扉を開けると、そこにはおっぱいがあった。

八針来夏【肥満令嬢】出版決定です!

前編『僕』

 自分の部屋の扉を開けると、そこにはおっぱいがあった。

 おっぱいは豊満であった、素直にそう思う。

 それこそグラビアアイドルとして雑誌の表表紙を飾っても遜色はないだろう。

 そのくせ、おっぱいの大きさは人並み以上なのに、細く引き締まったお腹。まるで蜂を思わせるようにくびれている。絵に描いたようなぼんきゅっぼん。

 であるのだけど――その豊満な胸を男性用のブラウスに押し込んでいる。

 マニッシュな格好もここまで来ると目の毒だ。男の格好の癖に、内側からブラウスを押し上げるふくらみのせいで服をとめるボタンが悲鳴をあげている。むしろ女性の格好をするよりも男性の格好をするほうがより一層女『性』を際立たせる効果があることを、僕は自分の身を走る熱情で知った。

 隙間から僅かに覗くのは肌色。見慣れた色であるのに、それがおっぱいの大きさに圧迫されたブラウスの隙間から見えているとなると青少年の煩悩を掻き立てずにはいられない。まるで自分の両目が高性能の双眼鏡めいているかのようにおっぱいに集中していた。

 

 そうして数秒ほど……おっぱいをガン見していた僕は――そういえばおっぱいには人間が付き物であることを思い出す。

 我ながら、まるで人間をおっぱいの付属物のように見ていたような失礼な表現だと思ったが、青少年なので許してほしい。


「…………」


 震える唇。真っ赤に紅潮した顔。整った耳目。友人だと思っていた相手。何事もそつなくこなす万能の天才のこんな表情は初めて見る。

 羞恥によるものか、唇はひん曲がって波うち、端が笑みに吊り上がっている。恥ずかしさが限界を超えてどんな表情をすればいいのかよくわからないのだろう。

 握りしめた拳が震えている。僕に制裁を加えるためだ。そんな怒った表情でさえ美しいと思える。揺れる瞳を可愛いと思ってしまう。

 昔捨てたはずの慕情が、水を得た植物のようにまた蘇っていくのを感じる。


(あ、ヤバい)


 今まで友人の、中性的なイケメン野郎と思い込んでいた自分が節穴だと思い知る。

 こう云うとなんだが……僕は今胸のあたりが激しくどきりと震えた。


「な……な、んで」


 扉を開けた事を怒っているのだろう。

 しかし弁解が許されるなら、僕は携帯電話に連絡を伝え、メールを送ったが返事がなく。

 部屋の前でノックをして、声を掛け、それでも返事がなくてなんとなしに鍵のかかってないドアノブをまわしたらおっぱいに遭遇しただけである。

 僕は悪くない。

 そう自己弁護するべきところなんだけど――舌が喉に張り付いたように動かない。


 僕は扉を閉めて逃げ出した。


「お、おい! なんでキミが泣きそうなんだ!! 見られて死にそうなぐらい恥ずかしいのはボクのほうなんだぞ!」

「うっせー!!」


 アイツの――今から思えばどうして気づかないのか、男にしては高い声を背中に受けながら走る。

 決しておっぱいをガン見していた失礼を咎められたかったのではない。

 胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻く気持ちに整理がつかなかったのだ。

 体を駆け上がる理不尽な怒りをぶちまけたくなかったのだ。





 そうだ。君は最初、タダの友人だった。

 容姿端麗、才色兼備。唯一欠点があるとするなら孤独を好み、他者と交わろうとはしないところ。

 僕の見立てではアレはコミュ障の類であると気づいたので積極的に話しかけるようにした。

 なぜ分かったのか? あんな風に、時折寂しげに同級生へ視線を投げかけておきながら、なにをいまさら。

 善人ぶった訳ではない。君は多分将来はもっと偉くなりそうだったし、学生時代に上に行きそうな奴とコネを作っておくことは後々特になるかもしれないと思ったからだ。

 

 最初に好きになったのは笑顔。

 実際に君と話をしてみると、普通の男子高校生なら常識としているだろう事柄に意外なまでに疎かった。

 自分より遙か上に存在する相手が、自分に感動と驚きの眼差しを向けていると……なんだか自分の存在まで偉くなったような錯覚が心地よく、何かとつるむ事が多くなっていったよな?

 感心と感動の入り混じった裏表のない笑顔。欲得と打算交じりに近づいた自分に向けるには相応しくない表情。

 気づけば僕は君と会話をする事自体を楽しんでいた。

 

 次に好きになったのはうなじと鎖骨だった。

 友人としての付き合いが増し、つるむ事も多くなったある日に君のうなじの形と鎖骨に言いようもない色気を感じてしまった。

 この辺りで僕は自分の中で君の存在が大きくなる事を自覚する。

 君は友人なのに。

 友達であるはずなのに……僕は君に、色気を感じてしまった。体の中でむくり、と鎌首を擡げる獣性を自覚してしまったのだ。


 最後に好きになったのは声。

 君の男性としては高めの声を聞くと、まるでパブロフの犬よろしく僕の心は自然と沸き立った。

 

 自分が同性愛者であったのか? と思った事に驚きはあったが、同時に納得もあった。

 しかし男性の友人Kくん(暑苦しいマッチョ体型だが魂がイケメン)に対して『すまない、一度ハグさせてくれ』と申し出をし、極めて怪訝そうな顔をされながらも札束で頬を叩く事で言う事を聞いてもらい、他の男子を抱き締めてみた。


 ときめきはなかった。君限定で僕は同性愛者であるのだと納得する。

 女性が良く言う『ただしイケメンに限る』という言葉の意味を知った。僕は君にしか欲情できない特殊なタイプの同性愛者なんだろう。

 

 けれども、君に告白する気はなかった。

 同性愛者が悪い訳じゃないのだが、残念ながら未だにマイノリティ。

 世間からは白眼視される事が多い。色々と偉くなって安楽な人生を送りたい僕としては避けたい評価だった。

 


 ……いや、違う。

 自分の気持ちを誤魔化すのはよそう。

 そんな長期的な人生設計の上でリスクが大きいから、自覚した恋を諦めようとした訳じゃない。


 僕は一度、それとなく君に話題を振ったよな?

 その時君は確かに答えた。


『異性が好き』と。

 

 僕は、当たり前じゃないか、当たり前じゃないか、と自分自身に言い聞かせながらも、どうしようもなく落胆していた。


 つまるところ、僕は君に胸の内を打ち明けて『気持ち悪い』と嫌われることが何より恐ろしかったのだ。

 僕は結局この胸の内に生まれた恋心を誰にも打ち明けることはなく。

 告白もせず、自分で恋心を葬り去り、心の中で恋情がぐずぐずと腐っていくのを知りながら――距離を置くことに決めたのだ。


 失恋に対する最良の処方箋は時間しかない。

 膿んだ傷口を疼かせる君から距離を置く事に決めると僕の行動は早かった。


 会う度に唇の奥底から恋情が喉を突き破って溢れそうになる。

 それを顎で噛み潰し、掌で蓋をして余計な事を言うなと自分自身の心に言い聞かせる。

 転校の手続きは誰にも知られないように内密に手配した。


『……どういう事だい?』


 それなのに……どういう訳か、秘密裏に事を進めていた転校の準備を聞きつけた君が僕を睨んでいる。


『なぜ一言も相談しない。ボクはキミの友達じゃないのか』

『うるさい』


 友達。

 そう、友達だ。

 だけれども君の傍にいれば『友達』のままでは我慢ができなくなっていく。

 だけれども気持ちを伝えれば、きっと『友達』よりも遠い関係になるだろう。


『君に関係ないだろう』


 自分でもゾッとするような、冷たく突き放した言葉。傷ついたような顔をする君。

 違う。

 そうじゃない。

 本当はそんな事を言いたいんじゃない!!

 好きなんだ! 最初は利用価値がありそうだと思ったから近づいたけど、今じゃ君の事が頭の中を締めているんだ!

 どうして僕はこんな事を言ってるんだ?! 君の事を傷つけたい訳じゃないのに、どうしてこんな事を言わなきゃいけないんだ!?

 気持ちを伝えてはいけない。伝えたらきっと嫌われる。なのに、どうして嫌われるような事を言っている?! 


 なんだこれ、ひどい! 本心を伝えれば嫌われ、嘘をついても嫌われる!

 どこをどうしたってこの恋が適う可能性がない!

 



 これはいったいなんの地獄なんだ!!




 あの時は君から離れたくて、逃げるようにその場を後にした。

 今もまた逃げるようにその場を後にしている。

 なんだそれ、なんだそれ。ふざけるな。


『扉を開けたらおっぱいがあった』


 その一文だけ切り取ればほのかにエロス漂う一文だが、僕からすれば『騙された』という気持ちで一杯になる。

 

 我慢していたのに。

 きっと嫌われると思って口を閉じて、恋心を葬り去って。

 時間を置けばきっと忘れることができるのだと自分自身に言い聞かせようとしたのに。

 

 なんだそれ、なんだそれ。ふざけるな。


 馬鹿みたいじゃないか。

 自覚した恋心を封じ込めて。鍵をかけて。

 辛い気持ちを背負い込んだまま、時間が解決するのを待とうと思ったのに。


 君におっぱいがあったなんて!


 じゃあ、僕は一体なんだ!

『嫌われる事を恐れず告白すれば実は男女同士でちょうどよかった』なんて訳知り顔で呟かないで欲しい……! そんなのは事情の全てを知った神の視座からの発言だ!

 十代の男子が好きな人に嫌われる事がどれだけ恐ろしいのか知らないのだろう。僕は君から嫌われるのが何より恐ろしかった。

 関係の決定的な破局を迎えるより……友人として、また君の前に立てる日が来ればよかったんだ。

 そんな恋もあったね、と遠いいつか、ただの傷跡になった恋を思い出して、笑い話にできればよかったのに。


  

「はぁ……はぁ、はっ!」


 荒々しく息を突き、ここはどこだったか、きちんと追跡を巻いたのかと思いながら周囲を見回せば――君がいた。


「こら、待てぇぇえぇぇぇ!」

「えええぇぇぇぇ?!」


 もはやブラウスで胸元を隠すという事さえ忘れてか、豪快におっぱいを揺らしながら、某暗殺ゲームの登場人物のように本来人が通るべきではない場所を走り抜けてくる。君の位置は上。唐突な状況に僕は君の姿に視線を奪われながらバカのように口を開き。

 空中から身を乗り出した君に僕は逃げることを忘れて、庇おうと思って飛び込んだ。


「むぎゅっ!?」

「ぐえっ!」 


 僕と君が折り重なる。下が僕で、君が上から圧し掛かるような姿勢。

 自ら進んでクッションになった僕だったが、しかし君の体は想像していたよりずっと軽くて柔らかかった。

 くそ。くそ。心臓がバクバクと早鐘の如く鳴り響いているのは、君の身を襲った危機に対する恐怖もあったろうけど、密やかに恋慕していた相手を両手で掻き抱く事への興奮もあった。なんて簡単なんだ、僕は。

 

「あちち……す、すまない」

「いえ、ありがとうございます!!」

「……なんでキミはお礼を言うんだい?!」


 違うんです違うんです!

 君が身を引いて遠のく幸せな感触。

 そして今も目と鼻の先にあるふくらみ二つ。身じろぎ一つで触れそうな至近距離の双球を目の前にして、蛇に睨まれた蛙のように動けない。顔が赤いのを自覚しながら僕は視線を逸らす。

 うわぁ、めっちゃ触りたい――そんな気持ちがある事を否定する事はできない、おとこのこだもん。

 だけれど、僕は君との関係を壊したくなくて、自ら遠いところに赴こうとした事もある男だ。君に嫌われる事は何より怖いから、手を出すなんて事はしない。


 なのに、わぁちくしょう!

 僕の股間の紳士が! ビーストフォームへと変形しようとしている!!

 おちつけー、おちつけー。

 心の中で念仏を唱えつつ、昔札束で頬を叩いて抱き締めた同級生のKくんのむさ苦しい胸板の厚さと汗臭さを思い出して萎えさせようと努力する。

 

「さ……触りたいのかい?」


 はい!!!!!!!!!!!!!!!!

 と心が脊椎反射でエクスラメーションマーク全開に叫んだ。口にしなかったことを褒めてほしい。

 僕は慌てて答える。


「いや、そうじゃない。なんだその台詞。もうちょっと自分を大事にしたらどうなんだ」


 僕は身を引く。ちょっと後ろに逃げる。

 なぜならさっきの台詞を引き金にまた僕の股間がビーストフォームへとチェンジしようとしていたのだ。


「キミの言っている言葉の意味が分からない」

「なんで近づくんだ!」

 

 だけれども君は不可解そうに首を傾げて僕が一歩下がった間隔を詰めるようににじり寄る。

 また至近距離におっぱい! なんだこれ! 僕の自制心を試すテストか? それとも目の前にぶら下げられた人参を我慢させる新手の拷問か?! ちくしょう、だれか助けてくれ! 君はどうして……なんだか楽しそうに僕を見下ろしているんだ!

 

「ねぇ、キミ。とりあえず落ち着きたまえ。お互い言いたい事も山ほどあるだろう」

「そうだ……そうだ!」


 僕はとにかく……とにかく羞恥で真っ赤になりそうになり、慌てふためく心臓を宥めながら自分を鼓舞するように叫んだ。

 興奮じゃない。きっと興奮じゃない――以前君が言っていた『異性が好き』という言葉が頭の中にリフレインしている。

 あれがもし、巧妙な嘘だったなら。

『異性が好き』という言葉は嘘を混ぜてはいないが真実の全てを語っていなかったなら。

 君が好きだという言葉が、普通の異性愛者であったなら。

 


 僕の恋が適う目があるのでは、と期待をしてしまっている。



 努めて冷静になろうとしながら、僕は君の後を付いて……先ほど逃げ出した自分の部屋へと戻るのだった。

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