第4話
現存する病棟の中で最も古い第四病棟は老朽化が激しく、現在はほとんど使われていない。
換気フィルターを作動させても、くぐもった消毒の香りは拭えず、手術台の上には薄い埃の膜がかかっていた。
手術台へ老人を乗せ、メスやハサミの乗ったトレーを見た和博は耐えきれなくなった。
「……幼いころ、夜逃げしたことがあるんだ」
円華はゴム手袋を渡し、目で相槌を打つ。
「それも、一度や二度じゃ無い。私の父はギャンブル好きでね、借金を作り、よく家には借金取りが来た。それが原因で、何度か夜逃げをしたこともある。夜逃げというのは、本当に陰惨な気持ちになる。両親の顔が固くひきつって、周りの人間がすべて敵に見える。真夜中だから、人通りはない。しかし時たま、向かいから人が、車がやって来るのが見える。その瞬間、それが借金取りではないかと震え固まるんだ」
エレベーターで見たあの光景が、その記憶を呼び起こしたのだった。
「別の家に越してきても同じさ。いつかはこの場所も離れなければならなくなる。私は嫌なんだ、何かに怯えて、不安を抱えて生きていくのが。私は、私はずっと、ずっと安寧だけを求めているのに」
「じゃあ、さっさと片付けて、家に帰ることね」
円華はドアを施錠し、振り返って言った。
煙草に対する猛烈な欲求が起こったが、和博はそれを耐え、脳内で明日のことを考えた。
明日は休みを取ってもいいかもしれない。すべてを万事うまく終え、数時間後には自宅で熱いシャワーを浴びている。ぐっすり眠れるベッドのことを超然と考え続けた。
麻酔を打ち終えると、縫合痕をゆっくりなぞるように、開腹した。傷口は既に接合し始めていたが、鋭いメスはバターを切るかのように、人体へ滑り込んでいった。
開創した腹部を和博は寸秒見つめた。がま口のごとく開いた老人の腹部は無影灯に照らされてもまだ、暗く深い。この中にメスが転がり落ちたとすれば、創部の直下ないし、その周辺に転がっているのではないか。だが、もしそこにメスがなければ? 不意にそんな幻想が頭に浮かぶ。ここに至って、果たして本当にメスが取り忘れられることなどありえるのだろうかと思った。
ゆっくりと指を創部に差し入れ、ぐっと押し開いた。赤々とした臓器と肉が無影灯に照らされ、ぬめぬめと輝いている。一見では、何も見たらなかった。力を強くし、より大きな範囲を確認してみたが何もなかった。
心臓が詰まるような吐き気を覚え、顔に塗りたくられた不安を払拭できないまま顔をあげて円華を見た。
「な、い……」
円華は数度瞬きをして、眉間を寄せた後自分の額をトントンと手で叩いた。
頭を使えという事か? 和博も自らの額を触った時、自分の掌に走る光の筋を見た。それは何かが明かりを反射した光であった。
光の筋を拳に捉えたまま、慎重に創部へ落とし、光源を浚った。肉と肉との間で、深く沈んだメスが無影灯を反射していた。
円華に視線を送ると、彼女は少しだけ笑った。
おもむろに鉗子を差し込み、先端部でメスの根元を掴む。開腹用のメスは異様なまでの切れ味を持っている。手元が少しでも狂い、臓器へ触れでもすれば、それだけで出血を促しかねない。神経の一つ一つ、筋肉の繊維の一本までコントロールしながらメスを引き出している手元に、玉のような汗が湧き出る。
もし、過度の出血があれば止血する用意はあるのだろうか。そんなことを思った時、
「あなたが、平穏を求めてるっていうの、私嘘だと思う」
円華が言った。
「あなたはわざわざリスクの高い、外科医になった。なぜ? 答えは簡単そこにスリルがあるから」
彼女の言葉はクリアに聞こえた。極度に緊張した脳みそはそれを雑音だとは認識しなかった。
「悪いが、それは間違いだ。私が外科医を志したのは、大学時代の―」
「じゃあ、私と寝てくれたのも間違い?」
鉗子を握る手にグッと力がこもった。今自分が何をしているのか、ほんの寸秒忘れかけた。
「あれは……成り行きだった。あの時は、妻が妊娠して、日常にひと肌がなかったんだ。溜まった欲求を吐き出す先を求めていただけだ」
「ありがちな言い訳。でも、私にはそうは思えない。あなたは奥さんの妊娠という絶対的な平穏を手にしたことで、それを棄ててしまいかねない賭けを楽しんでいたんじゃないの?」
円華と関係があったのはほんの二か月程度。それも、自分からではなく偶々帰宅途中に出会った彼女から声をかけてきたのが始まりだった。それは気の迷いだ。関係を断ったのも、出産と我が子の誕生に対して、冷静になったからだ。決してスリルを求めていたわけではない。
「何を根拠にそんなことを、」
鉗子に掴まれたメスがずるずると肉の間から這いずりだしてくる。血塗られたメスは本来の銀の上に薄い赤黒い膜を纏い、不気味に照り輝いていた。
「夜逃げの話。素敵じゃない?あなたにはその頃のスリルが体に染みついているのよ。理性では安寧を渇望していても、本心はスリルを求めてる。平穏が平穏であればこそ、あなたはそれをベットする賭けに参加したくてしょうがないのよ」
言い返すだけの言葉が出なかった。
「正直、こんな仕事いつ辞めたってかまわない。でも、私にはそれが出来ない。あなたと同じで、スリルを感じないと生きていけない人間なの」
そこで、ハッと気づかされたように和博は円華の方を見た。彼女ははっきりとした笑みを浮かべていた。
「まさか、まさか……これは、今夜の事態はすべて君の自作自演ッ!?」
叫ばざるをえなかったのは、彼女の言葉通りこの緊迫した状況に甘美な陶酔を覚えている自分がどこかにいたからだった。その拍子に今まで保っていた集中は一瞬にして途切れ、込めていた力が途端に弛緩した。
しまった、そう思った時には既に、鉗子から転がり落ちたメスがざっくりと臓器を切りつけていた。溢れ出る鮮血のせいで傷口が見えなかった。バイタルサインが悲鳴のような電子音を上げ、心拍数が急激に下がっている。
性急な事態に対して、和博の動きは俊敏だった。もはや何のためらいもなく、メスを鉗子で抜き取ると、乱暴に投げ捨てた。
「止血ッ!止血の用意だッ!」
通常、こういった傷口は電気メスで焼き付けて止血する。しかし、円華はその用意をしていなかった。故意か事故か、楽し気な笑みを浮かべる円華と止めどない流血に考えている余裕はなかった。
傷口の血を素手で拭い、冷静な思考に戻ろうと何度も深呼吸をした。
煙草が吸いたい― 和博の頭に浮かんだのはただそれだけ。妙案などまるでなく、自然とその手がポケットに伸びた。煙草を探ったはずの指先が、硬く冷たい何かに触れた。
名札だった。銀製の名札。
和博は続けて安物のライターを取り出す。そのわずかな間にも、名札は体温でじわりと温まっている。
和博はライターで名札を炙ると、迷うことなく傷口へ押し当てた。蒸気が上がり、くすんだ鉄の香りが鼻をかすめる。傷口は軽いやけどを残してはいたが、出血は止まっていた。
縫合を終えると、全身の力が抜け、重力のなすがままにその場に座り込んだ。
いつの間にか、全身に汗をかていた。血だらけの手はまだ震えており、病的な呼吸が体中を鼓動させていた。
「ドキドキしたでしょ?」
紙コップに水を入れて持ってきた円華にろくに返答出来ないほど、喘鳴は酷かった。数回に分けて水を飲み干し、首を振って意思表示をした。
「もう、もう勘弁だ……なにがスリルだ。何が、ドキドキしただ、くそったれ、くそったれだ、こんなもの………」
ひとしきり、思いつく限りの罵倒を吐き出てから、彼は思い出したように煙草を取り出し、火を点けた。
「私もちょうだい」
円華が傍にしゃがみ込んで言った。それから、無言のまま、二人で煙草を吸った。煙草が無くなる迄、二人でずっと吸い続けた。
つづく
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