第三節 視覚的スティグマ③

 肩に柔らかく降り積もる初雪から逃れるようにして、ダニエルは屋敷の玄関屋根の下に立った。大きな屋敷だ。炭鉱街に立つ労働者らの質素な家とは比べ物にならぬほど、堅牢なつくりをしている。

 ルフェリ・ホワイトアウトの住むその家は、炭鉱街の隣町にあった。普段、州内とはいえ少し離れた郡にある兵舎で生活している彼は、休暇中の今はこの伯父伯母夫婦の家に帰省していた。休暇が終わってしまえば会おうにも距離があるし、何より規律の厳しい兵舎の中では人を招くこともできない。ルフェリが向こうへ戻ってしまう前に、久しぶりにゆっくり話でもしようと二人は約束していた。

 ダニエルは肩に乗った白い粉のような雪を軽くはたき落として、呼び鈴を鳴らした。少し待つと扉が開き、中から黄色い鱗をしたドラコの男が顔を出した。

「ダニエルさんですよね?実は、ルフェリは先程急用で出かけてしまいまして……。少しお待ちになっていただいても?」


 ダニエルは応接室のような部屋に通された。しばしの間待っていると、先程のドラコの男――この家の使用人であるシャノワールが現れた。彼はコーヒーを盆にのせて運んできた。

「寒かったでしょう。コーヒー入れましたんでどうぞ」

 ソーサーがことりと音を立てた。

「ありがとうございます」

 シャノワールは持っていた盆をわきに抱えた。

「貴方も大学を退学なさったんでしたよね」

 一瞬の沈黙が降りた。

「ええ、まあ」

 ダニエルはかろうじてそう言った。するとシャノワールは「不躾なことを聞いてしまってすみません」と早口で謝罪した。彼は真剣な顔をして話を続ける。

「ルフェリも自分の退学のことでいろいろ思うところがあったようだったので、あなたのような同じ立場の友人がいるのは心強いだろうなと。私は大学に行くことができるような人間じゃありませんでしたので、そういうところはどうにも分かってやれないのです」

「そうでしたか」

 ダニエルが口元に笑みを浮かべたので、シャノワールも少し表情を崩した。

「彼は丁度俺がこの家で働き始めた頃にこの家に来たんです。ここに来て日が浅い者同士だったので、俺のほうは何となく彼に愛着が沸いちまったんですね。それでいろいろ心配してるんです。昔は彼もよく俺のところに来たものだったなあ。子供のころはよくイマニュエル――ルフェリの伯父ですね――に叱られて泣いて使用人の部屋まで来たもんです。あんまり可哀そうなので内緒で菓子を差し出したりなんかしたものでした。そうすると泣きながら頬張るんですよ」

 ダニエルはくすりと笑った。

「あの男にもそんな可愛らしい子供時代があったとはね」

 その後も少しの間談笑を続けていると、外から足音が聞こえてきた。

「ああ、どうやら帰ってきたみたいです。少々お待ちを」

 彼はそう言って部屋の扉を開き、外に顔を出した。

「ルフェリ、ダニエルさんが来てますよ」

 彼は扉から顔を出したまま声をかけた。足音がこちらに近づいてきて、上着の肩に雪を乗せたルフェリが部屋に入ってきた。

「すまないな、約束していたのに」

「別にかまわないさ、このくらい」

「シャノワールも、急な頼み事をして悪かった」

「お気になさらず」

 ルフェリはふとシャノワールの顔をじっと見た。

「何です?」

「きさま、また俺の知り合いに俺のガキの頃の話をしたろ」

 彼は不満げな顔で言った。まるで弟が兄に何かごねるときのような声だった。

「してませんよ!ねぇ?」

 シャノワールは振り向いてダニエルを見た。

「え?ああ……」

「まったく、いつもいつも、俺の気も知らないで!ダニエル、俺の部屋に行こう。おまえはもうそうやって人の昔話をあることないことペラペラ喋るんじゃないぞ、シャノワール!」

 彼はそう言いながらダニエルを連れて部屋の外へ出、階段を降りた。シャノワールは苦笑いをしていた。


 二人はルフェリの自室にいた。向かい合って座る彼らの間で、コーヒーの入った二つのカップが湯気を立ち上らせていた。

「仕事のほうはどうなんだ」

 ダニエルの正面に座るルフェリは、カップを持ちながらダニエルに問いかけた。

「そうだな……」

 ダニエルはその問いに、コーヒーカップに口をつけつつ横目に窓の外を見た。雪を吐き出し続けている空は灰色をしていた。先刻よりも雪の量が増えているようだった。

「何か気になることでも?」

 ルフェリは持ち上げていたカップに口をつけないまま、再びソーサーに戻した。ダニエルは窓に向けていた目を少しの間彷徨わせてから口を開いた。

「初めてこの街に来た日、ガタの男が盗みを働いてるところを見たんだ。その後すぐ捕まって、警官に一方的に殴られていたから間に入った」彼は息継ぎをした。「そりゃ盗みをやるのは悪いことだよ、だがそのガタの男にも盗みをやらなきゃどうにもならないような事情があったんだと思うし、何より警官の仕事は犯罪を取り締まることであって、人間を殴ることじゃない。それに俺は、その男の顔を見たとき」

 言葉が途切れた。ダニエルはそっとルフェリの顔を見た。

「なあルフェリ、お前もヴァーブなんだろ?」

 ダニエルはルフェリが息を飲んだのが分かった。

「いや、だから何だっていうことが言いたいわけじゃない。ただ俺は」

 ダニエルは心なしか早口で言った。ルフェリは依然として身体を強張らせていた。彼はダニエルから目をそらして、小さく息を吸った。

「子供の頃はヴァーブの村で暮らしていたよ。母が死んでから伯父の家に引き取られたんだ」

 ルフェリはダニエルをほとんど睨みつけるようにして見つめた。

「俺は奴らが嫌いだ。あんなところで野蛮な生活を続けているからユーゴニア人から馬鹿にされるんだ。俺はあいつらとは違う」

「そこまで言うこと無いだろう。お前にとっては故郷じゃないか」

「お前にとって俺は同じ国の人間じゃないのか?」

「そんなこと言ってないだろう。どうしたんだ」

 ルフェリは椅子から立ち上がった。

「俺は……見た目がドラコらしくない分努力を重ねてきた。改宗もしたし、たてがみも伸ばした。不真面目なドラコよりもずっとドラコらしく生きてきた。今更過去のことを持ち出さないでくれ!」

 ダニエルが黙ったままルフェリのことを見ているので、彼は途端に冷静になった。

「突然大きな声を出してすまない」

 彼はそう言いながら腰を下ろした。

「いや、俺が悪かったよ。無神経だったな。でも俺は、お前は立派なユーゴニア人だと思ってるよ。それは本当だ。だってお前は市民権だって自分で獲得したじゃないか。本当の意味で国家から認められたユーゴニア人だってことだろう?」

 ルフェリは今度こそ肩の力を抜いた。窓の外では、吹雪が強まっていた。



◇◇◇



 ヨルカは土と混じってぐっしょり汚れた雪の上に立っていた。竪坑櫓から母親が出てくるのを待っているのだ。彼女たちは働いている時間こそ同じだったが、別々の坑道で働いている。仕事終わりには大抵早く切り上げたほうがもう片方を待ち、共に家に帰るのだ。

 しばらく待っていると、上がってきたカゴの中から人が何人か出てきた。皆ヨルカと同じように炭塵で真っ黒だったが、ヨルカにはその中に母親がいるのがすぐ分かった。ここで働いていれば、親しい人間が顔も判別できぬほど汚れていたって、相手が誰かすぐに分かるようになる。

「最近は駄目だね。全然採れない」

 ヨルカの元へ来た彼女の母親――エレンはそういってため息をついた。二人は門のほうへ歩き始めた。

「このままだとフレデリックを働かせなきゃならなくなるね」

「やめてあげてよ。勉強熱心な弟を学校から引き離すのは胸が痛むし。その前に父さんを坑道に引きずり込むべきだよ」

「んなことしようとしたらどうせ、また家じゅうのものをひっくり返して酒場に逃げ込むだろうに」


 ヨルカが母と共に家に帰ると、先に学校から帰って来ていたフレデリックがいた。別の部屋からは赤ん坊の泣き声と、それをあやす女の子の声が聞こえた。フレデリックの二つ上のエイミーが妹のアニーの世話をしているのだ。ヨルカは暗い顔になった。彼女は、エイミーのことを思うといつも唇を噛んでしまうのだった。

 フレデリックは母と姉が帰ってきたのを見ると、食卓の上に置かれていた折りたたまれた紙を手に取って母に差し出した。

「さっき男の人が来てこれを親に渡せって」

 母はそれを受け取って開いた。紙には五つほどの言語で同じことが書かれているようだった。彼女は舌打ちをした。

「また組合か!いくら誘ったって入らないよ」

 彼女は苛立ちながら紙をびりびり破って暖炉に放り込んだ。

「まったくあいつらときたら、文句を言う暇があったら少しでも働いてみたらどうなんだね。不満ばかり垂れていたってどうせ何も変わりやしないのに」

 紙は暖炉の中で端から徐々に真っ黒になり、炭に紛れていった。


 別の日、母親は坑内で負傷した同僚の見舞いに行く用事があったので、ヨルカは先に一人で家へ帰ることになった。

 門を出ると、雪が降りしきる中一人の男が行き来する人の群れの真ん中に立っていた。

「炭労連です!組合への加入をお願いします!」

 彼はそう繰り返しながら、行き交う人々に向けてビラを差し出し続けていた。

 炭労連――エーデルワイス炭鉱労働者連盟/United Coal Miners of Edelweissは、エーデルワイス州の炭鉱労働者のための合同労組だ。この男は、炭労連に加入しているクローバー炭鉱の労働者なのだろう。

 ヨルカは早歩きで男の傍を通り過ぎようとした。しかし男はヨルカにビラを一枚差し出した。

「ちょっと待って!受け取ってもらうだけで良いから」

 ヨルカは男のビラを差し出す手が行く手を阻んだために立ち止まらざるをえなかった。彼女は男の手からビラをひったくり、両手でぐしゃりと丸めると、男に投げつけた。紙のかたまりは驚いて眼をぎゅっと瞑る男の頭で跳ねて、地に落ちた。

「アンタらは組合に入った奴らから金をむしり取るだけ取っておいて、何の役にもたちやしない!」

「むしり取るだなんてとんでもない!会費を設けてるのはアンタたちを助けるためだし、必要最低限だよ!」

「そんなもん口先だけだ!アンタらがわたしたちの為に何をしてくれたっていうんだ?言ってみな!」

「いつだってしているさ!俺たちは賃金を上げようと、労働時間を短縮しようと、坑内の安全性を確保しようと努力しているとも!」

「その努力とやらが実を結んだことが今まであったか?」

 男は少し傷ついたような顔をした。ヨルカはかまわず立ち去ろうとした。

「君はエレン・フロントラインの娘だろう?だったら昔の彼女が俺たちにとってどういう存在だったか知ってるはずだ!何故組合を嫌うんだ?」

 男が彼女の背中に向けて叫んだ。

「その話、母さんにしてみなよ。アンタをぶん殴るだろうから」

 ヨルカは歩きながら振り返り、そう吐き捨てた。

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