今夜は夜勤になりそうだ

諸星モヨヨ

第1話

 食器洗いが終わると大須おおす 和博かずひろは台所の隅で、煙草に火を点けた。

 ニコチンで満たされた肺から、スッと突き抜けるような陶酔感が広がっていくのを感じ、和博は頭の中で、今自分が置かれている状況を反芻し始めた。

 いつの頃からだろうか、彼は時間があると、今自分が手に入れているもの、そして手にしている状況を頭の中で反復することが楽しみの一つになっていた。

 自分は現在四三歳。職業、外科医。年収二千三百万。四年前に二七階建てのマンションを一括で購入し、二年前に子どもが生まれた。貯金は六千五百万。愛車のカウンタックは地下の車庫で眠りに落ちている。

 全て自分で手に入れたものであった。この四十年、あらゆる苦労や努力に錯綜し、ある時には苦汁を飲み干すことすら厭わなかったのは、まさにこれらを手に入れるため。安寧こそが正義であり、安定こそ自分が追い求めたもの。この幸福的反芻を行う度、彼は得も言われぬ充足感を覚えるのだった。


 リビングでは、妻の真由美まゆみが二歳になる息子をあやしていた。

 妻もこの安寧の大事な要素だ。同じ病院で看護師をしていた時に出会い、そのまま結婚した。容姿も申し分なければ、気立てもいい。いくらか聡明な部分もあるし、物の分別もしっかりわきまえている。

 和博に言わせれば、上等だった。

 彼女は台所まで来るとグラスに緑茶を注ぎながら、チラッと和博の方を見る。

「和君、やっぱさ。台所で吸うのは……その、少し辞めたらどうかなって。子どももまだ、小さいしさ……」

 吐きかけの紫煙を無理に飲み込み、和博は大きくむせた。煙草を消し、携帯灰皿に突っ込む。

「そうだな。確かに」

「ごめん。ごめんね……」

 そう言いながら、微笑む妻に和博も笑みを返す。同意に気をよくしたのか、妻は屈託のない笑みを向けてくる。

「でしょ。煙草も……やめたほうがいいと、私は思うな。和君がお仕事で大変だってのは分かるけど、それで体に悪いものを取ってたら、元も子もないんじゃん……… 禁煙するなら、私も手伝うから、さ」

 下唇を強く噛みしめ、

「考えてみるよ」と和博は返した。

 子どもが生まれてから、こういう小言が増えた気はしまいか? ベランダに出て、デッキチェアへ仰臥し、和博は思った。そんなことを思う自分を否定し、彼は二本目の煙草へ火を点ける。

 大切なのは波風を立てない事、危険の因子を持ち込まない事。そういう些細な不和が平穏な家庭を破壊するなどよくある話だ。平穏と自由は違う。ある種の束縛や我慢を持つことで、平和は保たれている。

 なにより、彼女は正しいことを言っている。それを否定し、嫌悪するなど荒波以外の何者でもない。

 彼女は家族のためよくやってくれている。平穏無事な生活こそ、自分の追い求めたものではないか。

 和博はポケットに手を入れ、硬い円錐状の物体を取り出し、闇夜に掲げた。それは銀で出来た名札だった。熱伝導の高いそれは、みるみるうちに温まっていく。

 刻まれた『服部病院 外科 大須 和博』という文字を同じように頭で反芻した。それは自分が手に入れた平穏と安定の証拠だった。この熱や重みがそれを保証してくれているような気がした。

 それを握りしめている内、さいぜんの不快感は消え、煙草をやめてもいいような気がしてくる。

 スマホが鳴ったのはそんな時だった。


 画面を見るとLINEの通知が1件。そこに表示された名前を見て、和博は思わず内容も確認しないうちに、ハッと顔を上げた。

 妻はリビングで子どもとテレビを見ている。彼女はほとんど自動的な動作で、息子の口元についた涎をタオルで拭っていた。

 動揺を悟られていないことを確認すると、彼は煙草を一思いに吸い、灰皿へねじ込んだ。

 岸原きしはら 円華まどか。それは同僚の看護師からのLINEだった。

『今夜、1時半。第四病棟北搬入口』

 短く、一切の余分のない文章を和博は読み返し、無感情でベランダ越しの夜景を見つめた。

 それから時間が来るまでの間、ずっと考えていたのは、どう妻に切り出すかという事だった。医者という職業である以上、夜半に突然の呼び出しがかかることも珍しくない。

 しかし、今夜の呼び出しはその類ではないことは明らかだ。何かは分からない。だが、よくない事であることは分かる。ただでさえ、第四病棟の北搬入口は夜間の遺体搬入出に使われる場所なのだ。それに岸原 円華―

 結局、和博は寝る準備を始める妻に

「ごめん。病院から呼び出し」

 とだけ、伝えた。

「頑張ってね。お疲れ様」と労いを掛けてくれる妻の言葉も、硬く冷たい空虚な塊にしか感じなかった。

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