蒼猫

 少女はもう何日も無機質で真っ白な空間を歩き続けていた。ぺたぺたと素足で歩く音と、自分の呼吸音、そしてたまにチリンと遠くから”何か”がなる。それ以外には何も無い。変わらない景色の中、遠くからなる”何か”を目指して、気が狂いそうな孤独に耐えていた。


 少女が目を覚ますと、着た覚えのない真っ白なワンピースを着て、知らない真っ白な空間にいた。どうして、このような場所にいるのか、この場所に来る前は何をしていたのか、何も覚えていなかった。暫く呆然と周りを眺めていた。すると遠くからチリンと微かに音がなっているのに気づく。その音に惹かれるように少女の足は勝手に動き出していた。

 音向かって近づいていくと、そこには”何か”があった。白い空間の中で白く光る”何か”。少女は”何か”から目を離せなくなって、音に惹かれて歩き出したように、今度は光る”何か”に向かって手を伸ばしていた。

 ゆっくりと意識が飲み込まれ、そして視界が真っ白に染まった。

 数秒たった後か、視界が少しずつ元に戻っていく。少女はゆっくりと瞬きをし、目を見開いた。先程いた白い空間ではなく、とある家のリビングに立っていたからだ。

 そのリビングに少女は見覚えがあった。ここは長らく暮らしている少女の家であり、今、少女が最も帰りたい場所。その光景に泣き出しそうになる。

 リビングのドアが開き人が入ってくる。

 「おはよう、美紀。今日は早起きなのね。」

 美紀、と自分の名前を呼ぶ声。聞き馴染んだ話し方。それは、紛れもなく少女の母親の声で、少女は安堵して思うがままに抱きつきに行こうとした。

 しかし、それは叶わなかった。体が動かせないのだ。それどころか声も出せなかった。辛うじて視線は動かせるもののそれだけだ。

 「おはようママ!今日、帰りに拓と遊びに行くの!」

 そう、少女が声を発する。

 少女は困惑した。自分は発したつもりのない言葉が少女の口から発せられていることに。

 少女は机に向かって座る。

 この行動も少女が意図してやったものでは無い。少女の体は少女の意志と反して勝手に動き続ける。

 しかし、この行動もどこか見覚えがあるような気がして、今、起こっている現象に少女は頭を傾げ困惑する以外なかった。

 暫くして、また視界が白く染まり始めた。

 瞬きをすると、リビングではなく、白い空間に座り込んでいた。

 手を伸ばして動かす。声を発してみる。今度はすんなり自分の思うように体が動かせた。その事に安心し小さく息を吐いて落ち着く。

 つい先程見た少女が住んでいた家を思い出し寂しく思い、体を小さくし自分を抱き寄せた。そうして少しずつ思い出す。

 少女の名前は、黒崎美紀くろさきみき。両親がつけてくれた少女の大切な名前。そして、少女が勝手に発していた言葉の中の、拓という人物は美紀の恋人だった。

 少女自身の名前、恋人の名前、そして母親との会話。

 これが少女――美紀が初めに見た”記憶の欠片”だった。


 美紀はこれまでに、2つ”記憶の欠片”を見つけた。1つは家のリビングでのこと。もう1つは美紀の学校での授業風景、そして友達と談笑している光景だった。

 懐かしくはあるものの、この記憶ではここに来た理由と経緯が分からない。ただ、早く帰りたい気持ちと寂しさを募らせるだけだった。

 チリンとまた遠くで音が鳴る。1つの記憶を見るのに永遠に思える距離を歩かなければならない。この場所には時間を確認するための道具がないため、実際どの程度歩き続けているのかは分からない。そのせいか、長い距離がより長く感じた。

 遠くでなる音に近づいてきているのかどうかも分からない。白い光に近づいても音は同じ大きさで鳴っていた。不思議に思う部分は沢山あったが、考えたところで答えが見つかる訳もなく、美紀は早々に考えるのをやめた。そうしてまた美紀は歩き始める。


 暫く歩いたところで、美紀は異変に気づいた。変わらない白い景色に1つ物が落ちてあった。よく目をこらすと、それは物ではなく倒れている人であることが分かる。それに気づいた美紀は、考えるより先に走り出していた。

 てっきりこの場所には美紀1人なのだと思っていた。しかし目の前には人がいる。それが誰なのか、何故いるのかを考えるより、自分以外の人がいたことに喜びを感じていた。

 美紀は倒れている人に駆け寄る。倒れていたのは少女のようで、美紀と同年代のように見える。髪は肩にかかる程の長さだろうか。そして、美紀と同様に白い服を来ていた。

 「ねぇ、大丈夫?」

 美紀は少女の肩を揺らし声をかけた。すると、少女は小さな呻き声を上げ、ゆっくりと瞼を上げ上体を起こす。

 「.....すみません。」

 少女は周りを少しだけ見渡して、美紀の顔を見た後そう小さく声を発して俯いた。その反応に美紀は呆然とした。てっきり最初は質問をされるのだと思っていたからだ。ここは何処か、誰か、何故か、そういう質問を投げかけられるのだと。しかし少女が最初にしたのは謝罪だった。何に対する謝罪なのか美紀には分からなかった。

 少女が何も反応しない美紀を見て、また口を動かした。

 「あの.....ここは何処ですか?」

 質問されたのを理解するのに暫く時間がかかった。ここはどこかと聞かれたのに対して美紀は慌てて返事をする。

 「ごめん、美紀もわかんない。美紀もね起きたらここにいたから。」

 「そう……ですか……。」

 美紀の言葉を聞いて、落胆したのかまた俯いてしまった。

 少女はその場から動きそうになかった。できればこのまま一緒に行動を共にしたいが、美紀が怖がられている可能性もある。少女の為にも美紀はここを立ち去った方がいいのかもしれないが、これまで耐えてきた孤独に、また耐えられる自信がなかった。きっとことある事にこの少女と一緒に居ればと後悔することになる。そう思えば、自然と行動に移していた。

 「一緒に帰り道探さない?美紀ずっと一人だったから寂しかったの。」

 上体を起こしたまま座り込んでいる少女に美紀が手を伸ばす。少女は取りかけた手を引っ込めたり、また伸ばしたりして、迷っているようだった。しかし、やはり1人よりは2人の方が心細さは軽減されると考え、最終的には美紀の手を取った。

 「えと……よろしくお願いします……?」

 「あははっ……よろしくね!」

 少女の疑問形での挨拶に笑いながら、握った手を引っ張って少女を立ち上がらせた。少女は驚きながらも美紀を見て小さく笑う。

 「ねぇ、名前なんて言うの?」

 「……あ、青凪玲奈あおなぎれなです。」

 「そっか!美紀は黒崎。黒崎美紀!美紀って呼んで。」

 「うん、みきちゃん……。私のことも玲奈で大丈夫です。」

 玲奈はおずおずと美紀の名を呼び、最後の語尾を弱めながら言葉を発し、美紀と目線を合わせづらく自分の足元を見た。

 「敬語なんかいいよ!美紀まだ17だし!多分同じくらいでしょ?」

 玲奈の行動になど目もくれず、玲奈の手を取り視線を合わせる。玲奈は、少し驚いたあと、私も17です。と小さな声で答え、今度は視線を横にずらした。

 「まじ?!同い年じゃん!どこ高校?」

 「高校……どこ……なのかな。」

 美紀の問いに対して、消え入りそう声で、呟いた。

 玲奈の反応を見て、地雷を踏んでしまったのかもしれないと美紀は内心焦る。何とか話を逸そうと、頭をフルで回転させて話題を探す。しかし、全くと言っていいほど思いつかなかった。

 美紀が唸っていると、遠いところからチリンと鳴る音が聞こえた。その音を聞いて美紀はひとつ思い出す。

 美紀自身も白い光で記憶を見るまで、この場所に来る前の事を思い出せずにいたのだと。

 美紀は隣にいる玲奈を見る。玲奈は驚いたのかしばらく音のなる方向ををじっと見ていた。そんな玲奈の手を取り話しかける。

 「あの音の方に行こ」

 美紀の言葉に玲奈は困惑していたが構わず引っ張って歩き出す。

 そうして歩きながら美紀は自身がここに来てからの事をぽつぽつと玲奈に話し出した。

 

 美紀が話終わる頃には白い光のすぐ目の前まで到着していた。

 「だから、光に触れば玲奈も前の事思い出せるんじゃない?」

 美紀の触ってみろと言わんばかりの表情と言動に玲奈は不安の色を滲ませた。光に向かって手を少し伸ばしたりまた伸ばした手を引っ込める、という動作を繰り返している。

 そんな玲奈を見て美紀は、大丈夫だよ、と手を握って、緊張している玲奈と一緒に光に向かって手を伸ばした。

 ゆっくり視界が白に染まっていく。玲奈は恐怖を感じ繋いでいる手を強く握った。


 暫くして、視界が元に戻っていく。

 玲奈が瞬きをし、元に戻ったことに安堵のため息を漏らしたころに違和感に気づく。

 先程握っていたはずの手が自分の手から無くなっていた。周りを見渡すが、その手の持ち主はその場からいなく、また不安に駆られた。

 不安のせいなのか心臓は速く脈打っているが、何とか自身を落ち着かせる。

 美紀がいなくなった衝撃で見えていなかったが、玲奈は今教室に立っていた。美紀が光に触れると記憶を見ることが出来るのだと言っていた事を思い出した。きっとそれなのだろう。と玲奈は思う。

 記憶を見ている間は自分で動くことが出来ないと言っていたのも本当のようだった。先程から扉の前に動こうとしているが足が固まったように動かず、机の前に立って鞄の中身を整理していた。

 玲奈が早く美紀の元へ戻りたいと思いだした頃、教室の扉がガラガラと音を立てて開く。扉の方を向くと、玲奈の幼馴染で友人である橘花蓮たちばなかれんが立っていた。その見知った顔に安堵する。

 「あれ、玲奈?今日早いね珍しいじゃん。」

 どしたの?と言って橘花蓮が近づいてくる。玲奈は「おはよう」返そうとしたが口が開かない。そして、自分の意思とは反した言葉が溢れる。

「別にいいじゃん。なんでも。」

 素っ気なく友達に言葉を吐いて、教室の窓から校門から正面玄関に向かう道を眺める。

 「あ!わかった!さてはあの子を探してるんでしょ。玲奈も好きだね〜!私はThe一軍って感じでちょっと怖いな」

 花蓮は玲奈の素っ気ない態度を気にもせず玲奈が探しているであろう人物について話し始めた。

 花蓮の言う一軍とは所謂スクールカーストの1番上に位置する人達のことらしい。普段大人しい玲奈や花蓮を分類するならば、おそらく二軍や三軍と言った呼び方をするのだろう。

 この記憶の玲奈か探している人物は、傍からみて釣り合いが取れていない地位にいるのだと容易に想像できる。

 「仕方ないでしょ、好きになっちゃったんだから。」

 玲奈は少し不貞腐れたような声色で反論した。それを聞いた花蓮は一瞬キョトンとしてすぐ破顔する。

 「安心して!親友の恋は全力で応援してるから!」

 花蓮はそう言いながら玲奈に抱きつき頭を撫でる。

 2人の笑い声が教室に響く。その光景は視界が段々と白く染まって消えていった。


 目が覚めると、先程と同じ白い部屋にいた。目の前に、心配そうに玲奈を見る美紀がいた。玲奈の目が覚めた事を確認すると、安堵した表情に変わり、玲奈を抱きしめる。

 「おかえり!美紀より目が覚めるの遅くてマジ心配したー!」

 そう言って美紀が笑うと玲奈も釣られて笑った。

 そうして暫くするとチリンと遠くで鈴の音が聞こえてきた。美紀と玲奈は顔を見合わせて「行こっか。」と言い合うと一緒に音のする方へ歩き始めた。光に向かって歩きながら、どんな記憶を見たかなどの会話をしながら。


 それから二人は何度か記憶を覗き、そして白い部屋を歩き続けた。そうして過ごしていくうちに、お互いの事について理解していく。

 記憶を見て情報を交換していくと、二人は同じ高校に通うクラスメイト同士であることを知り、同時にクラスではそれほど親しくなく、顔見知り程度だということも分かってくる。

「美紀たち、あんま話したことなかったんだね〜。こんな気ぃ合うのに!」

 笑顔を浮かべて話す美紀に玲奈はぎこちない笑みを返す。


 玲奈は美紀との会話で伝えていないことが2つある。1つ目は恐らく記憶を失う前の玲奈はクラスメイトの1人に恋をしていたということ。以前見た記憶にそう言った話が出てきた。その相手は玲奈自身にも想像すら出来なかった相手だが。

 そしてもう1つは教室の玲奈の机にゴミが散らかっていたということ。

 自分で汚してしまったのか、それともまた別の何かがあるのか、その時の玲奈には判断できなかった。優しい美紀の事だからその事を伝えてしまうと、怒ったり悲しんだりするだろう。その姿を見たくなかった。

 次の記憶を見れば理由が分かるかもしれない。きっと自分がドジをしたのだと、そうであって欲しいと玲奈は願っていた。

 しかし、頭の中に”いじめ”という言葉が離れてくれない。

 「ねぇ、玲奈大丈夫?疲れちゃった?」

 美紀が覗き込むようして玲奈を見る。玲奈は、はっとして顔を上げ慌てて返事をする。

 「大…丈夫。……ちょっと記憶整理しててっ!」

 「そっかぁ〜、美紀ちょっと黙ってた方がいい?」

 「ううん……!もう終わった…から……何の話だっけ……」

 多少言葉につまりながらも何とか話題を逸らす。休憩せずに歩くスピードを少し早めてでも、玲奈は早く次の記憶を見たいと思っていた。早く自分の中にある疑念を晴らしたかった。


 「この記憶見たらちょっと休憩しよ!美紀ちょっと疲れたし!」

 白い光の前で美紀が笑う。これが玲奈に対する気遣いであることは明らかだった。その優しさに玲奈は胸が温かくなる感覚を覚える。

 「うん……私もちょうど休憩したかった。」

 そう美紀に返して光に手を伸ばした。


 玲奈は目を開ける。

 どうやら、薄暗い部屋の床に倒れ込んでいた。倒れ込んでいる部屋は、学校の教室でも自分や誰かの家でもない、知らない場所だ。

 視界が揺れ、記憶の中の玲奈も何処か分からずキョロキョロと辺りを見渡しているようだった。


 暫くすると、玲奈は部屋のドアに向かって歩き出した。ドアを開けようとドアノブに触れる直前、ドアが開いた。

 驚き視線を上げると背の高い男性が3人ほど立っていた。

 「あれもう起きてんじゃん」

 「拓、お前ちゃんとしばっとけよ、逃げたらどうすんの?」

 「まーまー、ほら部屋に戻ろうね?」

 3人の男はケラケラと笑いながら、固まっている玲奈を部屋に戻そうとする。

 玲奈の脳内で警告音が鳴り響いている。

 これは駄目な奴だ、早く帰らないと。

 「……っあの、わっ……わたし、帰りま、す。」

 ないに等しい勇気を振り絞って玲奈は小さく声を出す。

 しかし近くにいた男の1人に玲奈の肩を強く押され玲奈は部屋へ戻された。3人の男も部屋に入り、部屋の鍵を閉める。鍵がかかるカチャリという音が部屋と玲奈の脳内に響き渡る。絶望という2文字が玲奈の頭を支配した。


 「――……!っ……!……玲奈!」

 体を強く揺さぶられ、自分の名前を呼ぶ声で玲奈は目を覚ます。

 目の端に涙を浮かべて酷く焦っている美紀が玲奈の肩を掴んでいた。玲奈が目を覚ましたのを見ると、玲奈に抱きついて「良かった……」と呟く。

 「美紀……」

 玲奈は美紀の名前を呼ぶと、そこに美紀がいる事に安堵して抱きしめ返した。

 先程見た記憶は悪夢だと思った。あの部屋では言葉にするのも、ましてや思い出すことすらしたくないものだった。何故自分が襲われなければならないのか、どうしてこんな状況になっているのか解決しない疑問が頭の中を渦巻いていた。実際には現実で起こったはずの出来事だから夢ではないのだが。今、目の前にいるのがあの男達ではなく美紀である事が救いだった。

 「玲奈、大丈夫?玲奈、美紀の目が覚めてからずっと隣でうなされてたんだよ。何かよくない記憶見たんでしょ?」

 玲奈の気分が落ち着くまで此処にいよう、と美紀は言うが、玲奈は一刻も早くこの記憶があった場所を立ち去りたかった。少しでも立ち止まれば、吐き気のするほどの気持ち悪さが、全身を覆うような不快感が、耐え難い苦痛が自分に襲いかかって来るのだと思わせた。

 「いい……大丈夫だから、先に進もう……。」

 きっと自分は死人のように青い顔をしているのだろうと玲奈は思う。困ったような顔をした美紀を余所に玲奈は次の音のなる方へ歩き出した。最初こそ制止していた美紀も玲奈の様子を見て黙って玲奈の後を追い始める。


 次の光まであと半分程だろうか。玲奈には、これまで歩いてきた道のどれよりもこの道のりが酷く長く感じた。それは先程見た記憶のせいだろうか、休まず歩いてきた疲労だろうか。それとも隣にいる美紀と会話をすることが出来ていないからだろうか。


 美紀はずっと何かを言いたそうに口を開いては閉じ、手を伸ばしては引っ込めるという動作を繰り返したが、1人で前を歩く玲奈に気づかれることはない。

 お互い気まづさを心に残したまま歩き続け、次の光が視界に入り玲奈が光に触れるまであと少しという距離まできた。

 「……玲奈!!」

 玲奈の名前を呼ぶ声と共にグッと後ろに体を引かれて玲奈はバランスを崩し床に倒れる。床に転ぶと思い咄嗟に目を瞑るが、暫くしても痛みを感じない。ゆっくりと目を開けると玲奈の下に美紀がいた。美紀クッションとなっていたようだった。

 「……っ!ご、ごめんっ美紀ちゃん」「玲奈っ!」

 玲奈が慌てて美紀から退こうと立ち上がろうとするが、美紀は力一杯抱きつき離そうとしない。玲奈が美紀の手を解こうと力を入れると、比例して美紀の抱きつく力も強くなる。その様子に玲奈はもっと混乱する。

 「玲奈、聞いて。玲奈は話したくないかもだけどちゃんと話し合おう。」

 今までとは違う美紀の真面目そうな声色に玲奈は美紀を離そうと入れていた力を緩める。

 「玲奈はきっと美紀にも言いたくないほど酷い記憶見たんでしょ?だから無理に記憶のこと話さなくていいよ。」

 玲奈は俯いて何も言わない。美紀には玲奈の後ろ姿しか見えずどんな表情をしているのかどんな事を考えているのか分からない。それが美紀にはこの部屋で体験した何よりも怖く苦しく感じた。美紀は玲奈にピッタリとくっつく。

 「美紀もねさっき嫌な記憶見たの。……っ学校で美紀が美紀の友達と玲奈の悪口言ってた記憶。」

 玲奈の体がピクリと動く。美紀は唇をぐっと唇を噛んだあとまた口を開く。

 「なんで玲奈の悪口言ってたかまでは分かんないけど、美紀達凄く酷いこと言ってた……。玲奈が見た記憶がどんなんなのか分かんないけど、きっと美紀関わってるよね。」

 美紀は玲奈に抱きつく力を緩めて体を離す。

 「ううん、関わってないとしても、玲奈に謝りたい。ほんとにごめんね。」「ちがっ!……うの……」

 美紀の謝罪に玲奈は慌てて振り返る。先程まで静かだった玲奈が急に動いたからか、美紀は目に涙を溜めたまま驚いたように目を見開いていた。美紀の様子に逆に玲奈が驚いてしまう。

 美紀は手で目を擦り涙を拭った後、玲奈に話を「続けて」と言うように玲奈を見つめる。

 「その……」

 先程の事を話そうとは思うが、どこから話せば良いか何を話せば伝わるのかという考えが、玲奈の頭の中をぐるぐると周り言葉に出来ずに黙り込んだ。

 ふと玲奈の手に美紀の手が重なる。そうしてギュッと握って美紀が玲奈に声をかけた。

 「大丈夫。ゆっくりでいいよ。話すのが難しいなら話さなくてもいいからね!」

 美紀が「急かしてないからね!」とあたふたとする。玲奈はそんな珍しい美紀の表情に毒気を抜かれる。先程まであった緊張感がなくなり玲奈は美紀の手を握り直して覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。

 「ううん……聞いて欲しい。」


 本当は、嫌な記憶は先程の記憶だけではなく前にも見ていたこと。机が汚されていて、いじめにあっていたかもしれないこと。知らない部屋に閉じ込められて複数人の男に襲われたこと。

 そして、その複数人の中に”拓”と呼ばれる人物がいた事。

 長い時間をかけて玲奈は自分が見てきた記憶を美紀に話した。

 「――だから美紀ちゃんが謝ることなんかないんだよ。」

 玲奈は言い終えると俯き気味だった顔を上げて美紀の様子を伺う。そこには玲奈とは逆に俯いたまま動かない美紀の姿があった。

 「……美紀ちゃん?」

 思わず声を掛けるが美紀はピクリとも反応を示さない。玲奈がどうしていいか分からず固まっていると、小さくカリカリと音が鳴っている事に気がついた。音の大きさから美紀の周りで鳴っているのは明白だった。玲奈が不審に思いながら、俯く美紀を覗き込む。

 「……っ!」

 美紀が自分の爪を噛み手を血だらけにしていた。玲奈が声を掛けても止まる様子はなく、目を開いたまま瞬きもせずにひたすらにカリカリと爪を噛み続けている。

 玲奈は思わず美紀の肩を掴んで強めに揺さぶる。

 「美紀ちゃん……!」

 大きな声で名前を呼ぶと、美紀は肩を跳ねさせ目を瞬かせた。

 「大丈夫……?」

 美紀は玲奈の心配そうな顔と、自分の血で汚れた手を交互に見て顔を顰める。はぁと溜息をついて、立ち上がる。

 「玲奈、記憶のこと話してくれてありがとう。それと……ごめん、ちょっと考えたい事あるから1人にしてほしい。」

 そう言って、玲奈から少し離れた場所に移動してまた座り込んだ。


 美紀は1人考える。玲奈が言っていた”いじめにあっていたかもしれない”と。美紀にはそれが”かもしれない”ではなく”いじめにあっていた”と断言することが出来る。なぜならいじめの主犯格は美紀自身なのだから。

 美紀は両膝を抱え腕の中に顔を埋め、唇を噛む。


 先程見た記憶の中の美紀は教室で2人ほどの仲の良い友達と一緒に登校していた。

 そして、何時もホームルームが始まるまで騒がしい教室が妙に静かで何事かと思えば、窓側の後ろの方に座る玲奈を見ながらクラスメイトが遠巻きに声を潜めて話しあっていた。

 異様な雰囲気を感じ、美紀はクラスメイトに事情を聞く。するとクラスメイトは美紀に対して気まずそうな表情をし、スマホを見せる。

 スマホの画面には1枚の写真と沢山の文字が書かれていた。これは所謂掲示板と呼ばれるものだ。

 美紀が画面を見ながら「?」を浮かべていると、スマホの持ち主であるクラスメイトが画像を拡大する。

 画像には何処か見覚えのある容姿をした男女が抱き合っている様子が映し出されていた。

 「……!」

 「これ、美紀の彼氏と青凪玲奈じゃないかって噂になってて。」

 クラスメイトは美紀の様子を伺うようにそう説明を加えた。

 「はっ……そんなはずないじゃん。拓だよ……?」

 美紀は自分の彼氏が浮気しているかもしれないと、額に冷や汗を滲ませる。しかも、その浮気相手が同じ学校のクラスメイトだと言うのだ。

 美紀は急いでスマホを手に取り、拓に電話をかけ居場所を聞く。

 あの画像はただ拓に似ている人なだけかもしれない。もしくは誰かの妬み嫉みから作られた合成なのかも。そう自分に言い訳をする。

 「拓……!拓!」

 姿が見え、美紀は思わず拓の名を呼ぶ。「落ち着け」と美紀に言った言葉を無視して、本題へ入る。

 「あの画像みた?!どういう事なの?!」

 説明して!と超えを荒らげる。

 お願いだからあの画像は拓じゃないと言って欲しい。他人の空似でも合成でもなんでもいいから否定して欲しい。そう祈る美紀の願いは拓から発せられた言葉により叶わなくなった。

 「ごめん美紀。急に抱きつかれて……直ぐに突き放したんだけど丁度写真に撮られてたみたいで。」

 申し訳なさそうな表情で歯切れ悪くそう美紀を見つめて告げた。

 美紀が大きなショックを受け言葉を返さず立ち尽くしていると、拓は美紀をぎゅっと抱き締め頭を撫でる。

 「心配かけてごめん。あの子とは本当に何も無かったよ、俺は美紀以外ありえないから。」

 そう言い宥める拓と暫く一緒にいた後、落ち着いた美紀は教室に戻る事にした。途中で先程聞いた内容を友達とのメッセージに共有する。美紀が「ちょっとムカつく」と言えば友達からは青凪玲奈に対する罵詈雑言がメッセージ内に書き込まれた。美紀はそれを見て何だか胸がすいたような気分になった。

 「青凪玲奈は1回痛い目見た方がいいんじゃない?」

 そう1人が発言する。それに多くの友達が便乗し肯定した。美紀自身にもやり返してもいいんじゃないかという気持ちがふつふつと沸いてくる。

 そこからの行動は早かった。人気のない教室に玲奈を呼び出して、4、5人で囲い逃げ場を無くした。

 「人の彼氏に手出してんじゃねぇよ!このビッチ!」

 パチンと大きな音が教室に響き渡る。頬を叩かれた玲奈は床に倒れ頬を押さえた。

 そうして顔色を真っ青に染めて今にも泣き出しそうに涙を浮かべ怯えきった表情で美紀を見上げた。


 美紀は先程の記憶で見た玲奈を思い出しより一層強く唇を噛む。

 美紀は酷く混乱する。何が本当で何が嘘なのか分からない。

 美紀には拓に襲われたという玲奈が嘘をついているようには思えなかったが、美紀自身の記憶の中では玲奈は拓を取ろうとした人物だ。

 写真も撮られていたし、何より拓がそう言っていた。しかし、苦しそうな玲奈を見て玲奈の言い分を否定することはできなかった。

 玲奈がうなされていなかったら、美紀は記憶の中の自分と同じように有無を言わさず玲奈を叩いていただろう。今にも死にそうな顔が、記憶の中の玲奈の怯えきった表情を思い起こさせ、玲奈に対して何も言えなかっ


 「……」

 「話し合おって言ったの美紀じゃん……。」

 美紀は俯いたまま、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 玲奈はまだ美紀がいじめの主犯で、直接手を出した記憶を見ていない。しかし、記憶をおっていく上で必ずそういった場面を見るだろう。その記憶を見る前に、まだ玲奈と話し合えるうちに玲奈に謝罪して、事の顛末を知ろう。

 そう考えた美紀は玲奈のすぐ側まで歩き出した。

 「ごめん玲奈……美紀もちゃんと話す。」

 美紀は玲奈と顔を合わせず、代わりに玲奈の手をぎゅっと握ってそう言った。玲奈の表情を見ると記憶の事を思い出して上手く話せなくなる気がしたから。


 「美紀は……、美紀がね、玲奈をいじめてたの。」

 その言葉を聞いても玲奈はピクリとも動かず、何も言ってこない。

 「酷いこと言っただけじゃない。玲奈を叩いてたりしてた。……ごめん。」

 美紀は「謝って許されることじゃないけど……。」と小さく呟く。

 美紀は、掲示板に書かれてあったこと、玲奈と拓の写真について、拓が言った言い分を信じ玲奈をいじめたこと、玲奈を叩いたことの記憶を話した。

 「本当はさ、拓が美紀に言った事が嘘だって思いたくない。……でも苦しんでた玲奈の話が嘘なわけないじゃん。」

 記憶について話し終わったあとに美紀は震える声でそう付け足した。

 「話してくれてありがとう、美紀ちゃんからしたらどっちかわかんないよね。仕方ないよ。」

 玲奈が美紀の体を寄せて抱きしめ、優しい声色で美紀を宥めるようにして言う。

 「美紀は、玲奈が嘘ついてても……っ拓に嘘つかれてても、どっちもやだよ……。」

 玲奈の肩にぽつぽつと雫が落ちる。美紀は声を上げるわけでもなく静かにすすり泣いた。暫く泣いた後、美紀は目元を擦って涙を拭きながら玲奈から離れた。

 「ごめん……美紀が泣いていい事じゃないのに……。」

 玲奈は「大丈夫」と声をかけて美紀の頬に残る涙をふく。

 「美紀ちゃん、次の記憶を見よう。何を信じるかは美紀ちゃんが記憶を見たあとで美紀ちゃんが決めて。」

 「うん……!」

 玲奈は美紀の手を引いて立ち上がり白い光に手を伸ばす。


 白い光に包まれる途中で玲奈は思い出す。自分の記憶の中で恋をしていた相手のこと。玲奈が恋をしていたのは目の前の彼女、黒崎美紀だ。

 記憶を見た直後はなぜ美紀が好きなのか全く分からなかった。しかし、今なら理解出来る。美紀の素直さと、誰でも受け入れ仲良くなれる明るさ。玲奈には持つことのできなかったもの、それを美紀は持っていた。始まりは憧れだったんだ。それが恋慕へと変わっただけ。

 好きになって、嫌われて失恋して、そしてまた好きになった。

 記憶を見た後に仲良くなったとしてもこの想いはきっと一生告げられないな。玲奈はそう思いながら視界が完全に白くなるのを待った。


 ピピピピ……。騒々しい音が響く。

 美紀は音を止めるために重たい瞼を開けた。目の前にはベージュ色の天井があった。

 「えっ……!?」

 思わずそう声に出して飛び起きる。目の前には自分好みの淡い暖色系等の色合いで統一された部屋がある。

 「玲奈〜?早く起きなさい、遅刻するわよ!」

 そう扉の向こうから声が聞こえる。

 「帰ってきたんだ……。」

 自分のベットをもふもふと触って呟く。

 あの白い空間の事は覚えている。記憶を失っていたことも、玲奈と2人ででさまよっていた事も、玲奈から聞かされた拓のことも。

 夢かもしれない、でも夢だとは思えない。

 「……」

 スマホを手に取り、電源を付ける。”拓”と書かれた画面から電話のマークをタップした。

 暫くコールが鳴り、スマホから「もしもし?」と眠たそうな声が聞こえた。

 「ねぇ、玲奈と拓ってほんとに何も無かったんだよね?」

 美紀は挨拶もせず本題を話し出す。拓が何も無かったと言うのは分かりきってる。だが、確認を取らずにはいられなかった。

 「何だよ、朝から。何も無かったって。俺の事信じてくれないの?」

 悲しそうな声をしながら言う拓に、美紀は体が冷えていくのを感じた。彼女として長い間一緒にいた美紀には分かる。悲しそうな声を出して同情を誘うような言い方の時は隠し事をしている時だ。

 「美紀、急にどうしたの?青凪さんに何か言われた?」

 また悲しそうな声。

 「玲奈が拓達に襲われたって言ってた。」

 「違うよ、前も言ったけど青凪さんからきたんだよ。俺ってそんなに信用ない?」

 これもだ。

 「わかった。ごめん朝から急に。」

 「ううん、大丈夫。美紀を不安にさせた俺が悪いから。じゃあ学校でね。」

 そう言って通話が終わる。

 美紀は大きなため息をつき、裏切られたような気分とはこういう事を言うんだなと1人寂しく思った。


 重い足を何とか動かして学校へ向かう。美紀はあの白い空間が夢でないことを祈りながら。白い空間を玲奈が覚えていますようにと願いながら、学校の校門を抜け玄関を通り教室の前まで移動する。

 長く息を吐いて、また吸って、覚悟を決めて教室に入る。

 まだあまり人は来ていないようで、数人がチラホラ席に座っていたり、数人で会話したりしていた。玲奈を探してみると、玲奈は机に突っ伏したまま寝ているようだった。

 「玲奈、起きて」

 玲奈に近ずき、体を揺らして起こす。

 「ん……、美紀ちゃん……。」

 ぼんやりとした眼を擦りながら玲奈が目を覚ます。数回瞬きをした後驚いたように目を見開いた。

 「あれ、えっ、学校……!?」

 玲奈が小さく、「帰ってきたの……」と呟いたのを美紀は聞き逃さなかった。

 「そう!帰ってきたんだよ玲奈!」

 そう言って美紀は嬉しそうに玲奈に抱きついた。

 玲奈に加えて、周りにいたクラスメイトがびっくりしたように美紀を見る。玲奈はクラスメイトの視線に気づいて「場所変えよう」と美紀に提案する。美紀は不思議そうにしながらも、玲奈の言う通り場所を変えた。


 「あれ、夢じゃなかったんだね……。」

 人気のない廊下について、玲奈は美紀にそう言った。

 「みたいだね、でも美紀はちょっと嬉しいよ。玲奈と一緒にいれたから。」

 「拓のことは悲しいけどね」と困ったように玲奈に笑いかける。

 「私も美紀ちゃんとちゃんとお話出来て良かった。」

 しんみりとした空気が漂う。唐突に美紀が玲奈の手を取り目を見つめた。

 「玲奈に酷いこと沢山しちゃってごめんなさい!……でも、美紀、玲奈と友達になりたい……です。」

 玲奈を握る手がぐっと強くなる。一生懸命にそう伝える美紀を見て、玲奈は小さく笑う。

 「もう友達でしょ?」

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蒼猫 @aiiro_4685

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