第八湯 オートマ or マニュアル?



 人生とは選択の連続だ。

 例えば「今日の夕飯は何にしよう」とか「どこの企業に勤めよう」といったように、その分岐点で要求される選択肢は、些細なものから重大なものまで幅広く存在する。

 留意すべきは、その選択をしたら時間を戻してやり直すことはできない、ということだ。

 どんな選択でも、それは自分を次の未来に連れていくためのものだけれど、果たしてその選択が正しいのか誤っているのかは誰にも分からない。

 子供の頃は、親や先生が正しいとしていたものを選べば、それが正解とみなされた。けれど社会に出てからは、この世界は正解など存在しない事柄の連続で廻っているのだと気付かされる。


 温泉の休憩スペースで呆然として立ち続けている私。

 いま、この瞬間、重大な選択を迫られている気がした。

 緊張感がすごい。時間が停止したような感覚だ。

 何よりも他人の視線がある。「あの二人、何話してるんだろ?」と子供たちの幼気な視線が顔に突き刺さってきて辛い。

 耐えられず私はこの場所から移動することを提案した。


「と、とりあえず、ここはアレだから、喫茶店まで送るよ……」


「えっ、あ、うん」


 夏帆はキョトンとした顔で頷いた。


 フロントで会計を済ませて私達は駐車場に向かった。

 狭い車内に女の子二人を閉じ込めたロードスターを精算機のゲートまで動かす。窓を開いて駐車券を入れようとするけれど、手が震えてうまく入券できない。

 動揺するな私! そんな精神状態での運転は危険だぞ!

 口の中が乾く感覚を覚え、窓からの外気を吸うことで精神を正常にした。

 なんとか立体駐車場から出て、夜の横浜を走らせる。

 無言の車内。私はもちろんのこと、夏帆もウズウズと落ち着かない様子。

 しばらくしてから夏帆がスカートをギュッと握りしめて口を開いた。


「それでね、告白のことなんだけど……」


 いやいやいやいやありえない早すぎるよ。……いやなにが早すぎるんだ!

『温泉は裸の付き合い』って言うけど、ここまで親密にする力があるのか。温泉恐るべし……。

 あれこれと夏帆の告白に返す言葉を準備しようとするけれど、脳内の回路がショートしてうまく働かない。


「でもなぁ、こんなこと言ったら……。サヤちゃん、もう温泉連れて行ってくれないかもしれないし」


 夏帆はうら寂しそうな表情でこちらをチラッと視線を送ってきた。

 ……たしかに大きく関係性が変わったら、こんな風に二人で出かけるのは難しそうだ。

 それでも私は、温泉という趣味を共有できる唯一の仲間を失いたくはなかった。


「……べ、別に、温泉くらい、いつでも連れてってあげるよ」


 そっぽを向きながら、なんとか本心の言葉で返した。

 信号は赤になってロードスターが停車する。車の中がカンパリソーダ色に染まった。


「そっか……ありがとう。じゃあ言うね」


 いや、まだ心の準備ができてないんだけどっ……!

 ひとつ深呼吸。

 心を決めよう。もうどうにでもなれ、私だって立派な成人だ! どんなことでも受け止めてやる!

 夏帆がこちらに身体を向け、意を決したように切り出す。


「私、じつは──」


 ごくり……。


「運転免許とることに決めましたーー!!」


 決めました──決めました──決めました──────

 言葉がリフレインして脳に響く。


「……………」


 呆然とした私はあんぐりと口を開けた。


「はぁ?」


「いやー、ようやく言えたよぉ。サヤちゃんの運転姿に憧れて免許取ろうって決めたんだ! ずっとサヤちゃんに言いたかったんだけど、機会逃しちゃって」


 アハハと照れ笑いしながら言った。

 私は肩の重荷が降りた感覚を覚えて溜め息をついた。


「……そういうことだったのか。私はてっきり──」


「てっきり?」


 小首を傾げる夏帆の目をまともに見ることができず俯いてしまう。

 何を考えていたんだ私は!! 自分の頭をポカポカと殴りたい気分だ!!

 悶絶しそうな気持ちをなんとか堪え、口をつぐんだ後、冷静さを取り戻しながら顔をあげた。


「……いや、なんでもない。というか、そんなの改まって言うこと?」


「だって、免許取るって言ったらさ、サヤちゃん、もうロードスターに乗せてくれないと思ったんだもん」


 唇をアヒルのように尖らせてブーブーと夏帆が言った。

 たしかに私だったら「じゃあ免許取ったら、お互い車で現地集合ね」とか言い出しそう。

 私は「まあいいや……」と溜め息をついてから、


「じゃあ、車買うってこと?」


「まぁ、まずは実家の車を運転するところからかなー」


 指に顎を載せて斜め上を見る夏帆。


「でも、もっと可愛い車乗りたいし、ゆくゆくは自分用のを買いたいねっ!」


 夏帆の実家の車ってどんな感じなんだろ。可愛くない車? つまり怖そうな車? ベンツ? ゾロ目ナンバー?

 そんなことを考えていると、夏帆は真剣な表情になって、


「それはそれとしてですよっ!」


 スマホをタップタップと指で操作して、その画面を私に向けてきた。


「教習所に通おうと思うんだけど、ATとMT? どっちの免許を取るのがいいの?」


 ほぉ、なるほど。その永遠のテーマをここで話しますか。

 その問いに対する私の答えは決まっている。

 私はキランッと目を光らせて即答した。


「マニュアル一択だよ!」


「へ? ま、まにゅある? ……ってどっち?」


「MT。マニュアル・トランスミッションの略。もう一つのATっていうのは、オートマチック・トランスミッションだね」


 呪文のような言葉を早口で言ったせいで、夏帆は呆気に取られている。

 夏帆は眉を寄せながらスマホ画面に目を戻した。


「えーと、そのマニュアルなんちゃらとオトメチックなんちゃらはどう違うの?」


「オートマチックね……。略すならオートマでいいよ」


 オトメチックなら女子はみんなAT免許になってしまう。

 信号が青になり、車を発車させながら言う。


「運転方法の違いが大きいね。マニュアルは、エンジンの動力を適切に伝えるためにクラッチっていうのを使ってうまくギアチェンジする必要がある。対して、オートマは勝手にギアが変わってくれるからその必要がない」


 夏帆はフムフムと頷いて相槌を打ち、笑顔で反応する。


「なんかよく分かんないけど、オートマのほうが運転しやすそうだね」


 はっ、まずい。このままではミスリードしてしまう! なんとしてでもマニュアル狂人に引き込まなくては……!

 夏帆の意志が決定する前に、私は言葉を投げる。


「それでもマニュアル一択だよ!」


 夏帆は元気よく挙手した。


「なぜですか、先生っ!」


 私はシフトレバーを握りしめ、


「私が運転しているロードスター、これはマニュアル車だよ」


 大げさにエンジンを吹かしてからギアチェンジする。ウォンと大きな唸りを上げたロードスターに衝撃が走った。夏帆はビックリしてシートベルトを握って身を縮こまらせた。

 私は冷静な口調で続けて、


「マニュアルは、この運転してる感が最高なんだよ。まぁ、これは大人にしか分からない感覚かもしれないけどね?」


 語尾を挑発的なものにした。

 夏帆は生唾を飲んでから、恐る恐るといった具合にこちらを窺ってくる。


「つまり、サヤちゃんみたいにカッコいい大人な女性になるためにはMT免許が必要……ということでしょうか?」


 短い後ろ髪をサッとなびかせて私は応える。


「そうよ」


「おお! 勉強になりますっ!」


 夏帆はスマホを持った手でメモを取るような仕草をした。

 よしよし、あとひと押しといったところか。

 最後の決め手を考えていると、夏帆は目を細めながらスマホに目をやった。


「でもAT免許の方が、教習料金が若干安い──」


 その言葉を遮るように私は発言する。


「そして、何より重要なのは!」


「重要なのは……?」


 ごくりと固唾を呑む夏帆。

 私は唇を舐めて、語気を強めながら言う。


「MT免許ならマニュアル車だけでなく、オートマ車も運転することができる!」


「な、なんだってー!」


 夏帆は驚愕の表情で両腕を上げた。

 そして時間が止まったように停止した後、しずかに腕をもとに戻した。


「……つまり、どういうことでしょうか、先生」


「もし夏帆が、教習費が安くて運転も楽な、AT免許を取ることに決めたとします」


「はい」


「免許を取るというのは大変なことです。座学では膨大な交通ルールを覚えなくてはならないし、技能教習では教官からエゲツないほどのダメ出しを食らうこともあるでしょう」


「がんばれ、あたし」


「しかし、30時限近くにおよぶ教習の末、ストレート合格で免許を取ることができました」


「さすが、あたし!」


「夏帆は喜びを抑えきれず、AT免許証を持って、ルンルン気分で車を買いに行きました」


「はい!」


「そこで超絶可愛くて予算内に収まるお気に入りの車が見つかりました。さあ、どうする?」


「そりゃもう、即決で買いだよっ!」


「ところが残念。その車はマニュアル車でした」


「あっ……」


「AT限定の免許である夏帆はその車に乗ることが出来ません。夏帆は諦めてトボトボと帰宅することに──」


「いやだ……、そんなの嫌だぁぁぁ!!」


 手で顔を覆って、夏帆はハクビシンのような甲高い悲鳴を上げた。

 私は努めて冷静な口調で結論を述べる。


「MT免許ならマニュアル車かオートマ車かなんて気にする必要はない。つまりMT免許は、車の選択肢を格段に増やすことができる」


「もちろん普通車の範囲だけどね」と補足しておく。

 夏帆は肩を震わせてうずくまっていた。

 そんな彼女に優しい声で語りかける。


「だから、マニュアル一択だよ」


 夏帆は目尻に浮かぶ涙を拭いながら言葉を絞り出した。


「先生ぇ……、あたしMT免許を取ることにしますぅ……」


 私は温かい目でうんうんと頷いた。そして外の景色を見るように視線を外して瞳を赤く光らせる。

 計画通り。ふ、ちょろいもんだぜ。

 彼女は知らない。現在普及している普通車のうち、98%以上はオートマ車であることを。


 夏帆の教習所ライフに幸あらん。

 メソメソ泣くか弱い女の子と、不敵な笑みを浮かべる外道を載せたロードスターは、交差点を右折して暗闇の街へと消えていった。



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  

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