チャリ通

遊眞

チャリ通

 ほんっとにどうでもいい話だからまだ誰にも言ったことはないけど。

 正門まで続く国道海浜線、六五〇メートル。

 心臓破りの上り坂を一回も足をつけずに自転車で毎日登り切るようになったのは、僕のちょっとした自慢だ。

 それはもう中学の頃からやってる。今年で四年目になる。


 僕が通う明昌めいしょう学園附属は中高一貫で、南に海が見える郊外の高台に中学、高校とふたつ続けて正門がある。

 横を通る国道は、田舎にどうしてこんな道路がるんだろうと思うくらいだだっ広くて、登り車線側を並走する歩道も異様に広い。

 濃紺の歩道にラインが引かれた自転車帯も当然結構な幅があって快適だけど。

 なにせ勾配がキツい。

 心臓破りってのは持久走の時に言われる異名だ。

 僕も中二ぐらいまでは他のみんなと同じように途中で降りて徒歩で正門手前まで押して、上りが緩くなったあたりでもう一度漕ぎ始めるってやってたんだけど、中三の頃から一気に上まで漕ぎ切れるようになった。

 そんな自慢をクラスメイトと共有できないのは理由があって、そもそも地元ではちょっとしたお坊ちゃん学校の明昌附属だから家の人が車で送ってくる生徒が圧倒的なわけなんだ。

 中等部に入る前の頃に父さんが「新しい自転車買ってやるからな」って喜ばせてくれたのが、まさかこんな苦行の始まりだったなんて当時は思いもしなかった。

 なんてことなくって、送り迎えの時間がないからじゃないか。

 そりゃ小六なら喜ぶよ五段変速なんだから。ずるくない?


 まあ、おかげで運動神経はイマイチの僕だけど足腰の強さには自信ができた。

 ぎゅ、ぎゅっと、左右に腰を振って踏みつけるようにペダルを漕ぐのが秘訣だった。

 そして一速は使わない。

 これも秘訣だ。

 一速はギアが軽すぎて力が入らない、登ってられない。

 二速で踏み込んで登っていくんだ。

 振り返ればずっと下っていく国道の向こうに広がる市街地と外海そとうみが一望なのは知ってる。

 だから帰りは快適だ、風に乗って飛んでいけそうな下り坂だ。

 でも行きは空しかない。

 おでこに汗吹いて、空ばっかり見てる。

 晴れてれば真っ青で、朝から照り返しが強くて。

 ぺったりと色の少ない絵の具で描き分けただけの国道線を、ふっふっと息を継ぎながらひたすら漕ぐ。

 そんな自分だけの登校時間が、わりと僕は気に入っていたのだけれど。



 高等部へと進学した春の頃からだ。

 彼女が朝の坂道で仕掛けてくるようになったのは。


 原因は定かじゃない、でもなんとなくこれかなってのは、それこそ他の生徒がのんびり手押しで歩いていくのを尻目に国道をくん、くんっと左右に腰を揺らして登る僕の前を——今にして思えばあのフォームって秘訣でも何でもないんだと思い知らされた後ろ姿だった——線の細い中等部の制服が同じ格好して登っていくのが、ちょっと遅かったから。

 なんの気なしに、追い越した。

 だってこっちもそうそう前に合わせて速度落とすわけにもいかないから。

 人力だからさ。坂、登るのだってペースってのがあるじゃないか。でも抜く時にちょっとチラ見した彼女の横顔が、少し「む」とむくれた気がして。


 それが気のせいじゃなかったという。

 いきなりぎゃん、ぎゃんと肩の揺らしを早くして抜き返しにかかってきたんだ。

 なんだこいつ危ないだろ、って。

 だって平坦じゃないよ、登りだよ?

 平らなら抜くのも一瞬じゃないか、でも登りだと並ぶんだよ自転車帯に。

 先に抜いたのが僕だし、まあ年上だし、しょうがないから譲って少し速度落としたら振り向きざまにストレートのショートを軽く降って「ふん」って、そんな顔した。


 オマエそれが道譲ってもらった態度かふざけんなって、その時は朝からちょっとかちんときて、やめればいいのにまた抜き返したんだ。

 そしたら今度は「はあ?」って声が聞こえそうな顔したから笑いそうになった。

 緩んだ奥歯をぐっと噛んでさ、あとは正門まで一気に逃げ切ったんだ。

 向こうも必死だったんだろうか、中等部の門を通り過ぎながらちょっとだけ振り返ったら、正門前で降りたままこっち睨んでたのが、それが最初のあいつとの出会いで。

 駐輪場で同級生に「お前なんで今日はそんな犬みたいなの?」って笑われるぐらいにはへっ、へっ、へっ、へっと息切らしてたけど、こんな日もあるかなって。


 けど、もう。それから毎日。

 律儀か。ってくらい。


 見た目は小柄なんだ。身長もクラスでは前の方なんじゃないの? って思う身体のどこにあんな馬力があるんだってくらいは、僕にってくる。

 気を抜くとやられる。

 何回か抜かれて逃げ切られた日もある。くそ。

 ご丁寧に僕を待ってて、にっと笑ってから正門へ消えていくんだ。

 おかげで毎日朝から汗だくだし。持ってくるタオル一本増えたし。

 あいつ雨でも乗ってくるんだよ女の子なんだから自重しろよ、ぶっかぶかの透明のレインコート着てさ暑くないのかよ。


 そんな雨の時期も過ぎてお互い夏服になっても毎日の競り合いは続いて、もうそろそろ夏休みも近い七月の朝に。

 今日は彼女を後ろに、自分が逃げ切りだなって得意になって漕いでたら、音が聞こえた。

 がぎり。じゃ、じゃ、じゃって。

「あ」と思った。知ってる音だ。

 思わず坂の途中で足ついて振り向いたら案の定、自転車から降りたあいつが立てたスタンドで後輪を傾けながらしゃがみこんでたんだ。

 手でペダルを回して、ときどきこっちを見てるその時の顔はいつものような強気でもなかった。

 遠目に思い切り回そうとしてたから僕は慌てて自転車ごと坂を戻ったんだ。


「待って」「え」

「無理に回しちゃダメだって」


 横に停める。少し退いた彼女の脇にしゃがんだ。

 やっぱチェーンが外れて噛んでる。

 こいつ身体のわりにでかいのに乗ってるなあ、でもギアが見えてるタイプでよかった。


「チェーン伸びてんじゃないの」

「そうなの?」

「調整してもらわなきゃ、買ったとこでさ。ギアも油切れてるじゃん、こんなのでよくあんだけ登るなあ」


 変速機が硬い。

 指が真っ黒になるけど、ぎ、ぎ、と伸ばして。

 外れるか? 外れた。

 峠を切り開いた広い歩道の端は四角いブロックがずうっと上まで組んであって、残った森から蝉がうるさい。

 なんでだかわかんないけど、こうやってしゃがんでる時の方がぶわっと額に汗が出る、目に流れ込んでくる。


 暑っつい。

 と。

 横の彼女が急にタオルで僕の額を拭いたから、ちょっとびっくりした。


「あ、ありがと」

「うん」


 日に焼けた真顔が頷く。

 細い腕も生傷が多い、顔は可愛いのに小学生の男子みたいだ。

 彼女の夏服も汗が染み込んで。


「そんな汗かいて大丈夫かよ」

「なにが」「風邪ひくじゃん」

「着替え、持ってるから」

「え。そうなんだ。制服を?」「うん」


 やっぱそこは女の子なのかなあ、とか。

 思いながら五速にチェーンかける。

 まった。

 ハンドルのシフトを四、三、二、一速に……あれ?

 動かない。


「一速、入んないぞこれ。なんで?」

「使わないから。錆びたかも。一速じゃ登れないし」

「……くっそこの」「え?」

「なんでもない。ほら、ちょっと持ってて」


 秘訣がなくなってしまった。どうでもいいけど。

 タイヤを浮かせてもらってゆっくりペダルを回して。

 何度かシフトを切り替える。よし。


「なおった?」

「直った。とりあえずだけど」

「ありがとう」


 笑った。間近で見たその顔がずいぶん幼い。



 聞けば三年からの転校らしい。

 二人して今日は押して登る。


「編入なの? 頭いいじゃん」

「でも、ついていけてないし。友達もいないし。だから進学、別のとこにしようかなって」

「へ? もったいなくない?」

「もったいないけど……」

「それでかあ。去年は会わなかったもんな。今日はとにかく、自転車屋さんに持ってかないと。買ったとこ、知ってるんだろ?」


 彼女が首を振った。


「引越しの時、お父さんがネットで注文したから」


 ああ。行きつけ、ないのかあ。うーん。


「じゃあ、俺んとこでいい? いつも行ってるとこ」


 そんな大袈裟なリアクションが返ってくるとは思ってなかったんだけど、坂で足を止めた彼女が丸い目でじっと見つめてきた。


「えっと、いや、嫌なら」

「待っとく」「え?」

「待っとく。正門前? 何時?」「は?」

「何時に終わるの」

「あ、今日は七時限だからちょっと遅くて五時前」

「待っとく」

「あ、ああ。じゃあ、えっと。そっちの正門前でいいよ。こっちまで登んなくていいから」

「絶対? ホントに?」


 ただ僕は頷くだけで。

 それ以上に、彼女は何度も頷いて。

 遅刻待ちで正門で立ってた先生には自転車のことを話して、特にお叱りもなく逆にちょっと褒められたのがくすぐったかった。

 そこからサドルに跨って別れ際に、軽く彼女に手を振った。

 向こうも少し手をあげる。



 夕方。彼女は本当に待ってた。

 そして本当に着替えたみたいだ。

 ずるいなあこっちは汗でべとべとなのに。着替え、持ってこようかなあ。


「そ、それじゃ行こうか」「うん」


 なんでぎこちなくなるんだろ、女の子と一緒に帰るなんて初めてだからかもしれない。

 押しながら歩く下り坂は西日が差して遠くの海も街の屋根も眩しくて繋がってるみたいだ。

 僕が高等部、彼女は中等部なので共通の話題もない。

 黙って並ぶ彼女がうつむきがちだから、なにかないかなと考えながら。

 朝の会話を思い出した。


「あのさ」「うん」

「高校、別のとこにするって、また受け直すってこと?」

「先生はすっごい反対してるけど……このまま高等部でやっていけるかどうか、わかんないし」

「決めたの?」「決めてない」

「塾とか行けばいいじゃん」

「うち、お母さんが働いてるから」

「あ。そうなんだ。塾、高いよね」

「うん」


 だよな。

 明昌で自転車通学って、そういうことだもんな。

 うちも貧乏だし。居心地悪いよなあ。

 悪いこと聞いたかなって、黙ってしまった僕の横で。

 引いた自転車を彼女がちょっと停めて。


 ぼそ、っと。


「誰か、が」「え?」

「誰か、いてくれたら、高等部に行く」


 そう言った横顔は、うつむいたままだ。

 気づいたのは、腕の傷が。

 今朝より増えてるみたいで。


「——俺そんな成績よくないけど、教えようか?」

「えっ」「勉強さ」


 僕を見上げた彼女の瞳が、またまんまるで。

 学校、変わりたいのは、きっと。

 勉強が理由じゃないのかも、しれないけど。


「残るにしてもさ。他を受けるにしても、やってたほうがいいんじゃない? それから進路決めればさ」

「いつから?」「え」

「いつから教えてくれるの? いつから?」

「えっと……その、夏休みとか?」

「絶対? ホントに?」


 口癖なのかな。少し可笑しくなった。


「ホントに」「ホントに?」

「本当だってば」


 それまでこっちを見つめていた彼女が、ふいっと。

 またうつむいたけど、なんだか嬉しそうだ。

 そして小声だけど、聞こえた。


「二学期も毎日、追い抜くから」


「は。どうぞ。抜き返してやるって」

「……馬っ鹿」「え?」

「ちゃんと教えてよ、勉強」

「まあ、やれるだけ」

「馬っ鹿」

「なんだよおまえ、口悪いなあ」


 今度は、わかるくらい笑っている。なんなんだよ。


 まだお互い名乗ってすらないのに、そんな約束して。

 もう夏休みも近い、せっかくの西日の下り坂だけど。

 今日は二人、自転車を押して帰る。

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