第三節 視覚的スティグマ②
図書館の窓は夜闇に塗りつぶされていたが、自習室は空席のほうが少ないほどだった。
学生たちは試験を一週間後に控えていた。自習室を利用している学生のうちの一人――ダニエルは伸びをして、凝り固まった筋肉をほぐした。顔を上げたことで周囲が目に入った。彼は銘々に教科書やノートに向かう人々の中に、こちらに背を向けて座る知人の姿を見つけた。
ルフェリ・ホワイトアウトだ。
知人といっても、ダニエルは彼とは殆ど話したことが無かった。医者の家系の生まれであり、自身も医者を目指しているということを人づてに聞いた程度で、それ以上彼の個人的な情報は知らない。数百人はいる同級生の中で友人でもない彼の名前と顔を覚えていたのは、印象に残る男だったからだ。授業では冴えた質問を教授に投げかけるところをよく見るし、何よりドラコではない学生自体珍しい。ダニエルだけでなく、サフラン大の生物学部生ならば皆名前と顔くらいは知っているような有名な学生だった。
ダニエルは時計を見た。帰宅の時間を5分過ぎたところだったので、彼は教科書やノートを鞄にしまい込んで席を立った。去り際にもう一度ホワイトアウトのほうを見ると、彼は青い鱗をした手でノートに何かを書き込んでいるところだった。
ダニエルはその週、図書館へ来るたびにホワイトアウトを見かけた。彼はダニエルが自習室を去る時間になっても、机に向かったままだった。もしかすると、毎日閉館間際まで粘っているのかもしれない。
試験の前日も、ダニエルは図書館に詰めていた。時計の針は、普段であれば家で母親の残しておいてくれた夕食を食べている時間をとっくの昔に過ぎていることを示していた。彼はため息をついて筆記具を机に置いた。天井を見上げてしばらくぼうっとする。それからふと周りを見た。相変わらず夜だというのに学生たちが缶詰状態であった。ダニエルはその中に、またホワイトアウトを見つけた。
彼はペンを持ってはいたが手が止まっており、うつらうつらとしていた。連日夜遅くまで勉強している学生たちの中には、ついつい居眠りをしてしまう者も少なくはない。ダニエルも、数刻意識が飛んでいたなんてことは飽きるほど経験していたし、周りに目を向ければ机に突っ伏している学生の姿がちらほら見えた。ダニエルは少しだけ頬をゆるめながら、再びペンを手に取った。
司書が自習室に来て、閉館時間が近づいているからそろそろ出て行くようにと言った。学生たちはそれぞれ切りの良いところで席を立ちはじめた。ぽつぽつと空席が増えていく。ダニエルもペンを置いて帰宅の準備をしはじめた。鞄を持って自習室を出ようとしたとき、ふとホワイトアウトの方を見た。彼は椅子の背にもたれかかって目を閉じていた。手から滑り落ちたらしいペンが机の上にころりと転がっている。どうせ司書が戻って来て残っている学生に声をかけていくだろうから、そのまま放置していれば良かったのだが、ダニエルは何故か気になった。彼はホワイトアウトの席まで歩いていって、とんとんと軽く肩を叩いた。白い毛に覆われた両瞼の下から、金と青の瞳が現れた。
「もう閉館だぞ」
ホワイトアウトはダニエルの顔を見、瞬きをした。
「ああ…すまない」
ホワイトアウトは机の上に広げていたものを片付けはじめた。ダニエルは、なんとはなしに彼が鞄を手に持つまでその場で待っていた。そして同じタイミングで出口に向かい始めた。
階段に差し掛かったとき、ダニエルは口を開いた。
「あんたが勉強中に居眠りするなんて、意外だったよ」
「……」
ホワイトアウトは黙ったまま階段を下りた。ダニエルは彼が他人と勉学に関連した事柄以外について話しているところを見たことがなかったので、あまり気にしていない様子でその後ろを歩いた。
階段が終わり、彼らは出入口のある一階にたどり着いた。
「別にそんなに頑張らなくても良いんじゃないか?単位取れれば同じだろ」
目の前の背中が唐突に立ち止まったので、ダニエルはあわてて脚を止めた。大理石の床と靴底がこすれてキュル、と金切り声を上げた。ホワイトアウトはダニエルを見ていた。その猫のような顔は端正で美しかった。
だがそれは、ドラコたちの信じる「標準」に沿った美しさではない。
「俺は完璧でなくてはならない。お前とは違ってな」
ダニエルは一瞬遅れて、眉間に皺を寄せた。
「はあ?」
ダニエルが喉の奥から低い声を出したときには、ホワイトアウトは既に歩き出していた。
テスト期間はまだまだ先で、自習室の人気は少なかった。流石に常日頃からここを利用している学生は少ないらしい。その少ない学生の中の一人であるダニエルは、読んでいた本――それはその日、朝一番の授業で教授が推薦していた本だった――から顔をあげ、前方に座るホワイトアウトの背中をちらりと見た。ホワイトアウトが普段から自習室を使っていることをダニエルが知ったのは、彼自身がここを日々の勉強のために利用するようになってからのことだ。図書館の帰りに彼と話してから、二度テスト期間があった。彼らは一つ上の学年に上がっていた。
一度目のテストの終わりに成績評価が出ると、ダニエルはホワイトアウトに「成績通知書を見せろ」と言った。ホワイトアウトは大人しくそれを彼に差し出した。彼はひどく堂々としていた。
実際、ダニエルが自分の成績通知書とホワイトアウトのそれを比べてみると、その差は歴然だった。
とはいえ、そのときのダニエルには余裕があった。まだ本気を出していなかったからだ。だからダニエルは、テスト期間に詰め込んで勉強するのではなく、普段から全力で勉学に励むことにした。自習室を普段から使うようになったのは、そのときからだ。
次にホワイトアウトに成績通知書を見せてもらったとき、初めてダニエルは焦った。ダニエルとホワイトアウトが図書館に詰め込んでいた時間は殆ど同じだった。ダニエルの成績はかなり上がっていたが、それでもホワイトアウトに勝つほどではなかったのだ。
目が、文字の上をふわりと滑っていった。ダニエルは上を向いてため息をついた。数日にわたる寝不足は彼の瞼を重くしていた。彼は二度目の試験でホワイトアウトに負けて以降、それまで以上に長く図書館に籠るようになっていた。幼い弟はそれを寂しがっているようだったが、それでも彼が図書館通いをやめることはなかった。
ダニエルは、自分でも気づかぬうちに机に突っ伏していた。
ホワイトアウト――ルフェリは、後ろを振り向いてその様子を見つめていた。
閉館時刻が近づいていた。荷物をまとめて座席を立ったホワイトアウトは、ダニエルの肩をつついた。
「うう……」
ダニエルは呻きながら頭を上げた。
「もう閉館だぞ」
彼は声の主を見上げて目を丸くした。
「何だ」
「いや、別に……」
ダニエルはぶっきらぼうに返した。ホワイトアウトは彼が本を鞄に突っ込むのを、隣でじっと見ていた。
踊り場の窓の外には夜空が広がっている。ホワイトアウトはダニエルの後ろを追うように階段を降りた。
「単位取れれば同じなんじゃなかったのか?」
彼はダニエルの背中に向けて言った。
「なんでそんな細かいこと覚えてんだよ」
ダニエルは不機嫌を隠さなかった。
「根に持つタイプなのでね」
「生憎、俺もなんだよ」
受付の前を通り過ぎたところで、ダニエルは振り返った。
「気に入らないが、お前が相当努力家だということは分かったよ」
ホワイトアウトは瞬きをした。そしてダニエルの隣に並んで歩き出した。
「俺の身体点数はいくらだと思う?」
ダニエルは眉をひそめた。普通、自分の身体点数がいくらかなんてことは人に聞かない。容姿に関わる、ひどく個人的な事柄だからだ。だが本人が堂々と聞いてくるなら構わないかと、ダニエルは彼を無神経にじろじろ見回した。そして彼がどの程度ドラコ的な容姿をしているのか分析した。大きく立派な角は生えているか/ドラコらしい美しい顔立ちか/歯の形状や本数は/耳の形は/目の色は金か、それとも橙か/瞳孔は切り傷のように鋭いか/全身をつややかな鱗に覆われているか/爪の形状は/尾は太く長いか/尾の末端には輝く飾り羽があるか。
実はこれこそが、大学におけるダニエルの専攻分野だった。
――種族生物学。
それは人間を外見的特徴や骨格によって「科学的に」カテゴライズし、ドラコという種族の「普遍的優越性」を証明することを試みた学問である。現代ではすでに、種族差別とジェノサイドを推進した科学の汚点として歴史の教科書に名を刻まれている。だが少なくとも、ダニエルやホワイトアウトの生きたこの時代には、誰もがこの学問の客観的正当性を信じていた。種族生物学が当たり前のものとして受け入れられていたこの時代に生まれて、それを疑問視したり批判することができた人間はほんのわずかだっただろう。のちの時代の人間から見れば矛盾をはらんだ狂気的な思想であっても、それが普遍的な概念として受け入れられていた当時の人間自身がそれに疑いの目を向けることは、非常に難しいことだ。だがそれは、言い訳にはならない。
「5.5点?」
「ほぼ正解だ。では、国籍法では何点から帰化が認められているかは知っているか」
「国籍法……。ああクソ、思い出せねえ」
彼は頭の後ろを掻いた。種族生物学は生物学の一分野とはいえ、大学ではそれに派生する知識として国籍法について学ぶ機会もある。国籍法における身体点数の規定というのは、種族生物学の「成果」そのものなのだから。
「7点だ。普通は知らないだろう。初めから市民権を持っている人間には関係のない話だからな」
悔しがるダニエルに対して、彼は冷静に言い放った。
「じゃあアンタ、市民権持ってないのか」
「いいや。身体点数は満たせなかったが、生活態度や国家に対する忠誠心を評価されて、市民権を認められた」
ホワイトアウトはダニエルを見た。
「努力すれば誰でも報われる、それがユーゴニアだ」
ホワイトアウトの顔は、自信に満ち溢れていた。
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