屋上から見える電車に乗って

@dis-no1

第1話

 重い鉄の扉を開けて屋上に出ると、空と、ちぎれちぎれに浮かぶ雲が見えた。


遠くをカラスが一羽飛び去り、やがて水色の中に溶けてゆく。ゆっくり息を吸い込んでみると、5月のはじめらしい草の香りがした。屋上に続く階段の空気は、人があまり通らないせいか埃っぽい。だからこうして陽光を浴びながら深呼吸してみると、余計に開放感があった。遮るもののない空を見上げるのは、それだけで何だか清々しい。暖かすぎず、寒すぎず。すっかり春だ。


 扉の3桁しかないダイヤル式南京錠は、やはり安物なのか、コツをつかめば簡単に開けられた。正解の番号に合わせたときと間違えているときとで、微妙に感覚が違うのだ。先生たちは気づいていないのだろうか。いやそもそも、こんなところに出入りしている人なんて誰もいないのだろう。だって日に晒され続けてすっかり色あせた貯水タンク以外、何もない場所だ。物置でもあるのかと思っていたが、考えてみれば校舎のてっぺんにそんなものがあっても不便だ。せいぜい水道業者が点検で立ち入るくらいなのかもしれない。


 万が一内側から閉められたら困るので、南京錠はポケットに入れておいた。だから扉の前を誰かが通ったらすぐにバレる。とはいえ屋上への扉は、用事がなければ誰も通らないような校舎の端。昼でも薄暗い。七不思議でもありそうな階段を上った先にある。最悪、バレたってかまいやしない。


 この中学校は周りより高い土地に建っていて、正門から校舎までに傾斜のきつい上り坂がある。陸上部が全力で走っても10秒はかかる長さで、特に夏場の登校時はたまったもんじゃない。なんでこんなところに学校を建てたんだろう。だがそのぶん、屋上からの眺めは予想以上だった。


 校庭から見えてしまわないよう、子供のようなしゃがみ歩きで金網に近付いてみる。ひし形を大量に組み合わせたようなどこにでもある金網は、屋上を隙間なく覆っている。高さはゆうに2メートル半。しかも上で内側に折り返してある。転落やよじ登りの防止だろう。だがあちこち茶色く錆びており、見るからに老朽化している。つまづいて手をつきでもしたら、そのまま金網ごと落ちてしまうんじゃないか。そう思うと、少しだけ怖くなった。


 正門の前を走る車道を見下ろしてみると、大型のトラックや市バス、乗用車がひっきりなしに走っていく。昼前の時間帯でも交通量は少なくない。


 少し遠くに目をやると、駅が見えた。この地域の最寄り駅。そう。これが見たかったのだ。このあたり一体の足になっているローカル線。東舟戸駅。ひがしふなとえき通称ヒガフナ。高架上に作られたホームに、ちょうど電車が入っていくところだ。どれくらい客がいるんだろう。平日の真昼間、太陽が一番高くなるこの時間、人はみな学校や会社にいるはずだ。だから今あの電車に乗っている人は、そういうものに縛られずに生きている、自由な人たちなんだろうか。自分も、こんな時間の電車に乗れる日が、いつかやってくるんだろうか。


 中学2年、義務教育を受け続けること8年余。自分はもう大人だ、なんて言うつもりはない。けれど昨日と何が違うのかわからない今日や明日には、すっかり飽きた。未来がどうなるかなんて知らない。だがこの先少なくとも数年間は、昨日までと同じことを繰り返すんだろう。それが嫌だった。学校そのものじゃない。何も変わらないと分かっている毎日に耐えられない。


 あの電車に乗って、ほんの一駅でも進んでみたい。そこには自分の知らない世界が広がっているんじゃないか。そんな気がしてならない。あの駅が、この果てしなく長い、鎖みたいな毎日の出口に思えるのだ。だからこうして眺めているだけで、何だか心が飛んでいくような気がした。思わず苦笑する。まるで、おとぎ話にでてくる深窓の令嬢じゃないか。高い塀の向こうには街がある。そこでは貧しいけれど元気な子供たちが今日も走り回り、商人たちの活気ある声が飛び交っているのだ。素敵な出会いなんかもあったりなかったりするのだ。


「はぁ…」


 誰もいないのを良いことに、大げさに声を出して溜息をついてみる。わかってる。くだらない妄想だ。たぶん、一駅進んだ程度ではそんな素敵な世界にはたどり着けない。自分でもわかっている。それでも、憧れずにはいられなかった。


 このまま寝転がって、昼寝でもしてしまおうか。起きられないかもしれない。さすがに5時間目が始まっても教室にいなければ、保健室に確認が入るだろう。そうなったらまずい。しこたま怒られるに違いない。でもなんで、屋上は立入禁止なんだろう。人目につかない場所だからか。確かに、自分のような後ろめたいことをやっている人間にはうってつけのスポットだ。自由に出入りできら、不良生徒の温床になるかもしれない。


 まずい、本当に眠くなってきた。いいや。寝てしまえ。怒られたら謝ればいいのだ。逮捕されるわけでもあるまい。こんなに気持ちいいのだ。眠らないともったいない気すらしてきた。頭の後ろで手を組んで寝転がってみる。コンクリートは昼寝するには硬すぎる。でも太陽に温められていて気持ちよかった。おやすみ世界。あぁ、目が覚めたら異世界だったりしないかな……


 すっかりリラックスしてたから、扉を開ける音が聞こえてきたときは、飛び上がるほど驚いた。





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