第七湯 都会のオアシス
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊豆から車を走らせること、およそ2時間。
車窓から見える景色は、山の碧々とした木々から監視塔のように立ち並ぶ高層ビルへと変貌する。
夕焼けの赤に染まる都会の街並み。マンションの無数の窓が夕陽をチカチカと反射させている。マラソンランナーの帰りを心待ちにしていた群衆が焚くストロボのようだ。
旅が終わる寂しさと無事に帰ってこれた安堵感が混ざって息が漏れた。
「あぁ、戻ってきたんだな……」
普段の景色。日常に戻ってきたことを実感させられる。
さあ、もう少しでゴールだ。
東名高速を下りて、夏帆の待つ喫茶レリーフを目指した。
到着した頃には藍色の帳が降りて、街に明かりがぽつりぽつりと灯り始めていた。
創業数週間の真新しい喫茶店。けれど窓から漏れる温かみのある光が、地元に愛されて何十年も営業しているようなお店の雰囲気を与える。駐車場を見る限り、車の姿はない。あるのは店先に停まる自転車のみ。
店のドアに近い場所で駐車。
長居するつもりはないので、スマホと財布だけを手に取る。そして、お土産のいちご大福を忘れずに。
店前に立ってひとつ深呼吸する。
「……別に、お土産を渡すだけ。難しいことじゃない」
なぜか私は緊張していた。小さく気合いをいれてから入店。
ドアベルがチリリンと鳴って、ホールの店員さんが気づいてこちらに振り向いた。
向日葵の咲くような笑顔で出迎えたのは夏帆である。
「いらっしゃいませ!」
お辞儀から直った夏帆は私と気づいて、
「って、サヤちゃんじゃん! おかえりなさい」
パタパタと小走りで駆け寄ってくる。私は「よっ」と軽く手を上げて応えた。
夏帆は「ささ、どうぞこちらへ」と低姿勢のまま、先日と同じソファー席に案内してくれた。
私が席に着くなり、夏帆はオーダー票を取り出した。
「何かお飲みになりますか?」
あくまで店員と客という立場は崩さないらしく、とても落ち着いた様子である。
立て掛けてあったメニューを開き、一番最初に目に入ったものを注文することにした。
「じゃあ、黒湯ブレンドコーヒーで」
夏帆は微笑んで了承すると、厨房側を振り向いて壁に掛かった時計を見上げた。時刻は18時を指している。再びこちらを振り返り、
「ちょうどバイト上がる時間だから、着替えてくるね」
私がコクリと頷くと嬉しそうな表情で厨房に入っていった。
いいなぁ、定時に上がれるホワイトな職場なんだなぁ。……これが普通なんだよなぁ。
私の職場で定時帰りをキメる場合、上司と先輩の目を盗んで忍び足で帰らなければならない。見つかってしまうと「あぁ……、おつかれさま」と悲しそうな表情で見送られるのである。とても心苦しいのでやめてほしい……。
背もたれに寄りかかり溜め息を吐く。どっと疲れが出てきたようだ。
「……長い一日だったな」
今日は普段どおり朝6時に起きた。朝食を食べて身支度を整えるという平凡なルーティンである。家を出る時間も、このあと家に着く時間もたぶん同じになるだろう。
それでも今日は、平日とは違う時間の流れだったように思える。
通常、楽しい時間というのは相対的に早く感じるものだ。けれど、あちこちに出向いていろんな事を経験したおかげだろうか。飽和された充実感というのは、休日を最大限に拡張させるのだ。身体は疲れているけれど不快感はない。気持ちの良い疲労感だ。
天井を見上げるとシーリングファンがゆったりと回っていた。上向きにそれを眺めていると、まぶたの重みを感じ始めた。店内に流れるチルな音楽もまた眠気を誘う。
意識が飛びそうになったところで人影が近づいてきた。2つのコーヒーをトレイに載せてやってきた夏帆である。
「おまたせしました。黒湯ブレンドコーヒーです」
余所行きの穏やかな声でそう言うと、静かにテーブルにソーサーを置き、カップの持ち手が右になるようにくるりと回す。すると手前に角砂糖の載ったスプーンがちょこんと現れる。
カップの左側にはミニチュアの手桶が載っている。不思議に思って覗いてみると、どうやらミルクが入っているみたいだ。
コーヒーカップはお風呂で、ミルクピッチャーが桶か。なんとも和洋折衷な……。かわいい。
2つ目のコーヒーをテーブルに置き、夏帆は微笑を向けながら正面に着席した。
「ふふ、お疲れみたいだね」
どうやら顔に疲れが出ていたらしい。私は手のひらで頬をほぐしながら肯いた。
……忘れないうちにお土産を渡してしまおう。
目線を逸らしておずおずとお土産の袋を差し出した。
夏帆は無言で正面に置かれた袋をしげしげと見つめて、
「ぬ? 私に?」
自分の顔に指を指しながら小首を傾げた。
私は「うん」と首肯する。
「今日のお土産、よかったら。生ものだから早めに食べて」
「やったぁ! ありがとー!」
クリスマスプレゼントをもらった子供のような笑顔で受け取り、瞳を輝かせながら袋の中を覗いた。
「わぁ、いちご大福だ! 美味しそう」
大福の入ったプラスチック容器を取り出して、夏帆は口元を緩ませながらこちらを見る。
「今、食べてもいいかな」
今にもヨダレが垂れてきそうな表情である。
私は「どうぞどうぞ」と手で勧めた。
夏帆は手際よく箱を開いて大福を取り出して、手のひらをパンッと合わせた。
「いただきまーす!」
白くてモチモチとした大福を摘んで一口。そして頬をモニュモニュと動かしながら幸せな表情になる。
「う~ん、おいしぃ~~♪」
美味しそうに食べるなぁ。買ってきて良かった。
嬉しそうな夏帆の表情。それを頬杖をつきながら眺めていた。思わずこちらの口元も緩んでしまう。
でも、そんな幸せそうな表情を見ていると、忘れつつあった罪悪感がこみ上げてきた。
私から発せられる声はしおらしいものになる。
「今日はごめんね」
大福を含んだ口を手で隠しながら夏帆が応じた。
「ぬぬ? なんかあった?」
「いや、伊豆行くのに誘わなくてさ……」
私の目線が徐々に下がっていくと、夏帆の顔も同期するように横に傾いていった。
「ぬぅ? 別に気にしなくても。あたしバイトだったし」
不思議そうに眉尻を下げた夏帆は優しく微笑んだ。
「そういうことじゃなくて……」
夏帆はまったく気にしていない様子だった。「バイトおわりに食べるスイーツは格別だね」と幸せそうな表情でパクパクと大福を食べ続けている。
まぁ気にしてないならいいけどさ……。
しばらく食べている姿を眺めていたら、だんだん私も食べたくなってきた。
自分用に買った大福を取り出して、一口いただく。
やっぱり美味しいな、いちご大福。夕飯をセーブしないと体重計がこわい。
「ごちそうさま!」
満足そうな夏帆が再びパンッと手を叩いた。
大福の感想を訊こうと目を向けると、夏帆の前には空になった容器が6個ほど散乱していた。
ま、まさか今の時間ですべて完食したの!?
唖然としていると、夏帆は手を膝に置いた姿勢でこちらに身を乗り出してきた。
「送ってくれた富士山の写真キレイだったね! 伊豆で撮った写真、もっと見せてよ!」
興味津々な表情が目の前にある。
……近い。パーソナルスペースが狭い子なのだ。
私は背もたれに退けながら自分の領域を確保し、ポシェットからスマホを取り出した。
「うん、いいよ」
アルバムを開くためスワイプしていると夏帆が画面を覗いてきた。
他人に画面覗かれるのってソワソワするな。……変な写真、残ってないよね?
少し画面を自分側に傾けながら今日の写真を探し出す。本日最初に撮ったのは早朝のパーキングエリア、西湘バイパスの写真のようだ。ちなみに、その前に撮った写真は近所に住んでいる野良猫の写真だった。
私は写真をタップしながら、今日の出来事を夏帆に話し始めた。
西湘バイパスから箱根路を通って西伊豆海岸まで走った。伊豆の海は、こっちの海より穏やかで静かだったよ。
昼食はアジの丼ぶりを食べたんだよね。プリプリなアジの食感がたまらなかった。
その後は西伊豆スカイライン。車も少ないし、何よりも絶景の連続で飽きなかった。富士山と静岡を一望できる景色、そうそう写真送ったよね。……あれ、ロードスターをメインにした写真なんだよ、一応。
それから山を少し下ったところに牧場があったんだ。ソフトクリーム、美味しかったよ。なんせ高原の景色を見ながらだもん。いい景色の中で食べるのは格別だよ。
山を下りた後はしばらく海岸線。崖に沿って走っていくんだよ。高い位置から海を眺めるのも迫力があって良かったなぁ。……え、海と崖がセットだと事件が起きそうだって? サスペンスドラマか。断崖は犯人が自供する場所だから、むしろ事件が解決するところなんじゃない?
私が小旅行記を自慢するように語っている間、夏帆はうんうん頷いたり、驚いたり、笑ったり、コロコロと表情を七変化させていた。夏帆は聞き上手らしい。話しているこちらの気分が良くなる。
私も先輩の自慢話を聞く時はこれくらい表情を変えたほうがいいのだろうか。……いや、やめておこう、面倒だ。
仕事の武勇伝を語る先輩の気持ちを多少理解して苦笑していると、夏帆が「ねぇねぇ」と意識を向けさせた。どうして空は青いのと訊いてくる幼児のような無邪気な顔。
「温泉は行ったの?」
「うん、行ったよ。大沢温泉ってとこ」
私はスワイプして大沢温泉の前で撮った写真を見せてあげた。
それを見た夏帆は「おぉ……」と息を飲むほどの時間を得てから、
「これは、なんとも、神隠しに遭いそうな、雰囲気のある橋だね」
言葉を選びながら発言した夏帆は神妙な面持ちになった。
ですよねー。でも、そこが良いんだよ。
さすがに湯船の写真は撮っていないので、ブラウザを開いて公式サイトの写真を見せることにした。
「こんなかんじで、自然の中にある露天風呂で気持ち良かったよ」
「えー! すごいっ! 地面から温泉が湧いてるんだぁ」
私からスマホを受け取った夏帆は、画像をピンチアウトしたりフリックして温泉の説明を読んでいた。
「あぁ、これはリラックスできそうですなぁ」と言って、スマホを胸に抱えたまま目を閉じた。まるでその温泉に入っているような夢心地な表情である。
そのまましばらく静止。
そして目を開くと現実に戻されたようで、テーブルにふにゃんと突っ伏しながらスマホの画面を見つめていた。
「いいなー。あたしも行きたくなっちゃったよ」
病欠で遠足に行けなかった小学生のような不貞腐れた声である。
それを聞いた私は、少し考えてから切り出した。
「じゃあ、今から行く?」
「そうだねぇ」
夏帆は素っ気なく返事をしてから、
「────ぬぬぬっ!」
身体に電撃が走ったように顔を上げて目を丸くした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
喫茶店からロードスターを走らせて数十分ほど。「港北みなも」の立体駐車場に入っていく。
3階のフロアにある「港北天然温泉ゆったりCOco」が目的地である。
ゆったりCOcoには天然温泉・サウナの他にも、エステサロンやレストランが併設している。同じフロアにあるスポーツジムと繋がっており、運動後に温泉を堪能することも可能らしい。
以前から港北みなもには1階の食料品売場や本屋には立ち寄ることがあって、上の階に温泉があることは知っていたけれど、機会がなくて入ったことはなかった。実は伊豆からの帰り道、お土産を届けがてらここに寄ってみようと考えていたのだ。
受付でリストバンドを受け取って入場する。
リフレッシュサロンの他、そのフロアには漫画喫茶並みの本棚がずらりと置かれている。休憩所はふかふかで大きなビーズクッションとハンモックが用意されている。お風呂に入った後、ここで何時間ものんびりできそう。
階段を登って女湯の更衣室へ。
ロッカーに貴重品を入れて服を脱ぎ始める。
そういえば夏帆は「誰かと一緒にお風呂入るの恥ずかしい」って言ってたなと思い出し、夏帆の方を見ると、すでにブラを外そうとフックに手を掛けていた。
驚いた。相変わらず大きい。……ではなくて、この前はあんなに恥ずかしがっていたのに。今は特に回りを気にする素振りもなかった。
私がまじまじと夏帆を見ていると、彼女はキョトンと首を傾げた。そのちょっとした動作でも豊かな乳房が揺れた。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
やっぱり、でかい……。
押し黙って脱衣を完了させて浴場に向かう。
夏帆が横に並んで付いてきて私の顔を覗いた。
「でも良かったの? サヤちゃん、伊豆で温泉入ってきたんでしょ?」
「うん。でも露天風呂だけだったから髪とか洗えてないんだよね」
浴場の扉を開きながら、
「それに、ここも天然温泉らしいし。温泉は一日に何度入っても最高だよ」
私はキランッとした眼力を夏帆に飛ばした。
「おぉ、なんか温泉オタクっぽいね」
……せめて温泉マニアって言ってほしい。それに私なんてまだまだ温泉初心者だろう。
どうやら私は温泉の魅力に取りつかれつつあるらしい。最近は泉質の種類を覚えて、全国各地の色んな温泉を制覇してみたい気持ちになっている。
かけ湯をしてから内風呂へ。
扇形の湯船の前で立ち止まった夏帆は「わあ!」と胸を弾ませた。
「すごい! むぎ茶みたいな色!」
「これが源泉みたいだね」
泉質はナトリウム-塩化物泉。モール泉と呼ばれる植物性の有機物を含んでいる温泉だ。褐色のお湯が特徴的である。地下1500mから湧き上がる源泉をここまで汲み上げて、加水なしでかけ流しているらしい。
二人でそのお風呂に浸かる。言葉は自然と重なった。
「「ほわぁ……。さいこう……」」
肌触りの良いお湯だ。お湯に含まれている塩化物が肌に付くことで、血行改善・疲労回復の効果がある。
「バイト終わりの温泉は反則だよぉ」
夏帆は天井を仰ぎ見ながら、天に召されそうな表情をしている。
本日2回目の温泉である私も同じような感想だ。控えめに言って最高。運転の疲れが消えていく。
周りを見渡すとジェットバスと冷水浴が目に入った。よくあるスーパー銭湯のような感じ。
目を引いたのは低温バイブラバス。小さな気泡が出ていて気持ちよさそう。冷水が苦手な私でも入れそうだ。最後上がる前に入ってみよう。
窓側に目を向けると、暗闇に露天風呂の明かりが浮かんでいた。
全身を駆け巡る血管たちが拡張して体が温まってきたところで夏帆に提案する。
「露天風呂、行ってみる?」
笑顔の夏帆が大きく肯いて応えた。
「うん! 行こう!」
火照った身体で外へ出ると、夜風が気持ちよく身体を包んだ。
視界を遮るように壁が立っているけど空は大きく開かれている。開放感のあるテラス風の露天だ。
露天風呂の種類も充実している。
扉近くにあるのはハーブ湯。日替わりでハーブが変わるらしい。本日はカモミール。温泉と香りの相乗効果でリラックスできる。
中央にはミルキーバス。乳白色のお湯かと思ったら、どうやらきめ細かい泡が白色に見せているようだ。この泡がお肌を綺麗にしてくれるに違いない。
そしてメインの炭酸風呂。高濃度の炭酸を溶かし込んだ温泉である。炭酸が血管を拡張することで血行改善と疲労回復の効果を向上させる。
そこに静かに二人で浸かる。真上を見るときれいな満月が浮かんでいた。
月を見上げながら夏帆が吐息を吐いた。
「はぁ……。やっぱり露天風呂はいいね~」
「だね。この開放感と温泉のマッチアップは最高」
都会の中にある温泉も意外と良いもんだなぁ。殺伐とした日常のなかに非日常の世界が紛れ込んだような不思議な感覚だ。これぞ都会のオアシス。
夏帆はぽけーっと気持ちよさそうに入っている。バイト終わりで疲れているんだろう。
温泉って疲れてるほど気持ち良かったりするもの。仕事終わりに飲むビールと同じだ。ストレスを感じると苦味を欲するように、疲弊した心と身体をほぐすには温泉が必要なのである。
社会という荒波を航海する私達にとっての安息の地。それが温泉。
学生と言えど悩みやストレスの種はいくらでもあるものだろう。夏帆も心身をリフレッシュするために、温泉に興味を持ったのかもしれない。
温泉という趣味を共有できて良かった。
これから先も、この楽しみを一緒に共有できたら、それはどんなに──。
私は小さく口を開いた。
「あのさ」
「うん」
夏帆は私の言葉を待つように優しい表情でこちらを見る。
お風呂の水面に視線を落としながら私はつぶやいた。
「その……。今度さ、また一緒に温泉行こうよ。……ほら、夏帆も行きたいところあるって言ってたじゃん」
目をパチクリとしてこちらを見ていた夏帆は、
「ぬっ! いま、なんって言った!?」
目を見開いて鬼気迫るような表情で迫ってきた。
「えっ……。いや、ごめん、予定が合わないなら全然良いんだけどさ」
私は退きながら思わず謝ってしまった。
ブンブンと首を振って、夏帆はお団子頭を揺らす。
「ちがうちがう! いま、あたしのこと『夏帆』って呼んでくれたよねっ!」
「……え?」
……私、いままで夏帆のことなんて呼んでたっけ?
自然と名前で呼んでいたことに気づき、私の頬は紅潮していった。
ニヤニヤする夏帆と目を合わせることが出来ず、私はうつむいてやり過ごした。
「ねぇ、もう一度、夏帆って呼んでよ!」
夏帆は私の赤面した顔を覗いてこようとする。
「いやだ」
「ねぇ〜、いいでしょ。減るもんじゃないし!」
だんだん声を大きくして、私の肩を掴んでグラグラと揺らした。
私は分かりやすく溜め息をついてから、細目で睨みつける。
「夏帆」
「はいっ!」
バシャッと水しぶきを上げながら元気よく夏帆が挙手した。
それに横目を流しながら、温泉を冷ますような声色で私はつぶやく。
「うるさいから黙って」
ハッと夏帆の表情が凍りつき、周りに目をやった。
小さな子どもやお年寄りまで様々な顔がこちらを向いていた。
「ごっ、ごめんなさい……っ!」
恥ずかしそうに赤らめた顔が湯船に沈んでいき、夏帆がブクブクと消えていく。
私はその沈みゆくお団子ヘアーをつかみ、
「髪を湯船に付けるのも禁止」
涙を流しているような嘆き顔の夏帆を引き揚げた。
温泉ではマナーを守って、静かに入浴しましょう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
温泉から上がった私達は、更衣室を出たところにある休憩スペースで腰を下ろした。
おずおずと夏帆が暗い表情のまま声をかけてきた。
「さっきはごめんね……」
そう言ってうなだれる夏帆。
私は子供を叱る口調で、
「以後、気をつけるように。マナーを守らない人とはもう温泉行かないからね」
軽くチョップを入れた。お団子をポンと叩かれた夏帆は「ぬぅ……」としょんぼりとした表情で反省の意を返した。
「でもね、それだけ嬉しかったんだよ。名前で呼んでくれたことが」
こちらの顔色を伺うように夏帆は上目遣いで見つめてきた。可愛げを出してもダメだぞ。
正面に向き直ってコホンと咳を入れる。
「もういいから。で、どこの温泉行きたいんだっけ?」
ピョコンと跳ねるように姿勢と気分を立て直し、夏帆がスマホを操作しはじめた。
「そう! 栃木にある有名な温泉らしくて」
栃木か。思えば北関東の方には行ったことがないな。
スマホを取り出して、大体の距離と所要時間を調べてみる。
片道200km。高速を使って3時間といったところか。
スマホ画面に目を落としていると、横から夏帆が元気よく割り込んできた。
「200回かけ湯するんだよっ!」
「わかったわかった」
手で制してまともに夏帆の相手をしないことにする。
だからそれは比喩的な表現だろ。温泉処からの「よーく、かけ湯しなさい」というお達しだと私は解釈した。
「本当だってばっ!」
私がまともに取り合わないことが不満らしく、夏帆はむーっと唸りながらふくれっ面になった。
「はいはい」と相づちを打ってやり取りを終わらせる。そして立ち上がりながら、
「じゃあ詳細はLINEで話しながら決めるとして、今日は帰ろうか」
帰路につくことを提案して、フロントに向けて歩きだした。
すると夏帆が「あっ……」と声を漏らし、
「ま、待って!」
後ろから私の腕を掴んできた。いつかの夜のように、至近距離に夏帆の顔がある。
私は身じろぎながら、
「な、なに? もう夜だし、夕飯もまだでしょ」
いちご大福が収納されたお腹を擦りながら空腹のジェスチャーをした。
夏帆は眉を寄せて目を伏せた。頬は湯上がりのおかげで紅潮しているように見える。
「ごめん。でも、今日こそは……と思ったから」
「なにが」
腕を握っていた手が離れていく。
「あ、あたし、サヤちゃんに……」
「私に?」
すぅっと深呼吸して、
「こ、告白したいんですっ!」
赤面の夏帆がそう訴えてきた。
「…………………」
私はどんな呆けた顔をしていたのだろうか。おそらく馬鹿みたいな表情をしていたに違いない。コクハクという単語の意味を理解しようにも、うまく処理が追いつかない。
肩に掛けていたポシェットを落としながら変な声が出た。
「……え゛?」
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