悲しみを負って

九大文芸部OBOG会

悲しみを負って                    

                              作:阿久井浮衛


 六月の,ある昼下がりのことである。

 この日は前日から,午前中は雲が立ち込め,昼過ぎには雨が降るとの天気予報がなされていたのだが,丁度朝の通勤通学の時間帯にぱらぱらと小雨が降った程度で,梅雨の黒々とした雨雲は,姿を見せることもなく東の空へと流れてしまった。そのため,とても梅雨真っ只中とは思えない強い日差しが照りつけ,また午前中に上昇した湿度と相まって,小まめに水分補給しなければ熱中症で倒れてしまいかねない程蒸し暑い天気となっていた。

 いつものように定時より少し早く終わる二限目の講義の後,人の熱で蒸し暑くなる前に食堂からも退散した私は,しかし構内を文学部の掲示板の方に向かって歩きながら途方に暮れていた。果たすべき事物が存在しないのである。これがほんの一週間前であるなら,演習で行うプレゼンテーションの準備やら,ドイツ語とフランス語の講義の予習やらで,のんびりしている暇はなかったのだが,今週そのプレゼンは終わってしまったし,講義の予習も一番面倒な単語の意味調べを済ませ,後は逐一文章を訳す作業を残すだけで,それほど慌てる必要はない。それなのにここ三か月ほど睡眠時間を削る生活を続けてきたせいか,急に湧いて出た余暇が我慢できず何かに取り組んでいないと落ち着かない,そんな奇妙な焦燥感に駆られてしまっていた。

 どうしようかと思案しつつ,一先ず通学してすぐに確認した掲示板に新たな情報が加わっていないか確認でもしようかと思った矢先,ふと私の目に,文系教務課の建物の奥にきらきらと輝く池が映る。学生達の憩いの場として,あるいは単に景観を整えるために設けられたであろう池の周りには,公園などでよく見かける石造りの長椅子が置かれているのだが,蒸し暑い環境に身を投じる物好きはさすがにおらず,秋には鮮やかに赤く燃える楓の木ではあるものの,今は池の脇で静かにその深く濃い緑色の葉を揺らしている。原則的に,思い立ったら即行動を信条とし,脊椎で物を考える趣を知っている私は,佇む陰に惹かれて,大学構内を散策することに決めた。

 講義棟から各文系学部が入る学部棟へと延びる渡り廊下を横切り,件の眩しい池に沿って,文系学部棟をキャンパスに並行して走る国道の方へと進む。国道側の裏門からは,午後からの講義に出席するつもりらしい怠惰な学生が,眠そうな目をしながら自転車を漕いでおり,半袖シャツに汗を滲ませている三十代くらいの男性が,何やら慌ただしげに教務課の方へと紙袋を右手で振りながら小走りで走っている。空を劈く飛行機の音が無粋ではあるが,人気の少ないこの空間は中々に私の気に入った。突き出た棟を越えて,更に学部棟の裏手へ歩み入る。

 突き出た学舎の左手では,国道からの騒音の侵入を防ぐためにだろうか(ひょっとすると風を防ぐ目的もあるのかもしれない),背の高い木々が植えられちょっとした雑木林の体を成していた。その手前は駐車場なのだが,近くに目ぼしい入口がないせいだろう,停めてある車はたったの二台だけだった。それと反対の方向には,学舎に,丁度カタカナのコの字のように囲まれた中庭が広がっており,丁度紫陽花が紫の花弁を広々と見せつけている。学舎の中から外を見ていた時には気付かなかったが,よく見ると教育学系の大学院の研究室に通じる扉が中庭に面して設けられている。しかしながら来客どころか学生の目も行き届いていないためだろう,それ以外中庭には然程人の手が加わった様子はなさそうだ。背の低い植木は枝が伸びるまま葉が茂るままだし,それらの間隙を縫うように聳え立つ木々は纏わりつくような陰を地に落としている。張り巡る枝葉には鈍く煌めく蜘蛛の糸がかかっている。繁殖範囲を限られている分,雑然と整列する国道側の木々の方が却って整然とした印象を与えるくらいだ。

 私が中庭を一瞥し,より奥に進もうと二台の車の正面に回った時だ。視界の左端を,小さな影が駆け抜けた。

 その影は素早く,駐車場に停められた二台の車の間を通り,雑木林の方へと走る。はッと顔を向けると雑木林の手前,膝の高さまで積み重なったブロック塀の上に,一匹のトラ猫が鎮座している。その猫は警戒しているのか,前傾姿勢で大きな眼をこちらへ投げかけていた。尻尾がくるり,くるりと助走の準備をしていて,まるでその上でさざめく,深緑の鋭い葉と呼応しているようだ。私は自らに好意を向ける者より嫌悪の視線を向けてくる対象を好む性質の人間であるから,あからさまに険しい眼をしているこの猫がとても愛しく感じられ,十中八九逃げ出されることを予期しながら不用心にも近寄った。すると案の定,彼女はついと顔を背けて木々の間へ姿を消してしまった。

 私は幼き時分,夕方公園に一人取り残された寂しさを思い出しながら,歩を戻して裏手から学部棟の中に入ろうと,踵を返そうとした。その拍子に,二台の車の内,左手のワンボックスカーのタイヤの脇から,愛らしい顔がこちらを伺っていることに気が付いた。

 子猫だ。

 彼は先に逃げた彼女の子供なのか,薄茶と黒い毛で覆われた顔を,ブロック塀の上とこちらへと行ったり来たりさせている。私を用心しているらしい彼が,一体どうして彼女の後を追っていかないのだろうと小首を傾げたが,すぐさま,彼の小さな体躯に得心がいく。追いたくとも追いかけられないのだ。その未発達の脚力では,我が身かわいさに真っ先に逃げ出した母を慕うことすら許されないらしい。私は身勝手な同情を覚えて,しばらくこの見捨てられた幼子を見守ることとした。

 彼は母親と同様の方法で私から逃れることを諦めたらしく,しかし,それでもなお私の隙を伺うことは逃走に必須のようで,タイヤの陰に顔をひっこめたかと思うと,たまにふいと顔を出してこちらを見つめるという動作を繰り返している。彼としては生きる残るため,一時の気を緩めることすら許されない状況に身を置いているつもりなのだろうが,私から見るとその所作は少し滑稽で,微笑ましい。五六度この動作を繰り返した末,私の頬が緩んだのを好機と捉えたのか,彼は一か八かの博打を打った。ボックスカーの下を潜り抜け,脱兎のごとく,薄暗く茂る中庭の方へと駆けたのだ! 

 所詮幼稚な脚力と高を括っていた私は,彼の迅速果敢なこの逃走に肝を抜かれた。カメラはどこだっけ,と鞄の奥を弄りながら,急いで彼の消えた中庭へ向かう。小走りし額に汗が浮かぶのを覚え,ふと,何をやっているのだろうと冷たい疑問が鎌首を擡げるが,久しぶりに萌芽した,混ざり気のない好奇心は捨てるには惜しく感じた。

 彼は鬱葱と茂る木々の合間を縫って中庭の方へ抜けて行ったが,世間ずれして狡猾になった私は真っ直ぐにその後を追うことはしない。蜘蛛の巣が宙に浮かぶ木々を迂回して,学舎へと彼を追い込むように中庭へ踏み込む。中庭には先に触れた研究室の教授達のためだろう,サンルーフ付の駐車スペースが膝程の高さの積み重ねられた煉瓦で区切られており,そこに一世代前のスカイラインが停めてある。傷一つなくシルバーの車体を光らせる乗用車を左前方に見据えてから,子猫が逃げ込んだ筈の排水溝の方へ腰を屈めながら,植木の隙間を覗き込む。予想に反してそこに子猫の姿はなかったため,ひょっとして中庭を横切ったかと反対側の外壁にも目を向けるが,果たしてそこにも幼い肢体は見当たらない。

 コの字の奥底まで進んでも中々見えない薄茶色に降り始めの小雨のような諦めを抱き,最後の悪足掻きだと殆ど四つん這いになるまで姿勢を低くして中庭を見回すと,研究室へと通じる扉の前は小さな段さがあるのだが,その脇の,ブロック塀の破片が一つ二つ転がっている辺りに,ようやく探していた子猫を見つけた。それもただその子猫だけでなく,他に兄弟らしい二匹の子猫もそこに認めた。追いかけていた一匹と,新たに見つけたもう一匹の子猫は姿形が瓜二つで,もう一匹の毛色だけが灰色だった。薄茶の二匹は互いの尻尾を捕まえようとしてみたり,ぴょこぴょこと跳ねながら相手にのしかかろうとしてみたり,私に見られていることには気付かず無邪気にじゃれ合っている。もう一匹は疲れているのか,顔を向こうに背けながらぐっすり寝入っているようだ。

 私はデジタルカメラを構えつつ近付いていく。雑草が茂っているおかげで,敏感な猫の聴覚を侵すことなく接近できた。しかしその反面,午前中に雨が降ったせいで,まるで腐っているような,湿気て生ぬるい臭いが私の鼻を襲う。

 その臭いに耐え兼ねた私は,思わず駐車スペースを区切る煉瓦の上に,平均台のような気軽さで乗ってしまった。せっかく消えていた足音を耳聡く聞きつけ,二匹の猫はぎょっと私の方へ顔を振った。彼らは遊んでいる体勢そのままでこちらを警戒した。最早どちらが最初に目撃した子猫か分からないのだが,一匹が寝そべっているもう一匹の尻尾を抑えたまま,まん丸く目を開いた顔をこちらに向けており,その姿勢があまりに可愛らしかったので,私は堪らずカメラのシャッターを押した。反射だったくせにぶれることもなく,三匹の子猫が画面の中に納められた。

 一方,二匹の子猫はそれ以上私が近付く気がないことを確認したらしく,ふいと緊張を緩めてしまった。寝そべった方は明後日の方向に顔を向け,もう片方はいつの間にかするりと抜けだした尻尾を再び捕まえようと躍起になっていた。この間も,奥にいる灰色は眠りこけたまま,ぴくりともしない。

 それから二度シャッターを押した私だったが,こんこんと湧き出る彼らを撫でたい衝動に駆られ,一歩だけ煉瓦の上を歩いた。その途端,遊んでいた方がこちらを一瞥することなく立ち所に走り出して,植木の中にその姿を消し去ってしまった。寝そべっている方は大きく体を伸ばして,ぴんと立った耳と円らな瞳をこちらに向けている。そのやや間抜けな姿にぷっと吹き出しながら,それでもこれ以上迂闊に歩み寄って逃げられることがないように,片膝を立ててしゃがみ込む。

 寝そべった茶トラは,一向に逃げる気配を見せなかった。そうかといって,私に対し全く気を緩めてしまっているわけでもなく,欹てられた耳は時折ぴくり,と忙しなく向きを変えているし,彼の目はしかとカメラを構える不審者を捉えて離さない。よくよく目を凝らせば,その肩は若干隆起しており,いざとなればすぐにでも駆け出せる気構えであることは容易に見て取れる。まるでその様は,今すぐにでもこの場を離れたいが離れられない事情でもあるかのようだ。しばらく,私は愚鈍にも横たえるそのあどけない総身を被写体にぱしゃぱしゃっとフラッシュを焚き続けた。

 心ゆくまでシャッターを押し続けて,ようやく私はじっと耐え忍び続ける子猫に怪訝を覚える。一体どうして彼は逃げ出さないのだろう。勝手な思い込みかもしれないが,彼はおそらくこの場に留まり続けることにストレスを感じているに違いない。それなのに,その苦痛を耐え忍んでまでも彼がここに残る理由は何だろう。さっきの兄弟のように,さっさと逃げてしまえばいいのに。

 そういえば灰色はずっと寝入っているな,と私は何気なくそれまでの被写体から目を外し,左へ視線を流した。その瞬間,猫だと思っていたそれが猫でないことに気付いた。第一それは,呼吸をしていない点で生物ですらなかった。

 私は堪らず,それまで横になっていた子猫をびくりと驚かせることにも構わず,すぐさま立ち上がって煉瓦から飛び降りる。飛び降りて,脇目も振らず早足でその場を後にする。見てはいけないものを見てしまった気まずさから逃れたくて,背中にかかるプレッシャーから少しでも遠ざかろうと足を前に進めた。

 中庭を出て,国道を遮る木々と,変わらず煌めく池の方向から見てコの字の底辺にあたる学部棟の間を通り抜け,正門から見て学部棟の裏に位置する駐輪場の前まで来て不意に立ち止まる。額に浮かんだ玉の汗が,つうと頬を伝い灰色に乾いたアスファルトの上に,一滴の黒い跡を刻んだ。

 その翌日。

 私は調べ物のため立ち寄った文系図書室を出て司書室の脇の廊下を歩いていた。時刻は雲一つなくかんかんと照る日が頭のてっぺんに登り切った頃だ。昨日の空模様を引き継いだような日差しに目を細め,中庭に面した廊下を南へ進む。右手に眩い光を捉えていた私の眼に,中庭に面した扉の前で屯し,子猫を撫で回している女子大学院生が映る。その子猫は黒の毛が混じる茶トラで,白魚のような白く柔らかい指先でくすぐられて,こそばゆいのか体を竦めている。その様を見て,四人の大学院生は嬌声をあげた。

 私は雨こそ振っていないものの,夏独特の,肌に纏わりつく湿った空気を背負いながら足を止める。窓越しに白い光線を受けながら,私の目は釘付けられた。

 確かに,そこに悲しみがあったのだ。

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