人魚十景

缶津メメ

第1話 人魚の肉の話

××県南端部にある小さな宿が、僕の今夜の寝床であった。寂れた宿は今にも海風で倒れてしまいそうなほど古く、まさしく「寂れた」と言う言葉が相応しいと思う。それでも宿の女将は大層な美人で、温泉にも浸かれる、夕飯も出るのだというから文句は言えまい。それに、玄関に灯りをともしている時代錯誤な裸電球も、歩くたびにぎしぎしと音を立てる廊下も、心もとない薄い布団も、ありふれたホテルでは味わえないような魅力だ。………とはいえ、冬では無くて良かったな、と思う。


荷物を置き、備え付けのポットで湯を沸かし、茶を飲む。饅頭と緑茶をお供に、今日一日のメモを纏めているとこんこん、と襖を叩く音が聞こえた。

「失礼します。お夕飯の時間でございます」

「あ、ありがとうございます」

もうそんな時間か、と思い女将の手元を見る。机の上にはご飯と味噌汁、茶わん蒸しにお刺身が乗った皿、野菜の煮物が入った小鉢と豆腐が置かれた。ごゆっくりどうぞ、という声と共に襖は閉められ、僕の意識は食事へ向く。いただきます、と手を合わせ、茶碗の蓋を開け、味噌汁を一口飲む。生姜が入っているようだ、舌先にピリリとした刺激を感じる。具のほうれん草とキャベツ、豚肉と合っていて美味しい。ご飯を一口食べてから、刺身に手を出した。醤油皿に一度浸してから、それを口に運んだ。

「―――――――――!」

瞬間、うまい、という意識だけが僕の脳を支配した。なんだ、この魚は。まるで脳天に雷が落ちたかのような衝撃を受ける。誇張ではなく、本気でそう思った。

「マグロ………?いや、違うな………サーモンみたいなくちどけだけど、歯ごたえは鯖みたいな………………なんだ?これ」

ありとあらゆる魚の魅力をすべて集めたかのような味わいをした肉に、僕は驚愕し、感動した。米と共に食べるのが勿体ない。醤油をつけるのも勿体ない。そのままの味を楽しむことこそ、この刺身に対する礼儀だと思った。そのぐらい強烈なインパクトを残す味であった。

気が付けば僕は、目の前に広がっていた夕食をすべて胃の中に収めていた。………我を忘れて食事をするだなんて体験、今までしたことが無い。おかわりはあるだろうか、追加料金を払ってもいいから一尾丸々食べたい。きっと頭だって美味しいし、骨だって旨味が沁み込んでいるのだろう。次に女将が来たら聞いてみようと思いながら、食休みをした。



「失礼いたします。お膳を下げに参りました。」

「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです!茶碗蒸しもお味噌汁も……………特にその、お刺身が」

「お刺身?――――――――ああ、ありがとうございます。嬉しいですわ」

女将はうっすらと、でも嬉しそうに笑う。お料理を褒められて喜ぶだなんて、なんだか可愛らしい。僕はその勢いでおかわりの件を聞いてみようと思い、口を開いた。

「ええ、もう本当に美味しくて。それで―――――これ、なんのお魚なんですか?」

「ああ、それですか」


人魚の肉ですのよ、と女将は目を細めて笑った。


「………ああ!このあたり、人魚伝説が多いですもんね。僕も昼間、このあたりを歩いて人魚にまつわるお話を聞いてきた所だったんですよ」

「あらあら、それは」

こういう人でもジョークを言うのだという意外さに胸が変な音を立てた。ときめきというよりは、ある種の「ほんとう」が乗せられたような冗談にちいさな恐怖を感じてしまった、という言い方が近いかもしれない。

「ねえ、お客さん。じゃあこんな話を知っていますか?」

「ほう?」

「――――――人魚は戯れに陸に上がって、人間と変わらぬ姿で生活をしている―――――という話です」

「人間社会で生きようとする人魚の物語は昔から伝えられていますよね。足を得る代わりに声を失う人魚のお話とか」

「はい。でも、ここいらの人魚は何かを失うことを嫌がりましてねえ。思い人もいないのに、『ただ面白そうだから』という理由で陸に上がったのだそうですよ」

「―――――馴染めたんですかね、陸には」

「さあ。でも、そのうち彼ら彼女らは、寂しくなってしまったんでしょう。………人魚の肉は不死の妙薬。人魚自身もまた長命。人の世に馴染んでも、愛したものには全部置いて行かれる。だから。だから人魚は――――――人間にこっそり、自分のお肉を食べさせるんですって」

「―――――――――不老不死に、するために?」

「はい。寂しさを紛らわせてくれる人が欲しいから、人の命を狂わせる」

僕は、「ずいぶん身勝手な生き物なんですね」と本音が口から出た。そう、その身勝手さはまさしく、人間とは違う価値観を持つもの、妖の類のもつそれだと思う。

「ふふ。あなたも五百年おひとりでいてみなさい。身勝手にもなりますよ」

その一言にわり、と背筋に悪寒が走った。女将はやっぱり目を細めてすくすと笑い、なんてね、と言って女将は小さく舌を出した。僕はなんだかそれでひどく安堵してしまって、喉まで出かけていた吐き気をどうにか呑み込むことができた。

「それじゃあ、お皿片付けますね。ごゆっくり」


僕は襖の音を立てずに開け、廊下を歩く女将の後姿を見つめる。

女将は、右足を引きずりながら歩いていた。


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