一月後に行われる儀式の作法や祝詞のりとなど、山ほど覚えることがあるうたは、儀式が行われるまでその身は深萩神社に預けられている。

 深萩神社に来た初日には、衣装合わせをしていた。

「まあ、可愛い。よく似合ってるわ」

 奉書紙で一つにまとめた髪には、萩の花をかたどった花かんざしも挿している。白い小袖に緋袴をはけば、一層巫女らしくなった。

 化粧は手伝いに来てくれた沙世に施してもらい、まだ顔が幼い分、大人らしくはならないものの、上品なたたずまいを見せている。

 鏡に映っている自分が自分ではないようで、うたは何も答えられなかった。

「沙世様の仰る通りです。とても神々しくもあられますよ」

 満足そうに宿禰も言ってくれたが、素直によろこべなかった。今まで外の世界に出ていなかったうたは、容姿の綺麗さだとかがとんとうとい。

 うれしいと感じても、それはお世辞や知り合いだから良く言ってくれていると、気持ちを抑えてしまうのだった。

「神子様にお客様が……」

 そう告げに来たのは神官である。ちなみに、この神社において宿禰以外に神官は一人しかいない。

 社地も小さいながら、仕える者も少なかった。

 どうぞと言う宿禰の声で姿を現した客人は、町廻りの途中で顔を見せた仁助と伝吉であった。

「近くまで来たものですから……」

 と、職務中に寄ったのをばつが悪そうに言う仁助に、伝吉が補足した。

「どうも気になって仕方なかったみたいで。普段はこっちの方は廻らないっていうのに、今日に限って深川まで行こうと言われたんで、ああ、そういうことかと。んで、深萩神社の近くばかりうろうろするもんですから、俺が寄りたいって言ってやったんですよ」

「お、おい……」

「仕事がおろそかになるほど、神子様のことが……」

 何となく察した宿禰までが、便乗した。

「ちが……」

「そうみたいですわ。不肖ふしょうの息子で申し訳ございません」

「母上まで何を仰って……」

「仁助、そんなことより言うことがあるでしょう」

 沙世の視線がうたに移る。じっと成り行きを見守っていたうたは、仁助に視線を向けられて、巫女衣装を着ていることが恥ずかしくなった。

 ところが仁助は、見つめていた視線をすぐにらした。

「旦那……」

 何か言ってやりなと、伝吉がうながす。

 無理やり感想を言われるくらいならば、何も言われない方がいいと、とげが立つのでうたは言葉にはしなかった。だが、どうしてだろう。お世辞でも構わないから、否、本心で褒めてほしかったと期待していたのだ。

 落胆が顔に出たうたを見て、宿禰が仁助に言った。

「ここにおわす神様は、その人の気持ちに応えるのですよ。私も神に使える身、貴方様の本心がわかってしまうのですが、代わりにお伝えしてもよろしゅうございますか」

「いや、俺も男だ。はっきりと言ってやる」

 少し語気が荒くなった仁助に、何を言われるのかとうたの心はびくびくと震えた。

「常から思わないでもなかったが、その姿は一層……」

 皆が仁助に注目する中、誰にも廊下の足音は聞こえていなかった。

「とても可愛らしくて素敵だ」

「ひっ……」

 と情けない声を出したのは伝吉である。

 ちょうど折悪く、兎之介がうたを訪ねて来て、仁助のうたに対する感想を聞いてしまったものだから……

 太い眉を吊り上がらせて、仁王の如く兎之介は仁助を見下ろしている。

「人の妹にちょっかいかけやがって……」

 その後にごたごたがあったのは、言わずもがなである。


 翌日、奉行所に出仕した仁助は、ある事件の担当を言い渡された。

「呪い……でございますか」

 深川熊井町で一人暮らしをしていたおとまという六十を過ぎた女が、血を吐いて死んでいたという。

 病気だったわけでもなく、毒物を含んだ形跡もなければ、外傷もない。死体の側には誰が書いたものか、謎の記号が書かれた紙があった。

 偶然にも、おとまは代々深萩神社の禰宜ねぎを務めていた家の娘だった。

 神職の家柄が影響しているのか、それともただ怪死という事実からか、呪い殺されたのではないかと言う者までいると、仁助の上役である吹田が説明する。

「呪いなどあるわけがない。もしも殺しであれば、調べていなかったでは済まされん。奇妙な事件ばかり解決しているお前にはもってこいだろう」

「はっ……」

 吹田の中では、仁助は奇妙な事件専門の同心という認識になっているらしい。

 死体が池に沈んでいると投げ文があった事件や幽霊の仕業にみせかけた連続殺人、確かに仁助が解決した事件は奇妙とも言える。二つの事件のどちらとも、うたが関わっていて、今回はほぼ無関係であるが、深萩神社というところではうたと繋がっていた。

 すぐに仁助は、伝吉と深川熊井町に向かった。

 おとまは生涯夫を持たず、禰宜であった父が亡くなってからは一人暮らしをしていた。父はおとまが十五のときに病死していて、母親にも早く死なれている孤独な身の上である。十八までは深萩神社の巫女を務めていたそうだが、ちょうど今から五十年前、つまり深萩神社で儀式のあった年に巫女を辞めていて、それからは一人つつましく暮らしてたそうだ。

「ここいらには儂を含めて年寄りが多いもんで……助け合って生きているといいますか、おとまさんの家を訪ねたのも、いい魚がもらえたんでおすそ分けしようとしたわけです」

 自宅で亡くなっていたおとまを発見したのは、近所に住む三郎という老人で、仁助はまず三郎に話を聞いていた。

 おとまは小さい一軒家に住んでおり、周りにも同じような家が点在していて、目の前には広大な隅田川が広がっている。

「他殺だとして、おとまは誰かに恨まれるような人だったか」

「いえ、そんなわけはねぇです。知り合いも近所の年寄りだけのようでしたし、それも最低限つき合っていたという感じで……」

 揉め事を起こしたことなど一度もなく、大人しく生活していたそうだ。

「自殺だとすれば……」

「さぁ……どちらかというと暗い人でしたがね、まさかそんな……強いて言えば、本心では寂しかったとしか」

「五十年前に深萩神社の巫女を辞めた理由は知っているか」

「詳しくは聞きませんでしたが、自分に神職は合わなかったと言っていたことがありました」

 身寄りもなく、周りは年寄りばかりの場所で生活していたおとまが自死に至ったとすれば、三郎の言う通り、ふと孤独に耐えかねた衝動によるものかもしれない。だが、仁助はおとまが深萩神社の巫女を辞めた訳に真相があるのではないかと考えていた。

「おとまさんは神社の巫女さんをしていたんでしょう。きっと五十年前に何かあって、たたられたんじゃ……」

 三郎の他、おとまと交流のあった者に話を聞いても、三郎以上のことはわからなかったが、中にはこう言う者もいる。

「どうしてそう思う」

 仁助にしても、五十年前というのが気になっているが、祟られていたとして、なぜ今になってという疑問が浮かぶ。

「だってね、罪人かって感じるくらい、後ろ暗いことがあるように見えましたもの。神様の気に障ることでもしたんじゃないかって……それにあの死に方でしたから」

 他殺とも自殺とも確証のつかない死体である。大量の血を吐いて、おとまは血の海の中で亡くなっていた。毒殺や病死でも、そこまで血が出るのかと思うくらいにである。

 おとまの遺体は近くの番屋に置かれていて、明日には近所の衆で通夜が行われることになっていた。

「これは意味があるんでしょうか……」

 死体の近くに残されていた謎の記号が書かれた紙を見て、伝吉が言った。

 丸や三角に四角、その中に棒や点の入った記号が、複数書かれている。意味もなく書いたにしては、込み入った記号である。三郎も他の者も、その記号には見覚えもないとのことだ。

「これは神山様……」

 昔に縁があったということで、一応、仁助は番太に命じて深萩神社の宮司である宿禰に、おとまの死を知らせていた。

 宿禰は冷たくなったおとまを見て、痛ましそうな顔をした。

「おとまさんが深萩神社にいたときの記憶はございます。と言いましても、私は幼い時分のことでしたし、おとまさんがいたのも少しの間でしたから……」

 深萩神社の巫女を辞めた後、おとまがどのような生活を送っていたのか、深萩神社の近く深川熊井町に住んでいたことすら知らなかったという。

「お病気だったのですか?」

「いや、検死を行った医師によれば、病の痕跡は見られないという」

「では誰かの手によって……」

「外傷はない。毒物を盛られた可能性もないとのことだ」

「……おとまさんは、血を吐いて亡くなっていたんですよね」

「そうだが……」

 宿禰はそこで考え込む素振りをした。

「おとまが深萩神社の巫女を辞めた訳は……」

「さあ……亡くなった父なら知っていましたでしょうが、私には……」

「ところで宿禰殿、この記号を知らないだろうか」

 懐から出して見せたのは、謎の記号が書かれた紙である。記号を追っていた宿禰の目が見張った一瞬を、仁助は見逃さなかった。

「存じ上げませんことで……」

 宿禰は何かを知っている。仁助の目からは明らかなのに、尋ねても答えないというかたくなな意思が伝わってきた。


(やはり自殺か……だが、毒物は飲んでいない。他殺にしては物証がなさすぎる……)

 唯一の手がかりは、謎の記号が書かれた紙であった。偶然そこにあったものではないだろうし、ただの落書きで書けるものでもない。

(あの意味がわかれば……)

 仮に宿禰が記号の意味を知っていたとして、どうして言わなかったのか。それは言えなかったから……

 宿禰にとって、不都合なことが書かれていたのだろうか。

(まさか、犯人についてが書かれているのか……いや……)

 死の間際に残した言葉ならば、わざわざわからない記号で書かなくてもよいはずだ。しかも、命の危機にあって、書く暇があったとも思えない。

 やはり駄目押しでも宿禰に記号のことを尋ねてみるべきか。

 夜中まで事件の捜査にあたっていた仁助は、そこまで考えて、深萩神社の前まで来ていた。

 外に誰もいないことを確認して、建物の裏へと回る。部屋の中には明かりがあって、人影が一人分ぼっと映っていた。

 場所は違えど、忍んで来ることには慣れた。まるで光源氏にでもなった気分なのは、夜に訪れた所為せいか。今まで色めいたことの一つとしてないのに。

「うた」

 懸想けそうをしているわけではない。放っておけないだけ。

 声にはじかれた影が障子戸を開ける。

 うれしそうな顔で、最近向けてくれるようになったその笑顔で招じ入れてくれる彼女に、仁助はもう一度、何でもないと自身に言い聞かせた。

「差し入れだ」

 こじんまりとした、うたに与えられた部屋だった。先ほどまでうたが向かい合っていたであろう文机には、儀式のときにうたう祝詞がある。邪魔をしてしまったかと仁助が問えば、小腹が空いていたので助かったと、うたが正直に告げた。

 仁助が差し入れで持ってきたのは、稲荷寿司である。何とも安直な差し入れだ。だが、うたは満足したようであっという間に平らげてしまった。

「先に謝らなければならないことがある。儀式の日は、もちろん来たいとは思っているが、必ず来れるとは約束できない」

 お役目上、仁助は御用繁多である。いま担当している事件も解決してはいないし、事件は突然にいてくるものである。当日予定はなくとも直前に、儀式に参加できなくなる可能性があった。

 うたは事前に、沙世から言い含められていたので、寂しい気持ちをおくびにも出さなかった。

 儀式は広く大々的に行うのではなく、厳かに、秘匿に行われていた。宿禰からは家族と知人数人なら呼んでもいいと言われている。

「もし神山様が来られなかったら、神山様の分もちゃんと見てくださるって、沙世様が仰ってくれました。沙世様は時々、様子を見に来てもいただいているんです」

「お前のことが可愛くて仕方ないんだろう。母上はとても気に入っている様子だからな。それより兄様は毎日来てくれるんじゃないのか?」

「はい。お店のことを放って来るんですよ……儀式には沙世様と兄様も来てくれますし、お針の友達も先生も来てくれることになっているんです」

 だから、たとえ仁助が来れなかったとしても、大丈夫だとうたは暗に言った。しかし、うたが言いたかったのはそれだけではない。

 沙世と兎之介は様子を見に来てくれる。儀式の日には友人たちも来てくれる。でも、両親は一度も来てくれないし、儀式の日も来てくれるという約束がないのだ。

 きっと、両親が思うであれば一にも二にも来てくれたであろう。だが、両親からすれば、うたは偽物のままである。関心がないというのが本音ではないだろうか。

 仁助はうたの気持ちをみ取れても、かける言葉に逡巡しゅんじゅんした。

 慰められれば虚しい気持ちを吐き出してしまいそうで、うたは話題を変えた。

「宿禰様のお知り合いの方が亡くなられたとか……」

「彼から聞いたのか」

「いえ、みこ様から」

「みこ様?」

 この神社において、みこさまと呼ばれているのは、神子のうたである。他に巫女もいなければ、誰を指しているのか、仁助が聞いた。

「あの……また見えたみたいなんです」

 徐々に見えるようになった存在だった。

 宿禰の側にいて、だけどもやがかかったようにはっきりとは見えない。だが次第に、それが小さい女の子であるのがわかった。

「今までに見えた幽霊とは少し違うような気がして……」

「違う?」

「この世に未練を残しているようには見えないんです。でも、生身の人間ではないから……」

 幽霊に違いない。

 しかもその幽霊は、気まぐれに話しかけてくることがあるそうだ。

「宿禰の知り合いが死んだ。大丈夫。うたは死なないって……」

 どういうことかと聞いても、女の子は答えてくれなかった。

 貴女は誰だ、なぜ宿禰の側にいるのか、さ迷っているのかと尋ねても、無言を貫かれるだけである。唯一答えてくれたのが、名前であった。

「みこ、か……」

 深萩神社にいた巫女という意味なのか、それともみこという名前なのか、そこまではわからないという。

 うたはその子を様付で呼んでいるが、自身が神子様と呼ばれていることから同じ名前の幽霊を同様に呼んでいるのか。どうして仁助が呼び方を気にしたかといえば、子どもに様付をしているのが引っかかったからである。身分の高い者なら納得できるが、一目見て高貴さがわかるとも思えない。わかったとしても、特徴としてうたが言うはずだ。まあ、深く考えることでもないと、仁助は思考を止める。

 実は宿禰の知り合い、というほどでもないが、おとまが亡くなった件を調べているのは自分だと、仁助が打ち明ける。

「ここに来たのは差し入れを渡したかっただけで、やましい気持ちはない」

 今回に限っては、うたに協力を求めようとは微塵みじんも思っていなかった。何度か事件の解決に協力してくれたうたからすれば、またお願いをされているのかと、とらえてしまうかもしれない。そして落胆されたくはない。しかしおとまについては、うたに伝えるつもりはなかった。いくら深萩神社に関係していることでも、部外者に口外してはいけないことだ。しかも、神子に選ばれたうたの邪魔をするなど、もっての外である。

「私にできることがあれば、何でもしますから」

「いや、本当に……」

「神山様の気持ちはわかっています」

「俺の気持ち……」

「はい」

 純真無垢な顔が、まぶしく仁助を見る。

「みこ様から何か聞ければいいんですけど……」

 うたの言葉に変な気持ちになっている仁助をよそに、うたは真面目であった。

「うた、二つ約束してくれ。絶対に危険なことはしないこと。もう一つは儀式の準備を優先することだ」

「わかりました。約束です」

 そっと差し出した小指に、うたの小指が自然に絡みついた。

 指切りげんまん……切った約束で繋がれる。

「神山様、おやすみなさい」

(まだ神山様、か……)

 障子戸を閉められてから、仁助はそんなことを思った。

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