試練の前

「……ああ、良かった。勇者さま。接触したこの感じからすると、無事に寂寥の湖にたどり着かれたのですね。でも……やはりかなりお疲れのご様子です。無理も無いですわね。まだ慣れない状態で魔物と戦うのは負担が大きかったと思います。でも、その湖の周囲の場所ならもう魔物は出現しないはずです。私の声が届くということは聖なる力が及ぶ範囲に入られたということですから」


「ところで、あの……、先日はお話の途中で私の声が途切れてしまって申し訳ありませんでした。実は三日三晩続いた召喚の儀式のために力を使い果たし、私、意識を失ってしまったのです。……恥ずかしいですわ」


「ああ。私の身を心配して気遣って下さるのですね。はい。もう大丈夫です。ありがとうございます。勇者さまは心優しくていらっしゃるのですね。勇者さまのここまでの道のりの方が私などよりずっと大変だったでしょうに。あら、そんな謙遜されなくても。何度も危難を乗り越えてこられたことは分かります。初めて心に呼びかけた時よりもずっと成長されたことを感じられますもの。そうですね。今の勇者さまはファーラに詰めている兵士と同じぐらいの力は既にありそうです。この短期間でそこまでの力を身につけたことは凄いと思います」


「そうそう。兵士といえば、勇者さまの到来をみなに告げてからというもの、戦いの際には勇者さまのお名前を皆で一斉に唱えています。勇者さまのお名前を唱えると勇気が湧いてくるのだとか。こちらの者には耳慣れない珍しいお名前で、口にする際にはちょっと少し難しそうにしていますけど、いずれよどみない発音になっていくでしょう。この場所へ勇者様が到達されるころには、滑らかになっているはずです。絶望に打ちひしがれていた者たちの瞳にも光が戻ってきました。勇者さまのお陰で士気も高まっています。この調子なら聖地ファーラもまだしばらくは持ちこたえることができそうです。本当にありがとうございます」


「それを言うなら勇者さまが私の声を聞くと元気が出てくる、ですって? 耳に心地よい声だなんて……。勇者様、困惑されていらっしゃいますか? 考えていることが漏れてしまうのは困ると。そうですわね。よく分かります。私も心の中の思いをすべて知られたら困りますもの。あら、何でもありません。ええと……ご心配にならなくても大丈夫です。勇者さまのお考えがすべて私に伝わるわけではありません。強く思ったことしか分かりませんから」


「それでも困ると……。それでしたら、第一の精霊の試練を乗り越えて頂くしかありません。そうすれば、勇者様のお声が私に聞こえるようになります。お声の方が強く伝わりますので、大きな声がささやきをかき消すように、よほど強く思いつめない限りは、お心の内が私に伝わることは無くなるはずです」


「勇者さま。試練の内容はなんだろうとお考えですね。やはり気になりますか? いえ、気になさるのは当然ですわ。残念ですが、それを私がお伝えすることはできないのです。そもそも私も詳しい内容は存じません。お教えできるのは、第一の精霊は水の精霊だということと、勇者さまの耐え忍ぶ心を試すものというぐらいでしょうか。あ、勇者様の目の前に何か出てきました?」


「……美しいですか。そう……。勇者さまも男性ですものね。きれいな女性の姿を見ると心が動くのですね……。確かに水の精霊は麗しい容姿をしているとうたわれていますけど、この私だって……。こほん。なんでもありませんわ。忘れてくださいませ。それでは、声をお送りするのを一度中断させていただきます。試練には集中して臨んで頂きたいですから。でも、これだけは覚えていてくださいませ。私の心は常に勇者様と共にあります。ご武運をお祈りしています」

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