風船と気球の交わらない夢

QUILL

プロローグ

 ブラインドカーテンを閉めて、足音を忍ばせながら家を出ようとすると、珍しく娘のあおいが部屋から顔を出してきた。


「どこ行くの? そういえば、父さんに聞いて欲しいことあるねんけど」


娘は、たまにエセ関西弁で喋る時がある。俺も妻も、関東出身で関西弁は話していないから不思議だが、話していて心地いいのだろう。


「ほんま悲しいんやけど、田舎暮らしのうたぴょんが昨日ね……」


娘は話し出すと長いため、それを俺はやんわり制した。


「ごめん、お父さん今、急いでるんだよ。お盆までには帰ってきたくてね。ここ最近は暑いけど、ちゃんと飯食えよ」


「なんでそんなにお父さん、私のことは二の次にするん!? 報道と家庭、どっちが大事? ほんまにうち、寂しいんよ?」


娘が寂しそうな顔を本当にするから、俺は困ったような顔を作って答えた。


「申し訳ないけど、今は仕事さ」


「あっそ、もういい」


娘は、不満そうに部屋の扉を閉めた。俺はそれを特に気にせず、家を出た。俺は妻に置いていかれても、社会からは見放されたくない。妻はもう冷え切ってきて、俺はかつてのようには愛せない。遠いところにいる妻との日々を思い出し、後悔しながらも、仕事で気を紛らわすことが精一杯だった。




 新幹線に乗車した俺は、窓にカーテンを下ろしてから、駅弁を食べ始めた。今日は、取材旅行の初日である。地方の新聞社で売れない記事を書いてばかりの日々から、卒業したかった。自分の満足いく記事が書けるまで、帰るつもりもなかった。本来、もう少しで朝礼の時間になるのだが、昨晩、長旅に出る旨を書いた紙を編集長のデスクに置いてきたので、ひとまずは大丈夫だろう。迷惑を掛けるとは、思う。けれど、出鱈目な内容で文字数を稼いだような粗末な記事を書く日々は、自分の中で許せないものがあった。もっと、この世の中には報道すべきことがあって、それが日の目を見ない限り、成長も進歩も有り得ない。もし、良い記事を書けたら、あんな地方紙の特集なんかじゃなくて、単行本として出してみても良いかもしれない。肩書きは売れないライターでも、それで売れたらかっこいいだろう。ひとまず景気づけに缶ビールを開けて、自分で自分を鼓舞した。




 過疎化が進んでいる田舎に足を運ぼうと思ったのは、新幹線の車内の電光掲示板で目にしたニュースがキッカケである。その電光掲示板の役目は、もうすぐ無くなろうとしていた。何かと便利だったソレは今日役目を終えるらしく、寂しくはあったが、最後のニュースは『殺害』とか『窃盗』とか『暴行』とかそういう物騒な言葉はなかったから良かった。『不倫』や『浮気』や『脱税』などのどうでもいい他人の話題でもないそれは、『とある葬儀会社が、離島や過疎地域からの本土への遺骨運搬にドローンを用いて、より円滑な葬儀を目指した試験導入を開始した』というニュースだった。


開始日は、8月1日。


そのニュースを見て、離島で暮らす母のことを思い出した。母とはもう連絡もめっきり取っていなくて、安否すらも分からない自分は親不孝なのかもしれないと思い始めた。


「あんたは、何かに熱中しすぎると周りが見えなくなるところがあるわ」


遠い昔、母に言われた言葉である。俺はどうやら子供の頃からそうで、一番幼い記憶だと、積み木に夢中で強盗が入っているのに気付かなかったというエピソードがある。まぁ、それは物理的な周りが見えなかったエピソードであって、精神的なものではないから、それに限定すると、思い出されるのは中学の頃だ。初恋に夢中になるがあまり、母や父の値打ちが高い持ち物をフリマに売って、その利益を相手に貢いでしまったことである。これは、常識的に考えれば、客観的に見ればおかしくてヤバいことなのに、この頃の俺は必死だったから、気付かなかった。相手が悪い女だと忠告を受けても、一向に聞きいれようとしなかった。だから、それが今は『報道』というものに取って代わられただけである。良いことではないかもしれない。だが、そこまで熱中できる人間というのも珍しいのではないか。他人のために報道するんじゃなく、自分のために報道するんだ。




 フェリーに乗って、目的の離島に到着した。そこに住む住人は本当に希少で、その地を本当に愛す住民と、そこからもう動けないご老人しかいなかった。潮風に吹かれながら、近くに群れを生している海鳥たちを見ていた。そこに、漁船が到着して、ハチマキを頭に巻いた男が出てきた。そして、男はこちらを怪訝な目で見た後、こちらに踏み寄ってきて訊ねた。


「どこから来たんですか?」


俺はこの言葉を聞いて、ズッコケそうになる。この流れだったら、もっと渋い声で「おめェさん、どっから来たんだ?」とか「おれに何の用だ!?」とか「おめェ、ここらへんじゃ見ねぇ顔だな」とか言うところだ。でも、彼はバリバリの標準語で、港に船を止めるのだってまだ不慣れな調子だった。彼は、この道でまだ浅いのではないか——。

そんなことを考えながら、答えた。


「東京みたいなとこです」


「ふん、ハッキリ言わないのがらしくないな」


「何がです?」


本当に分からなかった。俺はこの男の顔を全く知らないし、面識があったような口ぶりに困惑してしまった。


「あんた記者でしょ?」


そう言われて、自分が手に持っていたメモが嫌いな組織のものであったことに気付く。


「そうです、今日はいつもの新聞じゃ報道しないような個人的でありながら社会的な問題でもある、そういう話題を取材しに来たんです」


「面白いね。それは、あんたのその新聞社で急にやることになったの?」


「違います。俺がはっきり言って、普通の報道に飽きてしまったんです」


「そうだと思ったよ。あんたはそういう一匹狼みたいな顔してる」


「そうですか? 良い気はしないですけど」


俺が笑うと、それに釣られて男も笑った。そして、船の中に戻ったかと思うと、一冊のノートを取り出して持ってきた。


「そんな君に良いものがあるよ」


俺は渡されたそれを受け取りながら、まじまじと見た。[わたしの夢風船]と書いてあった。


「何ですかこれ」


訊ねると、男は笑って言う。


「そこら辺で拾ったんだよ」


「そうなんですね」


俺は、運が良かったのだ。ここに来て良かった。黒く汚れ、傷付いたそのノートを見ながら思った。



そして俺は、それを読んで衝撃の夏を追体験することになる。読まなければよかったとまでは思わない。しかし、これを掲載して良いものか、引用したり、これを元に書籍を出版するのは記者として許されることなのか。分からないまま、夕暮れの船着場に俺は立ち尽くしていた。

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