第二節 クローバー炭鉱のストライキ③

 路地裏は相変わらず薄暗かった。ヨルカは自分の吐いた白い息が青い空気に溶けていくのをぼうっと見つめた。白い模様はほんの一時も留まることなく形を変え、ゆっくりと消えていく。

「大丈夫か?」

 ヨルカは顔を上げた。ダニエルが彼女の顔を覗き込んでいた。

「何?」

「暗い顔をしているから」

「そうかな。別に何もないけど……。で、今日は何の話?」

 ダニエルは納得のいかないという顔をしながらも、懐から袋を取り出して彼女に渡した。

「少額だが金が入ってる。困ってる人の為に使ってほしい」

 ヨルカは微笑みを浮かべた。

「ありがとう。丁度怪我人を医者に連れてくための金が必要だったんだ。有難く使わせてもらうよ」

 ヨルカは金を受け取った。


 その翌日、ヨルカはピケに参加するために選炭所の前に姿を現わした。その日は夜中にスト破りとの間で殴り合いが生じ、ピケに参加していた数人が夜勤の警官に逮捕されたようだったが、朝になって人が入れ替わると諍いは収まっていた。警官とは違いピケやスト破りは人員の入れ替えの時間を特に決めていなかったが、夜の訪れや夜明けをきっかけにして家に戻ったり参加しに来たりする者が多かったので――それは普段の彼らの勤務上のルーティンに沿っていた――、その直前である明朝や夕方には長時間の睨み合いにしびれを切らした者たちによって暴力沙汰が起きることがままあった。

 交代したい人間はいないかと、ヨルカが選炭所前のピケラインに声をかけようとしていたとき、誰かが後ろから彼女に声をかけた。中年のジェグアの男だった。

「あんたに石をぶん投げた女の夫だよ。あんときゃ嫁がすまないことをしたな」

「良いよ。わたしがあの人の苦しみを汲み取れなかったせいだ。子供は?」

「それがな……。あのあと一時は調子が良くなって、これでもう安心だろうと思ってたんだが、昨日の夜突然高熱を出してな……。それも前の時よりひどくて、話しかけても返事も曖昧なんだよ。医者に見せたいが金がねえ。どうにか助けてはくれねえか」

 ヨルカは逡巡した。子供のことを考えると、ピケの参加者に呼びかけて金を集めるのは時間がかかりすぎる。ダニエルから受け取った金は一部アンナに届ける金の不足分を補うために使ったのみで、まだいくらか残っている。今は父親に盗まれるのを防ぐためにウィリアムに預けていた。

「分かった。ちょっと待ってて」

 ヨルカは男を炭鉱の門の前で待たせて、すぐさま街へ戻った。


 預けていた金をウィリアムの家で受け取ると、ヨルカは待っていた男にそれを渡した。

「ありがとう……ありがとう!息子が元気になったら、あんたも顔を見に来てくれ!」

 男はそう言いながら街へ戻っていった。ヨルカは男を見送った後、ピケに参加するため門をくぐった。


 男に金を渡した後、彼女はアンナのことや他の労働者たちのためにあれこれと動いていたので、男のほうに状況を尋ねに行くことは無かった。男のほうもヨルカの前に現れなかった。だが翌々日になって、一人の労働者がヨルカに声をかけてきた。

「あいつは俺の同僚でね。一昨日あんたらが話をしてるのをたまたま近くで聞いてたんだが」彼は顔をしかめていた。「昨日あいつが酒場で酒をしこたま飲んでるのを見たんだ。こんな状況で、あいつがそんな金を持ってるとは思えない」

 ヨルカは険しい顔をした。

「あんたあの人の家知ってる?案内してほしいんだけど」


 二人は男の家に向かった。戸を叩くと女が――以前ヨルカに石を投げた女が出てきた。

「あんたか。こないだは石なんか投げて悪かったね。あたしはどうにもカッとなりやすい性質でさ……。あやうく人殺しになるとこだったよ。すまなかった」

 女は疲れ切った顔をしていたが、異様に冷静だった。

「カッとなった程度で石投げるあんたもあんただけど、無神経に分かったような口をきくわたしもわたしだったよ。悪かった」

「それで、なんの用?」

「一昨日、あんたの夫に医者を呼ぶための金を渡したんだけど」

「金?あいつに渡したの?」

 ヨルカは俯いた。

「そうか、やっぱり知らなかったのか……」

 彼女は顔を上げた。

「子供の様子はどう?今からでもどうにかして金を集めるから……」「あの子はもう死んだんだよ……」

 ヨルカは思わず沈黙した。

「そりゃあいつに渡したらそうなるよ。あたしらを殴ったり暴れたりしないだけマシな亭主だと思ってたけど……。今思えばあいつほどクソッタレな人間、どこにもいやしないね。獣でももっと情ってやつがあるんじゃないのかな」

「あの男は今どこに?」

「さあ……。『故郷』って飲み屋かな。この通りを海の方向に下っていったところにある。そんなこと聞いてどうするの。もう全部、何もかもが終わっちまったのに」


 男の同僚を連れて、ヨルカは「故郷」へ向かった。ヨルカは店の戸を手荒く開いて中に入った。彼女は店全体を睨みつけるようにして男を探した。男は彼女から見て店の右端にあたる角のテーブルで、入り口に背を向けて座っていた。ヨルカは彼のテーブルの前まで歩み寄った。彼女はグラスを傾け喉を波打たせている男に話しかけた。

「てめえのガキの命で飲む酒は美味いか?」

 男はグラスをテーブルに叩きつけた。衝撃で酒瓶が倒れ中身がこぼれ始めた。

「俺だって好きでこんなクズ野郎になったんじゃねえ!どうしたら良いのか分かんねえんだよ……」

 男はそう言うとさめざめ泣き始めた。

「お前に泣く資格があると思ってんのか?なに被害者面してやがんだ!」

 男の同僚は彼を糾弾した。

「あの女が悪いんだよ!あいつが俺をここまで追い詰めたんだよ!」

 男は涙ながらに叫んだ。

「あの人はあんたを無条件で慰めてくれる奴隷じゃねえ、あんたの妻だろうが」

 ヨルカは静かに言った。

「じゃあ俺はどうしたら良かったんだよ?てめえでなんとかしろってんのか……?こんなまともじゃねえとこで酒に頼らずに正気で生きろってのか?」

 男は再びグラスに手を伸ばした。ヨルカは男の手から酒をひったくって男の頭の上にぶちまけた。グラスをテーブルに叩きつけると倒れている酒瓶を手に取り、残っていた中身を同じく頭の上にどぽどぽ零していった。酒瓶をテーブルに立てるとヨルカは入り口のほうへ向かい、店を出た。



◇◇◇



 ヨルカは沈痛な面持ちで家へ帰った。扉を閉めて顔を上げると、珍しくエイミーが一人で居間のテーブルの前に座っていた。

「話があるんだけど」

 エイミーが言った。ヨルカは彼女から目をそらした。

「エイミーが何を言いたいのかは分かってるよ。でもわたしは……」

「姉ちゃんは私たちの為でもあるって言ったけど、それってただの言い訳じゃない!あたしはこんなことしてほしくないって思ってるのに、姉ちゃんはあたしを無視して自分のやりたいことをする!でも……あたしはアニーがいるから何もできないんだよ。何かしようと思っても身動きが取れない。結局姉ちゃんは、母さんに全部押し付けてる父さんと同じじゃないか!」

 突如寝室でアニーが泣きだす声が聞こえてきた。それに気づいたエイミーは寝室へ戻っていった。ヨルカはしばらくの間、居間で一人突っ立っていた。


 真っ黒な夜空を、ところどころ雲が白く濁らせていた。家族が寝静まった後、彼女は自分のベッドの側の窓辺に置いた蝋燭に火をつけた。そして棚の中から手垢で汚れ、表紙の半ば破れかけた太い本を取り出して開いた。眠りにつく前に、ほんの少しだけこうやって教典を開くことだけが彼女の趣味だった。彼女は適当に開いた頁を読み始めた。


『アンドロの命じた通り、ギュノスは彼の肉体を解体した。そしてその際、密かにアンドロの口を盗んだ。奴隷は燃え盛るモミの木の森に隠れ、血の滴るそれを自分の顔の本来口のあるべきところに縫い付けた。奴隷は墓地に向かい、墓を掘り返して死体から口を切り取り、解体されたアンドロの肉の中に紛れ込ませた。奴隷は神造の人の肉体を神に捧げた。アンドロの肉によって勝利の神ティエラは再び肉体を得た。

 ティエラは人造の十二種族に言われた。「アンドロがお前たちのために受けた罰によって、お前たちの罪を赦す」と。大陸を覆っていた炎と洪水はお互いを飲み込んで消え失せた。ティエラは続けて言われた。「だがお前たちの口は未だ赦されてはいない。何故なら神造の人の女奴隷が私から盗んでいったからである。お前たちの口は、罪悪を愛する敗北の神ルナの門である。私を信じないものの口からはルナが現れる。ルナが大陸を満たしたとき、私はまた炎と洪水によって大陸を覆うだろう」と。

 また女奴隷はアンドロの口で人造の十二種族に語りかけた。「このルナの娘が自らの言葉を話すことは無いであろう。何故なら、この女の口は私の口だからだ」と』


 ヨルカは本をパタリと閉じた。蝋燭を見ると、殆ど長さが変化していなかった。普段であれば、気づいたときにはもっと短くなってしまっていて、母親に浪費を叱られるはずだった。彼女は蝋燭にふううと息を吹きかけた。まるで静かにため息でもつくかのように。



◇◇◇



 ダニエルが会議室の前を通ると、中から声が聞こえた。上の階級の警官が集まって話をしているようだった。彼は廊下を見回して、誰もいないことを確認した。

 ダニエルは会議室の扉に耳を近づけた。

『面倒だ。なぜ武力行使しない。あんな奴ら一人殺せば蜘蛛の子が散るように逃げていくだろうに』

『だから、そんなことすれば新聞やらにあることないこと書かれちまうだろうが』

『威嚇射撃くらいなら良いだろう』

『もうやってるよ。それくらいじゃうんともすんとも言わねえ。どうせ撃ちやしないと高をくくってやがるのさ』

『嘘の情報でも流してしまえば良いじゃないか』

 ダニエルはさらに扉に近づいた。

『具体的には?どうするんだ』

『スト破りがピケの奴らに殺されたことにすればいい。それの報復を理由にすれば世間様だって納得するだろう』

「何をしてるんだ?」

 ダニエルは後ろを振り返った。同じ二等巡査のイヴァンが、眉をひそめながらダニエルを見つめていた。


 ユリシーズは早足で廊下を歩き、事務室の扉を勢いよく開いた。彼は部屋の中を見回した。部屋の一角に人だかりのできているところがあった。その中心で椅子に座っているのは、ダニエルだった。ユリシーズはダニエルのもとまで一直線に歩いていって、彼の横っ面をぶん殴った。ダニエルは椅子から転げ落ちて床に背中を叩きつけた。

「最近やけに大人しいと思ったら……裏でコソコソやってやがったのか!」

 ダニエルは身体を起こした。手の甲で鼻血をぬぐってユリシーズを見た。

「随分動揺していますね、一等巡査。もしかして、ちょっとは信頼してくれてたんでしょうか」

「テメェ……!もう一発殴られてぇんか?」

 彼はもう一度拳を振り上げた。

「おい待て……。お前も謹慎したいのか?落ち着けよ」

 パブロがユリシーズの腕を慌てて掴み、ダニエルから引き離そうとした。



◇◇◇



 ヨルカはピケラインの中で立ちながら、警官たちの顔を一人一人確認していた。ダニエルの姿が見えない。

「……」

 ここ数日、彼女はダニエルの姿を見ていなかった。ヨルカと入れ替わりになるようにして仕事に出ているのかもしれなかったし、通常の業務に当たっていてここにはいないのかもしれなかった。だが、ヨルカに情報を漏らしていたせいで解雇されたりどこかで拘束されている可能性も否定できない。

「ヨルカ」

 呼ばれて彼女は振り返った。ランドスケープだった。

「少し話をしよう」


 彼らはピケラインからも警官からも少し離れた場所に立った。

「どうだった。ここで生きる人間達に真正面から向き合ってみて」

 ランドスケープはヨルカを見下ろした。ヨルカは目をそらした。

「わたしになんとかできることなら、誰かが……特にあんたたちみたいな人間がとっくに解決していたんだってことは、身をもって理解しました」

「後悔したかい?愚かだったと」

 ヨルカは両手の拳を強く握りしめた。

「しましたよ!とても!こんなに自分のことが嫌いになったのは初めてだ!何もできなかった……!」

 彼女は自分の口から出た声の大きさに驚いたように、肩を跳ねさせた。その拍子に目から涙がこぼれ落ちた。ヨルカは俯いて表情を見られないようにした。

「悔しい……。私は誰も助けられない!何も変えられない!私は……!」

 ランドスケープは右手を彼女に差し出そうとした。しかし彼女の肩に触れようとしたところで動きを止め、その手を降ろした。

「君は無力じゃない。君が無力なら私たち炭労連はもっと無力だ。君よりもずっと長い間この世界と戦っているのに、ほとんど何も変えられやしなかったのだから。フロントライン、この世界は君一人の力だけで変えられるほど、小さくはないんだよ。自分を責める必要は無い。焦る必要もない。君は今とてつもなく小さな、しかしなくてはならない一歩を進んでいるところなんだ」

 ランドスケープは話し終えると、ヨルカが落ち着くまで黙って待っていた。

「落ち着いたか」

「はい……」

 ヨルカは目を赤く充血させながらも、はっきりと答えた。

「ならこれからのことを考えよう。今一番の問題なのは今朝の新聞だ」

 ランドスケープはため息をついた。

「本当に私たちのうちの誰かがスト破りを殺したかどうかは分からない。だが警官にとっては、その疑いがあるというだけで充分なはずだ」

 新聞によれば、昨晩炭鉱街を巡回していた警官が、路地裏で死亡している一人の男を見つけたという。男の名前はジャック・キャットウォーク、スト破りの一人だった。キャットウォークは全身に打撲痕があり、明らかに誰かに暴行を加えられていたという。ヨルカは眉間に皺をよせ、歯を食いしばった。そして選炭所から数十メートル先で待機している警官たちを見た。

「今のところ動きは無いですけど。どうにかして無実を証明したりできないでしょうか」

「彼らはすぐにでも我々に銃を向けるだろう……。遅くとも、今日の夜までには。それまでにどうやって無実を証明するというのだ?そもそも、無実ではないかもしれない」

「仮に誰かがそのスト破りをリンチしたというのが本当だったとして、何故私たち全員が攻撃対象になるっていうんです?そんなのおかしい。殺した奴は罰せられるべきだけど、なぜ私たちまで巻き込まれなきゃならないんです?」

「権力と銃を持った奴を正論で説き伏せることができると思うのなら、是非やってみてほしいね」

 彼はピケラインを眺めた。

「そろそろ交代しないと。君はどうする?逃げるというのなら今だ」

 ランドスケープがピケのほうへ歩き始めたので、ヨルカは彼の後ろをついて歩いた。

「今更、逃げ出したりなんかしませんよ」

 彼らは警官とピケラインの丁度真ん中で立ち止まった。ランドスケープは少しの間目を閉じた。

「フロントライン。死ぬくらいならここから逃げるんだぞ。死んだらもう誰も救えないのだから」

 ヨルカは男の顔を見つめた。

「その言葉、そっくりそのまま返しますよ」


「昨晩、一人の哀れな男が死んでいるところが見つかった。彼の名はジャック・キャットウォーク、スト破りだった!」

 ユリシーズがピケを張る人々に向かって叫んだ。

「我々は貴様ら怠惰な愚か者共が勤勉な一人の男を殺害したことを確信している!」

 ピケラインから怒号が響いた。俺たちはやってねぇ、証拠を出しやがれ、まだ逮捕してねぇくせに!

「証拠探しが終わりゃすぐに逮捕してやるさ!貴様らも、今すぐここから立ち去るというのなら見逃してやる!だが……」ユリシーズはピケラインをねめつけた。「留まるというなら、俺たちは殺人鬼共の仲間には容赦しねぇぞ!」

 しばらくの間、張りつめた糸のような緊張が炭鉱を満たした。警官とピケを張る人々が睨み合ったまま小一時間が経過したとき、門の方向からやってきた一人の警官がユリシーズらの元へ向かい、彼らに何事かを伝えた。話が終わるとユリシーズはピケラインに近づいた。

「犯人が分かったぞ。ドミニク・ミッドナイト、レイモンド・ファイアファイター、フランク・バタフライ、お前たちがジャック・キャットウォークを殺した!」

 数人の警官がユリシーズを追い越し、ピケラインから男を三人引きずりだした。

「さあ、これでもう言い逃れはできねえぞ。ぶっ殺されたくなきゃさっさとここから立ち去れ!」

 ユリシーズが声を張り上げた。取り押さえられた男たちは俺はやってねえと叫びながら警官たちを振り払おうとした。

 ユリシーズは背負っていた銃を手にし、レバーを銃口方面に押し出してから身体の方向へ戻した。彼は銃口をピケラインにまっすぐ向けた。国内で開発された装填/排莢システムを実装した国産ライフルを持つドラコの男が、無防備な外国生まれの移民たちとその子孫を睨みつけている。

 ランドスケープが一歩前へ前進し、両手を上げて無抵抗を示した。

「止めてくれ!私たちはただ普通の生活を手に入れたいだけだ!」

 彼は声を張り上げた。

「おいおい馬鹿言ってんじゃねぇよ……。ここはドラコの国だぞ?!お前らのわがままが通る場所じゃねえんだよ!」

 ユリシーズは銃口を天に掲げた。タアンという大きな音が選炭所の壁を反響した。

「今のが最後の威嚇射撃だ!」

 ユリシーズは再びレバーを動かして次弾を薬室に送った。

「私達はただここで突っ立ってるだけだ!何も武器なんか持ってない!なのに撃つっての?!」

 ヨルカは非難の声を上げた。そうだ、その通りだと声がする。

 ユリシーズは舌打ちをした。彼はランドスケープに銃口を向けた。

「被害者面をすんじゃねえ、悪魔どもが!」

 銃声が響いた。ランドスケープの掲げた左の前腕から血しぶきが飛んだ。彼は両手を下げて左腕を押さえた。

「次はドタマぶち抜いてやらあ!」

 ユリシーズは排莢した。薬莢が宙を舞っている。彼は再び銃を構え、ランドスケープの脳天を狙った。ヨルカは目を見開いた。咄嗟に辺りを見回して、足元に落ちている彼女の拳ほどの大きさの石に目をとめた。彼女は石を右手で掴んだ。宙を舞っていた薬莢が地に落ち、カラリと音を立てた。

「うおおおおおおお!」

 ヨルカは石をユリシーズに向かって投げつけた。石はユリシーズの肩に直撃した。一等巡査はよろめき、ずれた弾道が選炭所のレンガ壁に弾をめり込ませた。すんでのところで地を踏みしめたユリシーズは唸る犬のような顔をしてピケラインを睨みつけた。

「やりやがったな!誰が投げた!」

 ヨルカは自分だと声を張り上げようとした。だが声が出なかった。彼女は左腕を押さえた。包帯はとっくの昔にほどいていた。彼女は歯を食いしばり、自分の手の平に爪を食い込ませて、再び顔を上げた。

「わたしだよ!次は顔面にぶち当ててやろうかクソポリ公!」

 ユリシーズが彼女に視点を定めた。獰猛な犬のような男が弾を装填してすぐ黒い銃口を彼女の眉間に向けようとした。その瞬間ピケラインから怒号を上げながら何人もの男女が飛び出した。ユリシーズは一瞬ひるんだ。彼は自分に向かって突撃しようとしてくる男の腹を撃った。男は前のめりに倒れた。すぐさま排莢したユリシーズはあとずさりしながらもう一人女を撃とうとしたが、引き金を引いても弾は出なかった。彼は舌打ちをした。

「弾切れかよ!」

 ユリシーズは咄嗟に銃身を両手で掴んで銃を振り回し、銃床で女の頭を殴ろうとした。女は前腕で頭を守った。彼女は銃の胴体をひっつかんでユリシーズから奪おうとした。ユリシーズが銃身を思い切り引っ張ったので女はよろけてユリシーズの背後に投げ出された。しかし別の男二人がユリシーズに襲いかかり、銃を奪った。

 ユリシーズの後ろに控えていた警官たちも既に発砲を始めていた。銃声が響くたび、ピケラインに並ぶ人間が次々倒れた。だが立っている者は皆怒号を上げて彼らに突撃していった。動揺して弾数を考えずに発砲し続けた警官たちの銃はすぐ弾切れに陥った。

「銃を奪え!弾を込めさせるな!」

「家からつるはし持ってこい!ドタマかち割ってやる!」

 誰かが次々に叫んだ。ヨルカは何もかも失敗したことを悟りながら、辺りに視線をめぐらせて考え込んだ。彼女は近くで血を流して倒れていた女に気づいて近寄り、腕を肩にかけて支えながら立ち上がらせた。

「目についた怪我人を病院まで運びながら逃げろ!戦って勝てる相手じゃねえ!」

 ヨルカは肩から血を流している女を連れてその場から駆け足で逃げはじめた。

「増援!増援を呼べ!」

 サンセットが叫んだ。ユリシーズは銃に弾を込めていた警官の元に駆け寄った。

「おいテメェ弾入ってるやつ貸せ!」

 彼は歯をむき出しにして怒りを露わにしながら、警官から銃を奪い取った。



◇◇◇



 ダニエルは自室のベッドに腰掛けて、じっと俯いていた。謹慎を言い渡されて数日が経っていた。唯一の出入口であるドアの向こう側には警官が一人いて、彼を見張っている。

 ダニエルは徐にベッドから立ち上がり、机の引き出しを開けた。彼は中に入っていたナイフを手に取った。


 ダニエルはカーテンにナイフを突き立てた。そのままナイフを下に引き下ろして布を裂き、再び上のほうに刃を当ててカーテンの一部を切り離した。彼は同じようにしてもう一枚切り取った。二枚の布切れを左手に持ったまま椅子に座り、机の上にあらかじめ置いてあった空き瓶を手に持った。

 ダニエルは布切れの片方の末端で空き瓶を包み込んで、しっかりと結んだ。ついでに瓶を固定するために、もう一枚の布切れをぐるぐると巻きつけておいた。

 彼はそれを持ったまま立ち上がって窓辺に寄った。窓を開けて顔を出した。隣の窓の位置を確認すると、布切れの瓶を包んでいる方を窓の外に垂らした。彼は掴んでいる布を振り回し始めた。包まれた瓶は彼の右手を中心として円形に回転した。タイミングを見計らった彼は右手を思い切り振って瓶を隣の窓に当てた。ガシャンと音がして窓ガラスが割れた。ダニエルは布から手を離して瓶を階下に落とした。

「おい!何だ今の」

 見張りの同僚がドアを開けてダニエルに問うた。隣の窓を見ていたダニエルは振り向いた。

「隣の窓ガラスが割れてる」

「何なんだ一体……。ちょっと外見てくるから、こっから離れんじゃねえぞ」

 ダニエルが布切れから手を離した瞬間を見ていなかった見張りは、そう言ってドアを閉めた。足音が聞こえなくなると、ダニエルはドアを僅かに開けて廊下の右手側を見た。廊下の真ん中に設置された階段から足音が響いている。ダニエルは部屋から出て左へ向かった。廊下の終わりにたどり着くと、建物の外に繋がるドアを開いた。彼は寒気に晒された非常階段に出た。


 ダニエルは目の前に広がる光景に立ち尽くしていた。炭鉱街は銃声とガラスが割れる音、誰かの怒号で溢れていた。まるで戦場だった。つるはしや包丁などを手に持った男女が彼の周りを駆け抜けていった。ダニエルが呆然としていると、目の前に灰色の煙が広がるとともに鼻をつく匂いがした。煙の漂ってきた方向へと目を向けると、炭鉱労働者が仕事に必要な備品を購入するための店――そこは彼らの少ない給料から更に金を搾取する象徴のような場所でもあった――が窓からもうもうと煙を吐いており、中からは略奪した商品を両手いっぱい抱えた男や女が飛び出してくるところだった。

「おい止めろ!盗みをやってる暇があったら早く家まで逃げろ!死にたいのか!」

 聞き慣れた女の声が聞こえた。ダニエルは声のほうを見た。ヨルカだった。偶然にもダニエルのいる方向に目を向けたヨルカは彼に気づいた。

「ダニエル?!無事だったのか!悪いけど怪我人を探し出して病院に連れて行ってやってくれないか!頼むよ!」

「何をしてるんだ」

 ダニエルは小さな声でつぶやいた。ヨルカはかろうじてその言葉を聞き取った。

「何って、見ての通りだよ!とにかくそこら中怪我人ばかりで」

「何がストライキだ!これじゃただの暴動じゃないか!」

 ダニエルは叫んだ。

「仕方ないだろ!あっちが先に撃ってきやがったんだから!死にたくなかっただけだ!」

「略奪が正当防衛だと言いたいのか!」

「わたしはやめさせようとした!警官ならあんたが逮捕しなよ!最も、あいつらが逮捕されるってんならわたしらを撃ったポリ公共も豚箱行きだけどね!」

 どこかから銃声が響いた。ヨルカははっとして辺りを見回した。 

「今はそんなことどうでも良い!」

 ヨルカはそう言ってダニエルに背を向けた。ダニエルは彼女に早足で追いつき、片腕を掴んだ。

「待て、ふざけるな。こんなのはおかしい」

「怪我人を病院に連れて行くことのどこがおかしいっての?」

 ヨルカはダニエルの腕を振り払った。

「殴られたら殴り返せば良いってのか!それじゃ憎しみが連鎖するだけだろ!」

「もっともらしいこと言うけど、そういうのはまず人を殴り殺そうとしてるやつを止めてから言ってくれよ!」

「ダニエル」

 ダニエルとヨルカは声のした方向を見た。ダニエルは名前を呼ばれたことで奇妙な感覚に陥っていた。彼は何かしらの違和感を感じたのだった。だがその違和感の正体を見つける暇は無かった。

 微笑みを浮かべたライムライトがダニエルの見張りをしていた警官を連れて立っていた。彼は懐から拳銃を取り出した。それを持ったままダニエルに近づき、彼に差し出した。ダニエルが困惑してライムライトを見つめたままでいると、彼はダニエルの手をとってその手のひらに拳銃を置き、握らせた。ダニエルはヨルカを見た。彼はこちらを睨みつけているヨルカに銃口を向けた。ヨルカは口を開いた。

「結局あんたもそちら側の人間だったんだね。ダニエル・レイクサイド二等巡査」

 ダニエルは引き金を引いた。

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