おいねの死体が不忍池から見つかった翌日、兄に忠告を受けたうたは、外の世界に飛び出していた。

 外に出たことが家人に知れてしまえば、座敷牢に閉じ込められてしまうかもしれない。ずっと、暗い世界で過ごさなければならなくなる……自身の安寧のために泣いているおいねを見捨てるか、微力でもおいねを救うために奔走するか、うたは選んだ。

 再び不忍池に行ってみると、まだおいねは泣いている。

 池を指さして自らのありかを教えてくれたおいねは、死体が見つかってもなお、成仏できずに現世にとどまっていた。

 なぜ、成仏ができないのか……死んでしまったことが哀しいのか、それとも自分を殺した犯人を見つけてほしいのか……

 この世から切り離された定理は覆せない。犯人は仁助が追ってくれている。おいねが成仏できない理由が他の可能性だったとして、うたができること。うたは次いで、浅戸屋に向かっていた。

「直次さん、いらっしゃいますか?」

 うたの話しかけた相手が、たまたま直次であった。

 愛想がよくて、穏やかそうで、特に特徴もないどこにでもいるような普通の男である。おいねの好きだった人をまじまじと見つめていると、直次が口を開いた。

「何か御用で……」

「おいねちゃんのことで、お話があります」


 一方その頃、仁助と伝吉は上野にあって、飾り職人の金太を訪ねていた。

 上野広小路をれると、どんどん奥まって細い道になり、果ては密集した長屋がある。金太はその一室に居を構えていた。

 歳は二十半ば、無口で人付き合いは上手くないが、腕のいい飾り職人だと評したのは、駒木屋の主人である。しばらく顔を見せていないのでちょうど心配していたところだとも聞いていた。

 昼前の刻限、みな働きに出ているのか人の気配は少ない。暇そうに長屋の前で煙管をくゆらせている爺やに金太の家を聞いて、伝吉が戸口の前で声をかけた。

「おい、金太いるのか」

 二言三言と戸口を叩くも返答はない。それで戸口に手をかけるとすんなり開いて、同時に強烈な酒の匂いが鼻をついた。顔をしかめながら中に入ると、軽くうなっている男が布団の上に横になっていた。

 飾り職人らしく、部屋には道具やら簪が散らばっている。しかし、この酒におぼれた男が腕のいい職人とは疑ってしまう。無精髭ぶしょうひげが生え、月代さかやきも黒く染まりつつある。手の届く範囲には酒の瓶があり、男がつかむよりも前に、伝吉が瓶を取りあげた。

「御用の筋で来てんだ。しゃんとしやがれ」

 伝吉が十手を見せびらかして、男を無理やり座らせる。男のわっている目はどこを見ているのか。

「これを作ったのはお前か?」

 仁助はおいねの簪を、ぐっと男の前に差し出す。

「一人の女の無念を晴らすためだ!よく見やがれ」

 やっと、ぎょろりとした目が、簪をとらえた。


 午の刻に不忍池近くの寺で待ち合わせとは、直次から言ったものである。

 もしもおいねの無念が、もう直次と会えなくなってしまったことが哀しい、であるならば、直次と会わせてあげようとうたは考えた。

 実は不忍池にはおいねの霊がさ迷っていて、成仏できずにいる。だからおいねが生前慕った直次に、おいねを救ってほしい。と言えば、頭のおかしい娘に思われるだろう。けれど、自分はどんな風に思われてもいいから、たとえ無駄となっても、おいねのためにできることをしてあげたかった。

 浅戸屋に直次を訪ねれば、彼は休憩の時間に行くと、うたの誘いに応じた。そして待ち合わせた刻限に、二人は境内けいだいで対面していた。

 うたがさっそくおいねの霊のことを言おうとしたが、直次の言葉の方が早かった。

「おいねは一体、誰に殺されたんだ……何か知らないか?」

「いえ……」

 突然、好きな人を、友達を失ってしまった者は、虚しさも哀しさも憤りも込めて、犯人を見つけたいという気持ちに注がれる。今まさに、同心と御用聞きが犯人を見つけるために奔走してくれていると伝えようとして、またしてもうたは先を取られた。

「死体が不忍池にあると番屋に告げた人がいたらしいが……」

「それは私です」

 言ってしまった後で、うたの身体が警戒した。何故だろう、ひどい失態を犯してしまったように思えてならない。

 どうせ自身の能力については打ち明けるつもりだったから、番屋に投げ文をしたことも、正直に打ち明けて構わないと判断したのに、言ってしまったことを後悔している。

「……どうして死体があるってわかったんだ」

「それは……私が見つけたんです」

「俺のことを呼び出したのは、何のためだ」

 まるで尋問されているようだった。

 下手な答えを返してしまえば、取り返しのつかないことになってしまいそうで、うたは懸命に頭を巡らす。そこではっと、うたは気づいた。

 おいねの死体が見つかったとき、直次は不忍池に来ている。ということは、さ迷っているおいねからは、直次のことがわかったはずだ。

 なら、おいねの無念は、直次に会えなくなったからではない。——否、おいねは本当に、直次を……

 犯人を見つけてほしいだとか、死んでしまったことが哀しいという無念であれば、直次に会っても成仏できなかったことに齟齬そごはない。そうであってほしいという意識が、確かめられずにはいられなかった。

「おいねちゃんのくしを渡したくて。貴方があげた……好きた人からもらったって、おいねちゃんから聞いていたから」

 先ほどから走っている緊迫した空気を払うように、直次は笑顔で言った。

「ああ、あの櫛」

 直次はうたに近づいて、手を伸ばす。しかしうたは後退あとじさっていた。

(早く、神山様に知らせないと……)

 熊と対峙たいじしたとき、絶対に目をらしてはいけないという。じりじりと間合いを離して、だがうたは背を向けてしまった。

「急に逃げることないだろ」

 うたの細い手首は、あえなく捕らえられてしまった。きしきしと上げている骨の悲鳴が聞こえそうなほどの強い力にうたはさいなまれて、柳眉りゅうびが歪んだ。

 その痛みよりもなお、ここで潰えてしまうという予感が、鼓動を早くする。

(大丈夫……神山様はきっと気づいてくれる)

 自分が死んだとしても、おいねを殺した犯人は捕まる。おいねのためになるなら構わない。

「この手でおいねちゃんのことを殺したんだ。おいねちゃんは櫛なんかもらってない……貴方は嘘を吐いている」

 本当においねが慕っていたその人であるなら、自分があげたのは櫛ではない、簪であると言うはずだ。つまり、おいねが慕っていたのは直次ではなく他にいる。

 わずかに感じていた直次の狼狽ろうばい焦燥しょうそうは、彼が犯人である証左に違いない。

 瞬間、うたは直次に突き飛ばされた。

 すでに足がすくんで立ち上がることはできなかった。生に執着しゅうちゃくしていれば、逃げようと懸命になるのに……でも、この世に未練がなければ霊にはならない。

 目を閉じて、衝撃が訪れるのを待った。まだか、まだか、閉じたまぶたは震えて仕方ない。思っていたよりも長い時間が経って、けれど何も襲ってこなかったから、うたはたまらず目を開けた。

「…………!」

 視界に映ったのは、自身の首に伸びるはずだった直次の手が、縄に絡めとられている光景だった。

「観念しろぃ!」

 荒っぽい仁助の声を、うたは初めて聞いた。はじめから最後まで自分の突拍子もない話を落ち着いて聞いてくれた人が、縄を片手に声を張り上げている。伝吉が飛び込んで、つかさず直次を取り押さえにかかった。

「離せ!何しやがる!」

 仁助は直次の腕をひねり上げて、袖をまくってみせた。

 露わになった二の腕には、ひっかき傷とは程遠い、深く食い込んだであろう爪痕が残っている。

「おいね殺しの罪で召しとる!これが何よりの証拠だ!」

 うたはただ呆然ぼうぜんと、目の前でくり広げられている捕り物をながめていた。

 死は直前にあった。だけど今、地面にへたり込む感覚がしている。

 伝吉が手際よく直次に縄をかけているのを見届けて、仁助はうたに歩み寄った。

「助かった……」

 あまりにも一瞬で起きた出来事に、うたはどこか他人事のようにつぶやく。腰をかがめて心配そうにのぞき込む仁助が見えて、何かを言おうとしたけれど、言葉は出てこなかった。怪我をしていないか、大丈夫かと言う仁助の問いに、こくこくとうなずくのが精一杯である。

「これを見つけていなかったら、今頃どうなっていたか……」

 仁助がたもとから取り出して見せたのは、折り鶴の一羽だった。その鶴の背中には、この場所で直次と会うと書かれていた。

 折り鶴は、背中に書いた文字も、うたが用意したものである。直次と会う前に不忍池に——おいねのいる場所にそっと置いてきていたのだった。

 直次と会うことを仁助に知らせたかったからだが、心の片隅では直次の態度に引っ掛かりを覚えていて、もしもを想定していたのかもしれないと、うたは今さらながらに実感する。そして仁助は、うたがたくした折り鶴に気づいてくれた。

「きっと、おいねが助けてくれたんだな」

 おいねの簪を作った飾り職人の金太に会いに行った仁助は、そこで直次がおいねの慕情の人ではないと明らかになり、急いで引き返してきたが、直次の行方がわからない。おいねの死体が見つかった不忍池に行けども直次はいなかった。

 すぐに違うところに行こうとしたとき、ふわりと宙に浮いて仁助のもとにただよってきたのが、うたの折り鶴であった。

 それはおいねが知らせてくれたものか、偶然か、確かめる術はない。でもおいねが生きていたら、うたがおいねを救ってあげたいと思っているように、おいねも助けようと思っただろうと、希望的観測に過ぎないが、そう思ったからこそ仁助は言った。おいねがこの世の人でなくなっても、同じ気持ちであってほしいと。

「無茶なことをしてくれるな」

 幼い子どもにさとすように、優しく落ちた言葉だった。

(死んでもいいと思っていた私を……)

 自分がいなくなれば、家族は幸せになれる。哀しむ人もいない。今なおその気持ちは変わらないが、たとえお役目上であったとしても、仁助はいたんでくれる人であることが、じんわりとうたの心に溶け込んだ。

「旦那、いちゃいちゃしてねぇで手伝ってくださいよ」

「誰がいちゃいちゃ……」

 ぶつぶつと不服気に呟く仁助が直次を捕らえて、ようやく事件は解決した。


 浅戸屋の手代直次は、おいねに懸想をしていた。しかしおいねには他に懸想をする男がいて、しかも互いに想い合っている……それが金太であった。

 ただし相思相愛でも、想いを確かめ合ったこともなければ、打ち明けたこともないまだつぼみの恋だった。

 金太はおいねのために作った簪を、何も言えずに差し出すのが関の山で、それ以上は踏み出せない。……壊すなら、今しかないと直次は思ったという。

 直次が狡猾こうかつなのは、金太においねの恋人だと嘘を吐いて、おいねにその気はないからあきらめてほしいとそそのかし、おいねには金太からの呼び出しを装って近づいたことだ。

 もしかしたら、簪をくれた金太は自分を好いているのかもしれない。想いを打ち明けてくれるのかもしれないと、自分の想いも伝えたいと、はやる気持ちでおいねは金太が来るのを待った。おいねが呼び出されたのは、直次が捕らえられた寺である。そして姿を現したのは金太ではなく、直次だった。

「金太はおいねちゃんのこと、好いてないんだ。おいねちゃんが本気になっちまう前に、言っといてくれって……」

 直次はおいねから金太への気持ちを引きはがそうと必死で、こくな嘘を再び吐いた。嘘だ、嘘だと泣くおいねをなだめて、待ってましたと言い寄れば、おいねに全力でこばまれた。

 好いた人をものにできない悔しさと、こばまれた腹立たしさから、直次はおいねの首に手を伸ばした。そこにおいねを好いていたという気持ちはない。あまりにも身勝手な理由だった。

 死を逃れたい一心で、首を絞められているとき、おいねは直次の腕に爪を食い込ませた。抵抗虚しく、苦しみながら生を終えたおいねの死体は、住職以外に誰もいない寺の境内に隠し、直次はいったん勤め先の浅戸屋へと戻った。その日の夜、奉公人たちが寝静まった夜更けに、おいねの死体を不忍池に沈めたという。

 誰にも見られていない。しかもおいねとは格別親しかったわけではないので、自分が疑われることはないと、直次はなかば余裕に、半ばおびえながら過ごしていた。だが、怯えの方が強くなったのは、不忍池の捜索が始まったときである。まだ犯人の目星はついていないとはいえ、なぜ不忍池に死体があるとわかったのか……不安が高まった直次は、おいねのい人を演じることで、自分には絶対に疑いの目を向けられないようにしたのである。

 二度目の畏怖いふは、うたが訪ねて来たことだった。

 うたは何かを知っている。まさか自分が犯人であることを知っているのかも……そんな疑念を抱きながら、直次はうたに会ったのだった。

 直次が捕らえられた翌日にうたが仁助から聞かされた事件の顛末てんまつは、このようなものであった。

 真相を知らされたのはうただけではなく、もう一人……

「おいねが真実、好いていたのはお前だ」

 振られたと思い込んでいた金太は、失意のあまり酒におぼれるようになっていた。仕事もせずに家に引きこもって酒浸りだった彼がおいねの死を知ったのは、仁助たちが訪ねて来たときである。

「他人の言うことなんか信じなきゃよかった……あのときおいねちゃんに確かめに行っていれば……たった一言、好いているって……」

 止めどなく流れる涙は、後悔までを押し流してはくれない。金太の元に帰ってきた簪は彼の涙を吸ってゆく。結ばれるはずだった二人は、卑劣な人間によって想いを伝えられずに終わってしまった。どんなに後悔しても、おいねは生き返らないのだから。

 もう伝えることのできないはずの想いを伝えられるとすれば、さ迷う無念が見える人しかいないのだ。

「私も好きだった」

 うたが凛と、金太に言い放つ。

 横で見ていた仁助は、生前のおいねを知らないが、まるでおいねが乗り移ったようだと息を呑んだ。

「だから泣かないでって、おいねちゃんが言ってる」

 おいねの霊がそう言ったのか、慰めか、それはうたにしかわからない。ただし仁助は尋ねずとも、どちらであるかがわかるような気がした。


 その日、仁助は夢を見た。夢の中に自分はいない。

 だいだい色の風景に、百合の花が地面を彩っている。楽しそうに花を摘む、二人の少女。これは二人だけの世界。仁助はただ芝居を観ているように、頭に景色が映り込むだけだった。

 配役は、うたといねである。

「私ね、金太さんに想いを伝えられなかったことが哀しかった……でも、ちゃんと伝えられてよかった」

 おいねは泣いていない。陽だまりのような笑みをうたに向けていた。

「うたちゃん、私と友達になってくれてありがとう」

 景色が、白くにじみ始めた。上演はあと少し。

 白く染まりゆく中で仁助が最後に見たのは、ありがとうと動いたうたの口元が微かに上がっていたところだった。

 うたはどんな風に笑ったのだろうか。想像すらできない幻までを見る特権は、仁助にはなかったようだ。


 一人の少女の無念が救われたことを知ってか知らずか、不忍池の蓮は、所々に蕾が見えるようになった。

 仁助とうたにとっては、事件の解決が終わりではなく、おいねが成仏することを見届けるまでが最期であった。

「おいねちゃんはもういません」

 夢で見た光景に誠があるならば、おいねの無念は金太に想いを伝えられなかったことである。うたが伝えたことによって無念が晴れて、涙が止まったのだろう。なのに、ここには小さい涙声が木霊こだましていた。

 泣いているのは、うたである。

 なぜ今さら泣くのかと、仁助は驚かない。仁助にはうたの孤独な気持ちが、少しだけ理解できた。

 おいねが行方不明になっても、死体で見つかっても、うたはおいねに会っていた。うたがおいねの死を本当に実感したのは、おいねが成仏して消えてしまった、そのときである。

「最後に私のことを、友達って言ってくれた……」

 霊が見えるうたに対しては無神経なことかもしれないが、仁助はうたの能力に、素直に感心していた。死者の想いを見て救済する。彼女にしかできなかった、救済である。

「事件が解決したのも、おいねが成仏できたのも、うたのお蔭だ。てぇしたもんだな」

 安心させるように言えば、うたは余計に泣いてしまった。おろおろとする同心が見たかったのは、彼女の笑顔だったが、またしても見ることは叶わなかった。

 うたがおいねのために供えた百合の花が、柔らかい風に揺れていた。

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