斎皇女と狩りの使い
春風利央
斎皇女と狩りの使い
そんな重要な身分を
さらに言うと、恋愛が禁止されている。神に仕えている以上、未婚女性の重要性は痛いほど理解しているのだが、禁じられていることほど興味が出るもの。
ああ、恋とはどんな物なのか。
それができたならば、どれだけ幸せなのだろうか。
「これから数日、狩りの使いが滞在されます。……今回の方はかなりの腕利きとのこと。常の使いより労わるように」
父はそのことだけ伝えると、付き人を連れて出て行ってしまった。
この役職に就いて以来ほとんど話していないが、他でもない親の指示、従うほかにない。まあ断る理由も無いけれども。
それにしても、今回滞在される狩りの使い、父がもてなしを指示するということは、余程鳥獣の狩りが上手いのだろう。私が見る機会は来ないだろうが、それでもいつか見てみたいと思う。次の斎王が選定されれば、見ることができるだろうか。
そんなことを考えていると時間はあっという間に過ぎて、すぐに狩りの使いがやって来る日になった。
「お初にお目に掛かります、
狩りの使い……在原さまは他にも何か言っていたが、耳に入って来なかった。
物腰の柔らかな彼は、今まで見てきたどの男性とも違って見えた。
正直なところ、私は自分の変化に手一杯だったが、客人に失礼をする訳にはいかないと思い、順が回ってきた頃には居住まいを正し、名を、いや、『役職名』を名乗る。
「在原さまの世話役を仰せ使っております、有常の娘です。神に仕える身ですので、役職名の斎皇女……では呼びづらいですね、いつきの君とお呼びください。」
なんとか顔合わせを乗り越え、ほっとしたのも束の間のこと。この後は在原さまを客間へ案内するという仕事を遂行しなければならない。
失礼のないようにしなければ、と思うがひと目見た時から胸騒ぎが治まらない。一体自分はどうしてしまったのだろうか。
自身の異常を気取られないように、自然を心がけて在原さまに声をかける。
「改めまして、短い間ではありますが、貴方様が不便なく過ごせるよう努めますので、どうぞよろしくお願いします。」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。」
頭を下げ合い、顔を上げた在原さま。案内のために近寄るが、距離が近づくほど胸の喧騒が大きくなる。
そのことに一抹の不安を抱きつつも、笑顔を心がける。
「あと一刻半ほどで日は落ちるでしょう。寝床へご案内しますので、こちらへおいで下さい」
よほど気を張っていたのか、その後から寝床へ送り届けるまでの記憶があやふやだ。口数も少なかった気がするし、在原さまにはご迷惑をお掛けしただろう。
この失態は明日からの仕事ぶりで挽回しなければ。
そう考えれば考えるほど、私は眠ることができなかった。
朝。在原さまに
その後、狩りに出かける在原さまをお見送りし終えると少し暇ができる。
この間に自室で心を落ち着かせようとするも、在原さまのことしか頭に浮かばない。
稀に心を病んでしまった人もいると聞く。私もそうなってしまったのだろうか、というところまで考えて、ふと、“恋”という言葉が頭をよぎる。
ふと、思う。思ってしまった。
私は在原さまに恋をしているのではないか、と。
その考えは私の胸にするりと入り込み、心の中枢に巣食ってしまった。
そして自覚する。
彼の方のことしか考えられず、そのことに幸福感を感じることに。
彼の方に心を向けてほしい、自分だけを見てほしいと思ってしまうことに。
ああ、ああ、なんということだ。こんな醜い感情が恋というならば、私は一生知らずにいたかった!
そしてこの気持ちを抱えたまま、彼の方の世話をするなんて、申し訳がつかない。
このことを誰かに懺悔したいが、斎皇女である私が恋をしたなんて知れてしまったら、彼の方はすぐにここを去ることになってしまう。ここでは私の立場が特殊であるが故に、神に仕える神官を誑かした罪人として。
それだけは避けなければならない。世話役も満足にできない私が、これ以上彼の方に迷惑をかけるなんてあってはならない。
この“恋”を隠し通し、墓まで持っていくことを、私は決意した。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ、在原さま。」
「わざわざ出迎えにきていただいて、ありがとうございます。」
「いえ、これくらいのことは世話役として当然のことです。あと一刻ほどで
もっと話したい。在原さまの声を聴きたい。
そんな浅ましい思いを胸の奥に仕舞い込み、事務的な会話を心がける。話し過ぎれば迷惑がかかるのはもとより、自分の感情のままに話してしまえば、在原さまを穢してしまう気がした。それすらも良しとするこの恋心のなんと恐ろしいことか。
幸いなことに案内はつつがなく終わらせることができ、その後はひたすら自室に篭もった。今動けば私の足は彼の方の所へ向かってしまうだろう。
これ以上この気持ちを持て余しているとおかしくなってしまうと思い、少し早いが寝ることにした。
昨夜は不安のあまり眠れなかったので、今日はよく眠れるだろうと思いながら。
その日の晩のこと。私は、彼の方を訪ねる夢を見た。
朝になったが、またあまり眠れなかったのか、少しばかり頭がぼうっとする。
眠気を振り切って身なりを整えていると、ふと昨晩の夢を思い出した。
夢の中ですら彼の方のことを求めている自分に吐き気を覚え、こんな夢はさっさと忘れてしまおうと頭を振る。
しかし、徐々に覚醒するにつれ、私は昨夜夢でなく、本当に在原さまの所へ押しかけたのではないかという考えが頭を過ぎる。
もし現実だったなら、私はとんでもない無礼を働いたことになる。
早急に事実を確認し、現実に押しかけてしまったならば誠心誠意謝罪をしなければならない。
慌てて自室を出ようとしたが、この時間に部屋を直接訪ねるのもまた無礼に当たると気付き、不躾に尋ねるのもよろしくないかと、急いで歌を作り上げ、近くで掃除をいた
君や来し 我や行きけむ 思ほえず
夢かうつつか 寝てか覚めてか
朝餉を食しているうちに少し冷静になり、もし夢だったなら、先ほど届けた歌の内容は恋文と捉えられてしまうのでは、ということに気が付き、顔から血の気が引いた。焦ると本当に碌なことがない。
気が重いが、このことを他の者に気取られてはたまらないので、必死に取り繕い、笑顔を浮かべながら玄関へ向かう。
なるべく急いで来たが、在原さまはすでに玄関先で佇んでおり、見送りもろくにできない自分が嫌になる。
「在原さま、見送りが遅れてしまい申し訳ございません!」
「いえ、私が早く来てしまっただけです、謝られることではありませんよ」
「しかし……」
私は世話役たるもの、と言葉を続けようとするが、在原さまの此方に向けられた、優しげな笑顔を見ると言葉が詰まってしまった。
しかし、詰まっていても不満げな表情をしていたのだろう。此方を見て在原さまは少し笑った後、尚も言い募ろうとする私を手で制し、少し恥ずかしそうに、
「……いただいた歌の返事を、早く返したくて急いでしまったのです」
と、言ったのだ。
その時の在原さまは、愛おしいものを見るような、見ているこちらが照れてしまいそうな、うつくしい表情をしていた。
そんな照れてしまいそうな表情を、真正面から受け止めた私は見惚れてしまった。
彼は手に持っていた返事の歌を、渡してくれたが、呆けていた私は、悲しいことに阿保面を晒して受け取るしかできなかった。
そしてそのまま在原さまを見送り、夢心地な気分のまま自室に戻り、歌を読み上げる。
かきくらす 心の闇に 戸惑ひにき
夢うつつとは 今宵定めよ
彼の方の所へ押しかけてしまったのは、どうやら現実だったようだ。
真っ先に謝意を感じるべきだろうに、今夜の逢瀬への嬉しさが勝ってしまう辺り、私はもう手遅れなのだと悟った。
見送りを終えてかは、私は一日中在原さまのことを想っていた。
いや、ひと目見てからずっと彼の方のことを想っているので、その想いがもっと強くなった……酷くなったと表現するべきか。
その酷さたるや、普段無愛想な舎人にまで「斎皇女さまの心がどこかへ飛んで行かれたのかと」と、心配の声をかけられる程。
仕事も手につかず、声をかけられても上の空。そのくせ在原さまの帰りが近づくと、見苦しくないようにしなければと頭が働き始めるのだからもうどうしようもない。
結局、今日のお迎えは、昨日より固い表情で口数も減るという大失敗に終わった。表情を見る余裕が無かったので、彼の方にどう思われているかは分からず。暗い方向に考えがちな私は、せっかく逢瀬をお誘い下さったのに、ここまで無愛想では合わせる顔が無いと、夕餉まで悩みに悩んだ。
逢瀬のために寝床に就くふりをし始めた辺りで、ようやっともとより無いもののことで悩んでも仕方がない、と気づいた。
その結論に至るまでの思考の遅さに、我が事ながら中々気が動転していたんだな、と呆れ返った。
夜も深まり、亥一つの刻に差し掛かった辺りで、私は見苦しくないように身なりを整え、部屋を過ごしやすいよう片付ける。しかし、いくら待てども在原さまはいらっしゃらない。
子の刻を過ぎ、彼の方は私をからかうために歌を渡したのだろうか、と暗い考えが顔を出してきた辺りで、遠くから笑い声が聞こえた。この時間に声が聞こえるということは、晩酌でもしているのだろうか。
行儀が悪いのはわかっているが、このまま待っていると、気分が地の底まで沈みそうだったので、声がより聞こえるように耳を澄ました。すると、私が想ってやまない、他でもない在原さまの声が聞こえてきた。
やはり私はからかわれたのだろうか、と落ち込んでいると、斎宮寮の長官殿の笑い声も一緒に聞こえてくる。
長官殿は酒好きだ。よく接待と称して客人を捕まえるので、彼の方は断れなかっただけで、私をからかっていた訳ではないんだと、安堵のた溜息を吐いた。
しかし、同時に思い出す。長官殿が客人と晩酌をするのは、決まって客人が帰る前日の晩だと。ならば、彼の方は明日に帰ってしまうのでは。
となれば、私は初恋の相手と碌に言葉も交わせずに別れてしまうのか。だとすれば、なんと報われない。
いや、もとより滞在期間は数日と決まっていた。そして私は神に仕える『斎皇女』なのだ。婚姻どころか恋も禁じられている。
そのことを忘れ、恋にうつつを抜かしていた私が悪いのだと、わかっている。わかっているけれども。
私の恋はここに終わったと、自覚する。
この恋は諦めなければいけないと、そう強く思うほど胸は締め付けられ、しまいには目から涙が溢れ出してきた。
涙を流すなんていつぶりだろう、と考えて、ここまで心を突き動かされること自体が生まれて初めてだと気づく。
ああ、名だたる歌に恋の歌が多いのは、こういうことなのだろうな、とこの歳になってようやく察した。
だって恋は、こんなにも心を豊かにする。たとえその恋が実らずとも。
数刻ほど経ち、私はこの恋を思い出に昇華し、彼の方の幸せを願って生きていこうと決めた。
決めたのだが、一度落ち着いて考えると、彼の方も私のことを好いていたように見える。そうでなければ、彼は逢瀬を誘うような歌を返事にしなかったはず。
けれど、たとえ両思いであれ、結ばれることはあり得ない。それこそ駆け落ちか心中でもしない限り。
なら、突き放してしまおう。そうすれば、彼は私を“自分を誑かした悪女”として見てくれる。私のことを忘れて新しい恋へ、幸せへ向かって行ってくれることだろう。
じきに夜明けがやってくる。彼の方は朝餉も取らずにここを経つと聞いた。ならば今すぐにでも彼を突き放す歌を用意しなければならない。
しかし、そんな歌を詠み上げるのが初めてだったからか、どうしても下の句ができない。
まるで彼の返事が欲しいみたいだ、と女々しい自分に情けなくなる。
しかし、時間は待ってはくれず、非情にも日は昇る。
仕方がないので、この状態で舎人に歌を届けてもらうことにした。
どうか、私の歌に腹を立て、破り捨ててくれますように。
最後に彼の方に会えないことだけが心残りだ。
かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば
歌を届けてもらってから、およそ半日。その間、私はずっと眠っていたらしい。ここ数日眠れずに疲れが溜まっていたらしく、目が覚めた時には体がずいぶんと軽くなっていた。
彼の方を見送った舎人によると、どうやら無事にここを経つことができたらしい。
それに安心していると、舎人は私に煤で汚れた一枚の紙を差し出してきた。よくよく見てみると、それは私が彼の方に詠んだ歌で、炭で下の句が書き足されていた。
舎人を下がらせ、深く息をし、意を決して歌に目を通す。
また逢坂の 関は越えなむ
明け方に枯れ切ったと思っていた、涙が流れた。
ああ、彼の方は、在原さまは、最後まで私を想ってくれていたのだ。
気持ちは推し量れども確信は得られず、最後まで自分の独りよがりではないかと不安だったが、どうやら杞憂のようだった。
私の本意を伝えられなかったことだけが心残りだが、今となってはもう遅い。それに一度決めたことだ。男であらずとも、二言があっては格好がつかない。
しかし、この想いを伝えられずとも、祈ることならばできるはずだ。
私は斎皇女。神に仕える神官である身。なら多少神様が贔屓して、彼の方を幸せにしてくれるかもしれないだろう。
私の恋は実らずに終わったが、得られたものはあった。
このうつくしい思い出を、ありし日々として時折思い出せたなら、それだけで私は幸せだろう。
でも、もしもまた逢うことができるのならば。
その時はどうか、夢ではないことを願って。
斎皇女と狩りの使い 春風利央 @rio299
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