殻の中

中川瑚太郎

知る迷う

望むものが手に入らない、又は手に入れていても気が付かないなんてよくあることだろう。

僕は愛情が欲しかった。通じ合う関係が欲しかった。憧れている理想は手に入らない。イデア論なんて持ち出さずともわかる事だ。

他人の感情を知りたい。他人の感情に引き摺られていたい。誰かと居ないと心が動く感覚が分からなかった。誰かを知ってしまったから1人で過ごすことが虚しくなった。

誰でもいいから話したいと思うことがあった。誰かと話すことは楽しいから。けれど、僕は話していて楽しい人と話したいだけだった。話しを聞いてくれる人は誰でも良くなかった。そこに卑しさを感じてしまった。

心が動かないような感覚になるのが嫌だ。締め付けられるような感覚が無いと怖い。心が無いような気がして怖い。本当にそう思っているのか疑い始めてしまって怖い。自分も他人も怖い。信じているだなんてあまり言いたくない。痛みが無いと怖い。痛みがあっても怖い。

胸が締め付けられるように、首が真綿で絞められているように、少しだけ苦しかった。でも、その感覚や感情を実感出来る苦しみは好きだった。誰かを好きになる時に訪れるそれが好きだった。

声に愛おしさを感じて、所作に美しさを覚える。なんでもない会話の節々に幸せを叫びたくなる。四六時中その人を考え、無性に行動が気になる。幾つかの自覚症状は僕の頭をじわじわと支配していく。

西日が一日の務めを終える頃に、彼女は芥川の地獄変を静かに捲っていた。会話は無いが、居心地の良さを勝手に感じている。

「君は本を読まないの」

何時の間にか本を閉じていた彼女は、呟いた。

「読むよ。坂口安吾とか」

手元の携帯を彼女の方へ向ける。桜の木の満開の下を丁度開いていた。

「わざわざ図書館に来てるのに、電子なんだ」

頬杖をついて、少し呆れたように笑う。そして、手元の本をパラパラと弄びながら彼女は続けた。

「せっかくなら、この心地いい音を楽しめばいいのに。なんのために来たんだかって感じじゃない」

僕は本を読む以外の邪な理由も持ち合わせていた。ただ、そんなこと口が裂けても言えない。軽口のように、君と話したかったからなんて。

「居心地がいいから来てる。捲る音は自分が紙の本を読まずとも聞こえてくるし」

嘘は言っていない。だが、本質でもない。本当に言いたい事を隠したところで、得もないし傷つくことも無い。自分を守ることを優先した言葉だ。

「居心地が良いことには私も同意だな。雰囲気も、香りも、全てが私を癒してくれるし」

彼女は天井を見ていた。穴の空いた、吸音目的のよくある天井だった。学校じゃよく見る、数えても無意味なアレだ。

「君は、いつも色々な本を読んでいるよね。君を書に駆り立てる動機は何?」

見てて気になることを問う。僕も本を読むが、彼女はそれ以上に読んでいる。何時来てもここに居るし、何度来ても様々な本を捲っている。

「知らないことへの好奇心。なんてね」

そう言ってはにかむ。少し照れたような顔に思わず好意を漏らしそうになる。好きと言ってしまいたくなる。

「知らないこと知れると、なんか嬉しいよな」

生返事が出てしまった。見惚れるような表情を見過ぎていたからだ。

「知らない方がいい事もあるけどね」

そう言って彼女は悪戯に笑った。くしゃくしゃの紙をひとつ、僕の額に勢いよくぶつけながら、

「私は帰るよ。これ、捨てておいてね」

それだけ言い残してサッと図書館を去った。西日はすっかり沈みかけ、代わりに闇が現れている。投げつけられた紙を掴み、おもむろに広げてみる。気がつけば良し、気が付かなくとも良しの古典的なメッセージを期待していた。受け身な自分に嫌気がさす。

「理由は分からないけれど、私と話したいって目線は何となく察してる。話したいなら自分で話しかけに来なさいな」

なんて文字が書かれてなければ、きっと僕はこれからも話しかけていなかったんだろう。

「あの子らしいよな」

そう思いながら、ゴミ箱に紙を投げる。これが入ったら次は話しかけよう。そう考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殻の中 中川瑚太郎 @shigurekawa5648

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る