私は1回2000円の彼氏

秋野ハル

私は1回2000円の彼氏

 図書室は、大声厳禁。ゆえに彼女は息を荒げながらも興奮を抑えて囁いた。


「2000円」


 小柄な体に柔らかな目元。後頭部で編み込んだミディアムの茶髪。そして校則に触れないくらいに、ほんの少しだけ丈を短くしたセーラースカート。


「こよりの1ヶ月分のお小遣い。これで、これで今日だけあなたを買わせて、ね……!」


 彼女、『白星しらほし ふみ』はたった今、同級生の胸に2枚の1000円札を押しつけている真っ最中。


「こよりの好きな本って高いの多いよねぇ。図書室は早くても2ヶ月遅れでしか本が入ってこないけど、お金がないから待つしかないんだよねぇ」


 一方で、押しつけられている同級生が歯を噛んだ。


「お前も、小遣い変わらないくせに……!」


 無造作な長い黒髪。高い背丈。度のキツい眼鏡とその奥にある鋭い瞳。もう1人の少女、『閉野しずの こより』は一度背後へ視線を向けた。

 こよりが背にしているカウンター席。そこには1冊の本が置かれていた。大きくて分厚いハードカバーのそれは、彼女が待ちに待った1冊。こよりの脳裏を反射的に、そのお値段が駆け抜けた。


(税込み1980円!)


 こよりは押しつけられた2000円へと視線を戻して、あくまでも平静を装って吐き捨てる。


「くだらない嘘のためにそこまでするかよ……!」

「自分にも人にも正直に生きる。それが私のモットーだからね、吐いた嘘には責任持たないと……!」

「その律儀さ別のとこに使えや!」

「あとは、なんか、こう、やっぱりチヤホヤされたい!」

「だから馬鹿キャラ扱いされるんだよ!」

「そういうわりに……全然目、離せてないよね?」

「……!」


 文の言うとおりだった。こよりの視線は未だに、2人の野口へと向いたまま。


(やりたくない。この馬鹿の”彼氏役”なんて……)


 そのとき脳裏に過ぎったのは、遠い昔の思い出だった。


 ――この本、難しい言葉ばっかで話も退屈で面白くない。別の本貸して!


(絶対にごめんだ! と、言いたいが……!)


 野口英世の蠱惑的な視線から逃れる術を、万年金欠の中学生は持っていない。


(ただ”着替える”だけで、たった1回我慢するだけで2000円……!)


 葛藤している間にも、文が2000円を持ち上げてくる。胸から首へ、首から顔へ。


「ほれ、ほれ……!」

「ぬ、あ……!」


 さわさわと頬を撫でる1000円札。古本にも似た紙の香りが、こよりの鼻をくすぐって――。


 ◇


 授業終わりはとうに過ぎ、すっかり人気もなくなった校門前。遠くで聞こえる吹奏楽部の音色をBGMに、2人の女子が話し合っている。


「遅いね~、文」


 彼女たちは、文の友人であった。


「今頃兄弟か親戚に彼氏役を頼んで、断られているに一票」

「お、言うねぇ」

「だって『彼氏ができた』なんて言うわりには、あいつちっとも色気づいてないし?」

「ぶっちゃけ同感。ちなみにウチは、連れてこようとしたけど無理だった~! って言い訳に一票」

「んじゃ外れた方がジュース奢りな……」


 と、そこで突然聞こえてきたのはよく聞き知ったお馬鹿の声。


「――お待たせ2人とも~!」


 その声に2人は、なにげなく振り向いて……お互いに顔を見合わせた。


「うそ……」

「まじ?」


 そんな2人の元へと、文がやってきた。彼女は学ランを着た1人の男子と腕を組んで、歩いてきた。


「お待たせぇ! 約束通り連れてきたよ……私の彼氏!」


 文が満面の笑みを浮かべて、”彼氏”を見せつけた。

 高い背丈に爽やかな黒のショートヘア。中性的でありながら大人びた顔つきの中に、鋭い瞳がぎらりと光る。感情の見えないその瞳が2人の女子を一瞥した。見つめられた方がつい背筋を伸ばしてしまう、そんな眼光だった。


「か、かっこいいかも……」

「てか文と似てない……」


 友人2人の羨望を受けて、文はにんまりと笑った。


「なになに兄弟でも連れてくると思った? そんなわけないじゃーん! ね、『リトくん』!」


 そう言われて、腕を抱きしめられて――こよりは心の底から、呆れていた。


(リトくん、ねぇ)


 ここに至るまでには、実に深い経緯があったのだ。

 こよりが文から聞いて曰く。


「実はねぇ。今日、友だちと恋バナになって。みんな彼氏とかいる~? って話になって」


 これが。


「でね、これはチャンスだと思ったの。ここらでイカしたところを見せれば、お馬鹿キャラ返上のチャンス!」


 こうで。


「あとなんか、チヤホヤされたい気分だった」


 ああで。


「だからつい、私には実は彼氏がいるんだぞ~! って言っちゃったの」


 こうで。


「したら現物見せろって言われて、売り言葉に買い言葉でOKしちゃった」


 こうである。


「てことで、こよりに彼氏のフリをして欲しいな~って!」


 そんなこんなで最後には2000円で買われてしまったこよりは、文曰く演劇部から借りたという学ランを着せられ、肩幅を広く見せるパッドを仕込まれ、ウィッグを被せられて、コンタクトをつけられて、偽名まで与えられて、現在に至り――それはそれとして、当人は早くもやる気をなくしていた。


(なんでこんなこと……あ、金のためか……)


 こよりが文字通り上の空をぼけーっと眺めていれば、不意に文の友人の片割れがぽつりと呟いた。


「でも、どこかで見たような……もしかして同じ学校だったりします?」

(そりゃ友だちの友だちだしな! ああクソやっぱり無理がある! でも2000円のため……!)


 こよりは喉をキュッと締めて、できる限り低い声を出した。


「……少なくともは君のことを知らないけど。別の学校だし」

「はぁ。でもなんか、声も聞いたことあるような……?」


 と、文が慌てて割り込んできた。


「気のせいだよ絶対! 有名人とかじゃない!?」

「そうかなぁ……」


 文の様子をジト目で見つめる友人。文はその視線から逃れるようにこよりの腕を引っ張って顔を寄せ、すぐに小声でこう言った。


「もっと別人っぽい感じで喋って! もっと優しく!」

(こいつ……!)


 こよりは心の中で拳を固めた。が、そんな2人をどう勘違いしたのか。もう1人の友人が「きゃあ!」と歓声を上げた。


「顔が近い! 文、本当に付き合ってるの!?」

「そ、そりゃあもうラブラブよ!」


 文が慌ててこよりの腕をぎゅっと抱いた。こよりは思った。


(血管止まりそう)


 一方で友人はこよりへと顔を向けて、興奮に満ちた早口で尋ねてきた。


「リトさんはなんで文と付き合い始めて、あと、文のどこがす、好きなんでしょか!」


 問われたこよりは、一瞬。ほんの一瞬だけ、面食らった顔をした。

 次の瞬間にはもう平然と、顎に手を当て考えていた。


(別人みたいに、ね。……少し捏ねくり回してみるか)


 そしてこよりは口を開いた。


「僕は小説を読むのが好きなんだ」


 そんな出だしに、その場にいる全員の目が丸くなった。


「文との出会いは、些細なきっかけで僕が小説を貸したこと。そのときの感想が魅力的で、それからだよ。彼女のことが気になっていったのは」


 そう聞いて、2人の友人が口々に言う。


「言われてみれば……文はお馬鹿だけど、小説とか意外と読んでるよね」

「友だちに選んで貰ってるとか言ってた気が……あ、もしかして!」


 友人たちの視線を一点に集めて、文はデレデレ頬を緩めた。


「いや~、実は! 実はね! そういうことなんですよ!」


 わぁ! とまた歓声が上がった。こよりは密かに頬を引きつらせてから、話を続ける。


「そう。彼女は小説でもなんでも、自分が面白いと思えば貴賤なく飛び込むし、引きこもりがちな僕を引っ張って新しい世界を見せてくれる。あとは素直で分かりやすいから、一緒にいて気が楽だ。そういうところが好きなんだよ」


 こよりは淀みなく言い切って、最後に心の中で付け加えた。


(我ながら、物は言い様だな)


 そんなこともつゆ知らず、友人たちは口々に文へと言った。


「文、本当に愛されてるじゃん! ごめん実はめっちゃ疑ってた!」

「これは流石にガチか……? まさかよりにもよって文に先を越されるなんて……」

「いやぁ~、それほどでもありますが~? まぁ見てる人には分かっちゃう魅力っていうか~! よ~~しっ!」


 文がノリにノッている。その隣で、こよりはぼちぼち帰る算段を立てていた。


(ま、これだけ言えばもう疑われないだろ。あとは適当に理由をつけて、さっさと帰って2000円……!)


 と、その前に。他ならぬ文が突然言った。


「リトくん、もっとラブラブなところを見せよう!!」

「あ?」

「私にチューして!」

「ああ!?」


 こよりはぎょっと目玉をひんむいて、叫んだ。


「なに言ってんだ人前で! つかそもそも……」


 恋人はフリだろう。その言葉をぐっと飲み込んだ。


(……!)


 なにかが喉に詰まった。そんな気がした。

 一方で、文はこれ以上ないくらい調子に乗っていた。


「いいでしょ私たちラブラブなんだし!」


 こよりの腕をぐいっと引っ張って、小声で付け加える。


「ここまでやれば完全に信じてもらえる! それに女同士だし、キスくらいお互い気にするタチじゃない、でしょ?」

「っ……!」


 絶句したこよりの腕を離して、文はその柔らかな頬を差し出した。


「ほらほら、今ならほっぺに大サービス!」


 瞬間。

 こよりは率直に思った。


(こいつ、ほんとムカつくな)


 瞬間。

 頭の中にいくつもの思い出が浮かんだ。


 例えば放課後に、鉄球を転がすたけの馬鹿馬鹿しい遊びに連れて行かれたことがある。


 ――ボウリングでそんな死にそうな顔する人初めて見た! よーし、これからは私がこよりをもっと運動させてあげよう!


 例えばある朝突然叩き起こされて、なんかいい感じだからという頭悪い理由で秋の海に連れて行かれたことがある。


 ――冷た気持ちいー! って、こよりなに掴んでるの!? なにその生き物キモカワイイ!


 例えば、たまには自分から、あいつが嫌いそうな映画に連れて行ってやったことがある。


 ――なにあれキャラの気持ちが全然分からないんだけど! うぇ、それが面白いところって? こよりのそういうとこも全然分かんないし!


 なんでもない日のなんでもない言葉。こよりはそれを読みながら、文の頬に手を添えて――そのままむにっと抓って、思い切り引っ張った。


「いびゃー!?」

「ったくお前はいつもいつも、こっちの気も知らないでー!」


 リトくんの急変に友人たちが驚いた。誰よりも文が一番驚いた。


「なんで急に暴力キャラ!? リトくん設定がぶれてむぇっ」


 文の顎をがっしり掴んで、こよりは顔を近づけた。


「文。お前、正直に生きるのがモットーって抜かしてたよな」

「あ、あの。リトくん? 目が怖い……」

「元々だ」


 こよりは文の背中に手を回して、抱き寄せた。自分よりも小さくて細い背中を。


「え」


 文が驚く間もなく、こよりは言った。


「自分の言葉には責任を持てよ」


 それきりこよりは口を閉じた。文へと顔を近づけた。

 文の小さく開いた唇に、迷いもなく、自分の唇を押しつけた。

 リップクリームの油で唇がぬるりと滑る。そんな感触がした。


(本で読むほど、味気あるもんでもないな)


 こよりはすぐに唇を離した。細い唾液が繋がるその先には……人生で初めて見る、馬鹿の顔があった。


(なに考えてんだろ)


 恐怖か、困惑か、あるいは興奮か。

 こよりには目の前にある表情の中身が分からない。ただひとつ確かなのは、その小さな顔が耳まで赤くなっていること。


(まぁいいや、なんかスッキリしたし。こいつ、こんな顔もできるんだ)


 ぞくぞくと、背中が震えた。


「こいつに初めて貸したのは、私の好きな本だった」


 熱に浮かされた頭に急かされ、思いの丈を吐き出した。


「貸して、3日後に言われたよ。難しい言葉ばかりで話も退屈。なにも面白くなかった。だから別の本貸してって。遠慮も飾り気もないその言葉がさ、の中にぴったりハマっちゃったんだ」

(今思えば、一目惚れだったのかな)

「人付き合いってやつが七面倒で、だから1人でも良かったのに。いつもつきまとわれて、むりやり引きずられて、その度に考えてた。こいつなに考えて生きてるんだろうって」

(知らない言葉。分からない思考。へんてこな文章。そういうのを頭の中で捏ねくり回すのが好きだった)

「単純で馬鹿で分かりやすいはずなのに、こいつの全部は私の知らない言葉で形作られている。私はいつの間にか……」


 文の額を。その内側にある物を、こよりは指でとんと押した。


「こいつが綴る文章を、愛してしまったんだと思う」


 それから文の友人たちの方を向いて、苦笑した。


「ほんと、ムカつくよな」


 すると、いつの間にやら。

 友人の1人は指の隙間から潤んだ瞳を覗かせていた。もう1人が顔を真っ赤にして、震える声を喉から出した。


「ご……ごちそうさまでしたぁ~!」


 そして2人一緒に。あっという間に。逃げるように去って行った。

 校門前には、こよりと文だけが残された。

 門の向こう側で白球を打つ音がした。何かの楽器の音、誰かの声援が遠くに響く。

 やがてこよりは文を支えたまま、わなわなと体を震わせて――急にその手を離した。


「気は済んだろ!」


 支えを失った文が地面に落ちた。


「ぎゃんっ!」


 そんな文を一瞥すらせず、こよりは校舎の方を向いて吐き捨てる。


「着替えて帰る! お前も帰れ! これに懲りたらもうこんな真似はするなよ! 2000円絶対寄こせよ! じゃあな!!」


 そしてこよりは校門を潜り、なるべく人気のない校舎の裏を歩いていった。時たますれ違う生徒が、思わずこよりへと視線を向けた。こよりは無視してずんずん進む。


(最悪だ)


 初めて見た。文の真っ赤な顔が、脳裏に焼き付いて離れない。


(馬鹿な煽りに呑まれて、勢いでキスして、全部ぶちまけて……! もっと冷静でいられると思ってたのに。墓場まで持っていくつもりだったのに。これじゃあ男装どころか本当に、そこらの中坊と変わらない……)


 ふと、校舎のガラスが目に留まった。

 そこに映っていたのは、なんてことない。耳まで真っ赤にした、中坊そのものであった。


「あ……ああ」


 ガラスに映る中坊の瞳が、みるみるうちに潤んでいった。


「ぐああああ……!」


 こよりは堪らず頭を抱えて、その場に蹲った。


 ◇


 こよりは知らない。取り残された文の顔も、同じ様になっていることを。

 文は校門の壁に寄りかかり、唇を両手で覆って、ひとつの言葉をずっとずっと反芻していた。


 ――こいつが綴る文章を、愛してしまったんだと思う


そのたびに耳が甘く、じんじんと震える。やみつきになる感覚だった。


(こより、こより。ねぇ全部本当なの? それともただの冗談? 間近で見た顔、格好良くて、あんなに綺麗で、どうしよう)


 堪らず口から溢れ出す。想いの丈が溢れ出す。


「なにこれ、なにこれ、まさかこれ、恋なんて、そんな! だって相手は友だちで、女の子で、しかもその男装って、こんなの誰にも言えないよ~!」


 ひとしきり悶えたのち、ふと天啓を閃いた。天は財布の中にあり。もつれる手つきで財布から、2枚の1000円札を取り出して空に掲げた。


「い、一回2000円かぁ」


 文のだらしなく緩んだ顔を、太陽に透けた2人の野口がただ静かに見守っていた。


「えへ。えへへ。えへへへへ……」

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