第3話 老人

「ふーん。不思議な話だな」

秀一郎しゅういちろうは言う。

「夢で見たのと同じ場所が現実にあったんだ」

「そうなの。八百屋のおばさんの顔まで知ってた」

「でも、そこの通路に囚われてたっていうのは、今現在のことじゃないんだ?」

「そうみたい。通路を出て、振り返ったら建物は消えてて、その駐車場だったの。おばさんが、その宿は50年以上も前に潰れて壊されたって言ってた」


 秀一郎は、仕事帰りに私の部屋に来ている。お互いが翌日休みの日は、彼がうちに泊まっていくのが常だった。最近仕事が忙しいので、今日はコンビニ弁当だ。つまみやビールも買ってきて。二人して家飲みすると決めたのだった。



「でもさ、その通路から抜けて、商店街まで出たらさ、そこが駐車場になってて、その通路もなくなってたんだろ?」

袋から出したビールを受け取りながら秀一郎が言う。

「うん。そうなの」

「それだったらさ、そこの通路から、逃げ出せたんじゃないの?」

「あー。そうなのかな?」

「疲れてるんじゃない? 気にしすぎるから、見るのかもよ、逆にさ」

秀一郎がビールを開けて一口飲む。

「そうかも……」

私もビールを開けた。



 気付けば、また、あの角にいた。

「全然抜け出せてないじゃん……」

そう思った、その時だった。


「おや? お前さんは?」

急に宿の裏口の門が開いて、年老いた男の人が出てきたのだ。

「えっ……あ……あの……」

余りの驚きに、何を言っていいかわからない。

「お前さんは旦那さんを連れてこなかったのかい?」

老人が言う。

「旦那さん?」

私が返事に困っていると、老人は私の顔や恰好かっこうを見て、

「ほう。迷子か」

と呟いた。


 わけがわからない。

「どれくらいここにいる?」

老人が尋ねるが、夢の中だ。時間の感覚などない。私は首を横に振った。

「向こうには行ったのかい」

「あ、あっちに行くと、屋台に見つかって戻されるんです」

ふむ、と、老人は屋台の方を向いた。

「そうか……。狙われたか」

「狙われた?」

老人は顎髭を撫でた。

「もう、お前さんは、この通路から出ることはできん」

「えっ? それは、どういう……」

いきなりの言葉に、ショックを隠せない私の顔を見て、老人はゆっくりと言った。

「この宿の中を通って、表に出るしかないということじゃよ」

「えっ? この中を……ですか?」



「逃げ方がある」

「に、逃げ方? ……ですか?」

「何度も挑戦はできん。いいか」

「……」

何と答えていいのかわからない。今から何をさせられるのかも。

「この宿の中を、誰にも見つかることなく、表玄関から外に出るんだ。いいな?」

「見つかることなく……」

どういうことだろう? 見つからずに逃げる? 表玄関から? わけがわからない。夢だから余計わからないのか?

「誰にも見つからないように逃げろ。見つかったら、たちまち捕らえられる」


「つ、捕まったら、どうなるんですか?」

恐る恐る尋ねる。

「殺られて肉にされて、骨はそこに埋められる」

老人は、サラッと言うと、裏庭を指さした。ゾッとした。

「肉に……とは……?」

泣きそうになりながら尋ねる。

「外に屋台があったろう? 評判の味でなあ。若いおなごの肉なら柔らかい。ご贔屓ひいきに、さぞや喜ばれるだろう」

嫌だ……怖い……考えたくない……。背中から凍りつくようで、身体が震える。どうなるの? 私、どうなるの?


「2回だけ、やり直しがきく」

老人が、震える私を見て、口を開く。

「恐らく、お前さんは、夢の方から迷い込んだ口じゃろう?」

「は、はい」

「夢から迷い込んだ者は、2度までは殺されても、目が覚めれば、やり直せる」

つまり、チャンスは3回ということか……。

「え? 3回目が失敗すると、どうなるんですか?」

私は慌てて聞いた。老人は、何も言わずに目を閉じて首を横に降った。

「そんな!!」

どうすればいいの? 夢が現実に繋がることなんてあるの? いや……それは自分で実際見てきたことではないか。この夢は実在する場所にあるのだ。


「逃げたいか?」

「そ、それは勿論逃げたいです。一生こんな夢に囚われ続けるのは嫌です。でも……」

老人は、顎髭を撫でながら言った。

「そうか。じゃあ、次の時までに考えてくるといい。この門を4回叩け」



「づき……はづき……葉月、大丈夫か?」

気がつくと、目の前に秀一郎の顔があった。私は必死で彼にしがみつく。

夢を見たのか?」

うんうんうんうん……彼の胸に顔を埋め、何度も頷く。

「物凄くうなされてたよ」

怖くて怖くて、どうしようもなく涙が出て、彼にしがみついて、暫く震えながら泣いていたが、少しずつ、話すことができるようになった。


 私は、秀一郎に夢の中で見たり聞いたりした話をした。夢なのだ。どうせ夢なんだから、と放置しててもよさそうなものなんだが、どう考えても、私はあの場所に囚われていて、この先もずっと、この怖い夢を見続けるのだろう……。そう思うと、早く逃げたくてたまらない気持ちになった。


 精神的に参っている。そう、夢を見ることで、精神が病んでいく感じがするのだ。



 秀一郎が用意してくれたトーストとコーヒーを、食欲のないまま胃に押し込みながら、

「逃げようと思う」

彼に、そう言った。

「そうか……」

彼が考えているように応える。


「一度失敗したら、一旦夢から覚めるってことだよな」

「多分……。殺されちゃってすぐ2回目はないよね、ゲームじゃあるまいし……」

「もし、失敗したら、二人で作戦を練ろう」

「でも……毎日見るわけじゃないんだよ?」

「暫く、こっちに泊まるようにするよ。」

「いいの?」

「あんなにうなされてる葉月を放っておけないだろ」

「ありがとう」

私は、秀一郎の優しさに、ポロポロとこぼれる涙を抑えることができなかった。

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