいことを考えずに、のんびりと生きている仁助にしては
うたは怒っているときや嫌なことがあると、貝のように無口になるとは、兎之介から聞いたことである。
とすれば……否、今はそんなことを考えている場合ではない。うたに何と思われようと、同心の職務を全うしなければならないのだ。
「宮司様、お客様をお連れしました」
あれ……と、うたは宿禰を見る。一ヵ月、宿禰とともに生活をしていたうたは、座高の高さや顔の皺が、宿禰ではないように感じられた。顔は宿禰……というより、宿禰に似ている人物のようにも思えてならない。
「ようこそ、おいでくださいました」
声を聞いて、仁助もまた宿禰が宿禰でないように感じた。
「あの……宿禰さんですよね」
恐る恐ると尋ねたうたに、彼が答える。
「宿禰は私の息子でございます。私はこの神社の宮司、
そう言われれば混乱するばかり。あたふたする二人をよそに、宿禰も寧も落ち着いている。それがかえって不気味だった。
父はすでに亡くなっていると、仁助は宿禰がおとまの死体を見たときに聞いている。寧なる女も神社で見たことはない。
もし、もしも、そういうことだとすれば……
「今は、何年になる」
「明和六年になります」
「なっ……!文化、
文政から指折り
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