第2話
服部病院は県下でも一二を争う規模の大病院だった。市街を渡る河川を挟んで並んだ、計4棟の建物がそれだ。
戦後のバブル直前に建てられたこれらの病棟はどれも老朽化が激しく、一号棟から三号棟までは既に建て替えが行われ、見違えるほど清潔で新しい建物になっている。そんな中、件の四号棟だけは、未だその陰鬱な雰囲気を纏ったまま、闇の中に鎮座していた。
第四病棟は、酷く静まり返り、遺体を引き渡す北搬出口は火災報知器の赤いランプによって、真っ赤に照らしだされていた。
そんな赤い光の中に岸原 円華は立っていた。カーディガンに黒いストッキング。三十五歳という年齢を感じさせない容姿。童顔であるからではなく、彫刻したように整った容姿がある年齢から老けるのをやめてしまうからだろう。目線や態度は触れるもの全てを傷つけてしまう危うさと、その切っ先が放つ名状しがたい魅惑を兼ね備えている。その魅惑に絡めとられ、彼女に近づいた男性は誰しもが、その華奢な体からは想像もできない若々しさと力強いイメージにたじろぐ。
和博は彼女が好きではなかった。
「ちゃんと、来てくれる」
通りの向こうから和博がやって来ると、円華は腕を組んだままそう言った。彼女の顔は少し微笑み、なにかよからぬ含みを持っていた。
「何の用だ」
「ねぇ、私たちってすこし込み入った関係って感じがしない?」
目線が刃物となって、和博の前へ突き付けられた。
「何が言いたい?」
「詳しくは中で、」
有無を言わさず、彼女は搬出口のドアを開け、中へ入って行く。
病棟を進み、連絡通路から二号棟へ渡る。夜の病院はまるで、壁が全ての音を吸収してしまったかのように静かだ。
高層階へ昇るエレベーターに乗り込むと、それまで無言だった円華はやっと口を開いた。
従業員数358人を誇る総合病院ともなれば、名前を知らない人間はごまんといる。しかし、円華に関していえば彼女を知らない人間は恐らく一人もいなかった。女性の多くは彼女を嫌悪の眼差しで睨み、男性は羨望と肉欲で彼女のストッキングを見る。
彼女は誰とでも寝る女性として、院内ではそこそこ有名な存在であったが、それ自体は好奇の眼差しの原因ではなかった。一定数の男女が一か所に集まれば、そういった人間が現れるのは世の常だ。彼女を有名人にのし上げたのは、ある一つの事件だった。
数年前、とある医療ミスが起こった。点滴すべき薬の分量を誤り、患者は数日後に死亡。点滴を投与したのは円華だった。処方したのが別の医師であったとはいえ、確認不足は彼女の責任。しかし、彼女を糾弾しようとする医師や理事会に対して、たった一人当時82歳になる医院長だけが、何故か彼女を擁護した。結局円華は何らお咎めなしで放任されるに至った。その背後には、院長との浅からぬ関係があったのではないかというのが専らの噂であった。
以降、半ば免罪符を得た腫物として彼女は自分の地位を確立していった。頻繁に遅刻や欠席を繰り返し、勤務態度も決して良くない。それでも、院長との関係から誰も文句を言う者はなかった。
契機になったのは、医院長の死だった。一昨年、彼の娘が新しい医院長になってから、円華の生活は一変してしまった。
「半年前、カテーテルの処理を間違ったの。あれってべたべたしてるし、面倒でしょ。だから、適当にやっちゃったの。そしたら、院長室に呼ばれて、三時間。三時間よ? ずーっと下らないお説教。その時は謹慎で済んだけど、次もし何かデカいことしたら、クビだって。婆さん、私のことがほんと嫌いなのね。この仕事、割もいいし、辞めたくない。それよりなにより、あの婆にしたり顔でクビを宣告されるなんて、考えただけで、虫唾」
だから、それからしばらくは慎重に過ごしたのだという。
「私は別に集中力散漫だったり、根っからの無能ってわけじゃないの。ただ興味がないし、本気を出すのがだるいだけ。だから、ちゃんとしようと思えば出来るの、大抵のことはね」
だが、時としてそういった自負は身を滅ぼす。
「二号棟の309号室に入院してる
成功した、そう。腫瘍を取り除くことだけは。
円華が硬直したのは、帰り際備品のチェックをしていた時だった。メスやハサミなどの備品はすべて、数量が厳格にチェックされている。刃物や伝染性の高い衛生管理品の不用意な持ち出しや紛失を防ぐためだ。術後、一人手術室に残って備品の確認をしていた円華だったが、何度数えてみてもメスが一本足りない。
そこで彼女ははたと気が付いたのだ。
入れたままだと。
「間違いない。最後、閉創する前に備品の数量チェックするでしょ? その時私、ミノのこと考えてたの。焼肉のミノ。だから、執刀医に確認された時、適当に返事しちゃったのよ。だって、だって、中にメスが残ってることなんて、ありえないじゃない!」
和博は昔そんな漫画を読んだことを思い出した。
「もし、それが事実だったとしても、君が心配することはないはずだ。それはあくまで執刀医の責任だよ」
「執刀医は
エレベーターが止まり、扉が開いた。和博はその場に立ち止まったまま、溜息を吐いて声ともならない呻きを漏らした。彼女の言い分はもっともだ。彼女を追い出してしまいという医師たちにとってこれは恰好の口実となる。しかし―
「なぜ、私が?」
「外科の先生だし、それに、満更知らない関係でもないでしょ?」
怪しい笑みを浮かべて円華はエレベーターから出た。突き抜けた廊下の先を曲がり、ナースステーションに駆け込み、事の一切合切を打ち明けてしまえば、自分は家へ帰り、また平穏な日々へ戻ることが出来る。もし今から自分がしようとしていることがバレたら、解雇どころの騒ぎではない。
自分の築いてきた平穏、安寧は? 和博は無意識のうちに幸福的反復をしそうになった。危ない橋など渡るな。それが鉄則。だが、和博は怪しく歪んだ円華の口元を見る。その口元はいつでも、あのことを打ち明ける準備があることを物語っていた。
「ま、間違いないのか?」
そそくさと廊下を歩いていく円華に、和博は小声で尋ねる。
「何が?」
「その老人の腹にメスを置き忘れたのは。どこかに落としたとか、忘れてしまったとか、そういうことはないのか?」
「全部探した。手術室の隅から隅までね。あ、でも、一つだけ探してないところがある」
「ど、どこだ」
「老人の腹の中、よ」
つづく
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