衝撃

 学校が終わり、彩夏は帰途につく。

 高い石造りの塀と鬱蒼と生い茂る樹木に囲まれた細長い路地。

 通り抜けたその先を想像しただけで、自然と笑みが零れ足取りは速くなっていく。

「ただいま!」

 悲しみの波紋が胸の中に広がっていく。

 虚空を見つめる彩夏は、その場に立ち尽くした。


   

『ただいま……ミィ、今日も待っていてくれたの』

 塀の上に佇むのは、宝石のように美しいアクアマリンとエメラルドを宿すオッドアイの白猫ミィ。

 いつものように彩夏と白猫ミィは、額をくっつけ合ってお決まりの挨拶を交わす。すりすりと彩夏の頬に顔を擦りつけ甘える白猫ミィ。

 それは、まるで恋人同士のような一人と一匹の仲睦まじい光景だった。

『さあ、一緒に帰ろう』

 塀の上でピンと尻尾を立て少し先を歩くミィは、足を止めてはこちらに振り返る。 彩夏がはぐれたりせずちゃんと後をついてきているか確認しているかのよう。

 その美しく優しい眼差しは、いつだって彩夏だけに向けられていた。



「……」 

 いつも白猫ミィが彩夏の帰りを待っていた木造の塀。

 虚空に白猫ミィの姿を見ては、現実に引き戻される彩夏。

 あれから一年近くの月日が経つというのに、この癖は抜けないままだった。

 時折、とてつもない寂しさと虚しさに襲われる。白猫ミィを失い孤独を知った。


「ただいま……」

 ――自宅はいつだって気が重い……

「ああ、お帰り彩夏」

 祖母だけがあたたかく迎えてくれた。

「はぁ……」

 彩夏は大きなため息をつく。ため息をついたところで変わることのないこの現実。

 リビングに入ると、どことなく違和感を覚えた。

 ――何だろう……いつもと何か違うような……

 あたりを見渡すと違和感の原因を理解した。

「え――?」

 ――本棚がない……

 今朝まであった本棚がない分、広く感じたのだ。その本棚には彩夏の思い出が詰まっていた。小学生の頃からお年玉や滅多に貰ったことのないお小遣いを少しずつ貯めては買い集めたコミック本や、アルバイトで稼いだお金で買い集めた小説、叶うことのない夢と希望が詰め込まれた専門書籍までもが、本棚ごと忽然と消えていた。

 胸騒ぎを覚えた彩夏は、本の行方について祖母に質問を投げかけた。

「ねぇ、おばあちゃん、ここにあった本棚どこにやったの?本棚ごとなくなっているけど、本はどこにある?」

「ああ、本当だ。本棚がなくなってる。今日は昼過ぎから町内の集まりに出かけていて、さっき戻ったところだけど……」

 二人で驚きの表情を浮かべた。母の仕業と思った彩夏は家中探したが、本は見つからなかった。

「彩夏、夕飯の支度ができたから先に食べなさい」

「うん……後で食べる……」

 食事どころではなかった。彩夏は母の帰りを待つことにした。

 二十一時をまわる頃、車のエンジン音がした。彩夏は居ても立っても居られず玄関で母を迎えることにした。相変わらず両親は、帰宅早々口喧嘩をしながら家の中に入ってきた。今日も父はお酒に酔っぱらっていて母はイライラしていたため、本のことをすぐに聞き出すことができなかった。

 いつものように、リビングでは父が家族に暴言を吐いてあたり散らかしている。

 母は彩夏を睨むような目で見てきた。

「お母さん、ここにあった本、どこにやったの?」

 母に質問すると、母は口元に薄ら笑いを浮かべて答えた。

「ああ、それね……最近寒いじゃない。今日工場の外で巻き代わりに燃やしたわよ」

 彩夏は耳を疑った。

「え……?巻き代わりって……本を燃やしたっていうの⁉お母さん、どういう事⁉」

 なぜかこの時、とある歴史映画の一場面が脳裏に浮かんだ。権力者が特定の思想や言動の自由を弾圧する目的で、書物を炎の中に投げ入れ処分する焚書ふんしょの光景が。

「よく燃えたわよ」母の口調に彩夏はゾクりとする。

 母の考えに沿わないものは処分の対象とでも言いたいのだろうか。

 これまで欲しいものも我慢し、少ないお金を工面して買い集めた本たちが断りもなく勝手に燃やされてしまった。

「どうしてそんなことをするの⁉」

 いつになく彩夏は母に楯ついた。

「あんなものがなんだっていうの。邪魔でしょうがないから処分してあげたのよ」

 彩夏の大切にしてきた本たちを『あんなもの』扱いする母を彩夏は軽蔑した。

「お母さんにとっては『あんなもの』かも知れないけど、私にとっては大切な宝物だから!」

 母に食い下がる彩夏。

「あんなもの、あんたと一緒で何の価値もないでしょ。だから処分したの」

 母の言葉は鋭利な刃物となって彩夏の心臓を貫いた。

『何の価値もない……だから処分した……』残酷なまでの言葉は、彩夏の頭の中でこだまする。

 ――私は母に……私の心を……存在までもが……焚書されたのも同然だ……!

「お母さん!」と言いかけたところで大きな物音がして彩夏は肩をすくめた。

「お前ら!うるさいんだよ!」

 彩夏と母の言い争いに父が切れたのだ。割れた破片を拾う祖母の手が震えていた。

「彩夏が生意気だから叱ってよ!」

 母の一言に反応した父は、彩夏に容赦なく拳を振り上げ殴りつけた。

「――っ!」

 ――まただ……いつだってそう……

 母は何か気に食わないことがあると父を使って彩夏を痛めつけるのだ。

「――うっ!」

 鈍い衝撃音と共に激痛が走る。彩夏が父の暴力を受けている間、母は一緒に楽しんでいるようにも見えた。

 ――なんて気の毒で残念な人たちなの……私はいつまでこれに耐えなくてはいけないの?私、何か悪いことでもした?私、何か間違っている?ねえ、誰か教えて……

「うぐっ――!」

 背部を叩かれ息が出来ない。呼吸するのもやっとな状態だった。

「はぁ……はぁ……」

「健一!もうやめなさい!これ以上やるなら私を殴りなさい!」

 祖母が彩夏を庇うように覆いかぶさった。

 ――もう嫌だ……こんな日々を送るくらいなら死んだ方がまし……!深彗君……私もう、ダメみたい…… 

『彩夏……苦しい時、我慢をしなくていいんだよ……困った時、助けを求めていいんだよ……君は一人じゃない……』

 深彗の言葉が、彩夏の頭の中でこだまする。

 ――深彗君……?

 彩夏は勇気を振り絞り立ち上がった。父と間合いをとると突然大声をあげた。

「誰かー!助けてー!助けてください!父に暴力を振るわれています!」

 父と母に当てつけのように大声を張り上げた。彩夏が初めて行った精一杯の抵抗だった。呆れた父は拳を下ろしリビングを出ていった。

 彩夏は、糸が切れた操り人形のように膝の力が抜けその場にしゃがみ込んだ。

「彩夏!随分なことしてくれるじゃない!」

 こう見えて世間体を気にする母は、彩夏の行動が気に食わなかったらしい。

 突如彩夏の左頬に耳がびりびりと震える衝撃が走った。同時にバシーンと何かが炸裂する音は、母が平手で彩夏の頬を打った音とすぐには分からなかった。

 ピリピリとした痛みが左頬を覆いつくし、頬は熱く腫れあがっていった。

「もうやめなさい‼」

 止めに入る祖母を母は睨みつける。

「彩夏はあなたがお腹を痛めて産んだ子でしょ?忘れてしまったの?それに、あなたが彩夏を傷つけるたびに、この子はあなたからどんどん離れて行ってるってことにどうして気づけないの‼」

 祖母が母を叱りつけた。

「お母さんはいつだってそう……私から大切な物を奪うばかり……私の欲しいものを何一つ与えてはくれなかった……困っていても手を差し伸べてなんかくれなかった!そんなの親じゃない‼」

 彩夏は今まで言えなかった感情を生まれて初めて爆発させ、悔しさに唇を噛みしめた。

「ああ、そういえば……言ってなかった。あの日ドライブでもと思って、車に乗せて工場に連れていったの。なのにあの猫、車の中で怯えてパニック状態になって大変だったんだから」

「あの猫……?」

 突然の話に、彩夏は母が何を言っているのか理解できなかった。

「工場に着いてから車の扉を開けたら、あの猫勢いよく道路に飛び出すものだから、走ってきたトラックにひかれて死んじゃったわよ」と母は面白おかしく話した。

 彩夏は頭からサッと血の気が引いていくのを感じた。

「……今、なんて……?猫って……ミィのこと言っているの?」

「そうよ、あんたが可愛がっていた猫のこと、もう忘れてしまったの」

 母はフンと鼻を鳴らし、あざ笑うように言った。

「どういうこと?ミィが死んだって……嘘、嘘でしょう……だってあの日、そんなこと言わなかったじゃない……」

「本当よ、猫が目の前で轢かれるところをこの目で見たんだから」

 母は甲高い声をあげながらそう言った。

 胸を抉るような事実を突きつけられて彩夏は言葉を失った。

 視界はグニャリと歪み、腹の底から沸々と怒りが込みあげていくのを感じた。

 彩夏は震える両手を固く握ると母を強く非難した。

「お母さん酷い!酷すぎる!……少し考えればわかることでしょ!いきなり車なんかに乗せられて、知らない場所に連れていかれたら怖いに決まっているじゃない!」

「その後ミィはどうなったの?病院に連れていってあげたんでしょ?」

「トラック相手じゃ助からないでしょ。確認しなかったけど」

「は⁉酷い!そんなのただの見殺しじゃない!生きていたかもしれないのに!なぜ、なぜもっと早くに教えてくれなかったの……!ずっと、ずっと帰りを待っていたのに……どこかの家で可愛がられていると信じていたのに……!」

 彩夏は悔しさに唇から血が滲むくらい噛みしめると、髪が逆立つほどの強い怒りに変わっていくのを感じた。彩夏は肩を震わせ激昂し感情を爆発させた。

「あなたは私から全ての物を奪い去った!私が今までどんな思いで過ごしてきたかなんて、きっと知らないでしょう!あなたは私から……友達だって、本だって、夢や希望まで……何より私にとってかけがえのない、ミィの命まで奪い去った……私は、あなたを絶対に許さない!」

 彩夏は、張りつめた糸がプツンと音をたて切れたのを感じた。

 突如いなくなったミィは、どこかで元気に暮らしていると信じていた。優しい人たちに囲まれて幸せに暮らしていると、そんな微かな希望を抱き続けていた。

 思いもよらぬ形で真実を知ることとなった彩夏は、絶望に心打ちひしがれた。

 ――私にはもう何もない……夢も希望も未来だって……嫌だ……こんな家、こんな人生、こんな私に……もうウンザリ!

 喪心、絶望、悲哀、落胆、憤慨、憎悪、自己嫌悪、様々な感情が頭の中を駆け巡り、彩夏は追立てられるかのように家を飛び出した。




 

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