第31話 美田園先生のアシスタント

 古い木造建築のアパートの前に、俺は立っていた。

 かなりのボロボロで、家賃は3万以下じゃないだろうか。

 編集の人に貰った地図によると、俺の就職先はここで間違いないはずだった。


「ここか……」


 俺は何度か編集さんの言う通りに漫画を描いていき、そして賞に出したのだが全然賞を貰えなかった。


 ――あれー? おかしいなー? もう少し頑張ってみようかー。


 と言われ続けて半年、一年とどんどん時間が過ぎて行った。

 俺の貴重な時間は消費されていった。


 流石に働かないと死んでしまうし、道具が買えなくなったら困るので俺はバイトをした。

 接客のバイトしかなかったので、適当に自給のいいネットカフェのバイトをしてみたが、これがかなりしんどかった。


 酔っ払いやら、風呂に入っていなくて臭い客やらが沢山いて面倒な客が多いし、クレームもある。

 夜働くから昼夜逆転になって精神的にしんどいバイトだった。

 だが、もう辞めてしまおうかと思っている。

 俺は今日からここで働くのだから。


「すいません、今日からここで働くことになった天音ですけどー」


 インターホンすらないので、ノックして扉越しに話してみたけど反応がない。

 もう一度ノックしようとすると、ドアが勝手に開く。


「天音さん、ですね」

「は、はい……」


 家から出てきたのは黒髪の女性だった。

 前髪が長いせいで顔が見えづらい。

 ずっと俯いているし、暗い性格の人みたいだ。


「編集の人から話は聞いています。どうぞ」

「は、はい……」


 玄関には靴が乱雑に置かれている。

 靴を脱ぐ場所もあまりないが、俺は部屋の中に入っていく。

 すると、そこには二人の男性がいた。


「どうも」


 立ち上がらずに頭を下げたのは、眼鏡をかけた小太りの男だった。

 汗をしきりにかいているようで、首にはタオルが巻かれている。


 この人も、さっきの女の人も漫画家のアシスタントなんだろう。

 どっちも俺と同じ年齢ぐらいだと思う。


「ああ、ようこそ。僕が美田園です。少し狭いけどよろしく。クーラーが壊れているけど、扇風機はあるから、暑い時はつけていいからね」

「はい、ありがとうございます。……あの、俺、天音です。今日からアシスタントとします。よろしくお願いします!!」

「はい、よろしくお願いします」


 美田園先生。

 本名のままペンネームを書いているらしい。

 確か三十代だったかな。


 滅茶苦茶有名という訳ではないが、連載を何年も続けている人だ。

 こんな狭苦しい所が職場なんて意外だった。

 本来だったらもっと広い職場で働いていてもおかしくない人だ。


 なにせ、彼は週刊少年トワイライトで連載している人なのだから。


「とりあえず、話はそこそこにして。背景描いてくれる? 君の技量がみたいんだ」

「え、あ、はい!!」


 俺は肩書きに圧倒されて座る。

 そして一枚の紙を渡された。

 これは試験だ。

 俺がどれだけできる人間かを試されている。


「とりあえず、建物と歩道と街路樹描いてくれるかな? 僕の漫画は読んだことある?」

「は、はい、勿論!!」

「なら、どんな背景か分かるよね?」

「分かり、ます……」

「うん。なら描いてみてくれるかな」


 せめて手本となる資料が必要なんだけど。

 先生だって資料ありきで漫画を描いているはずだ。

 なのに、資料を渡す動作がない。


 俺は意を決して背景を描いていく。


 正直、美田園先生はあまり絵が上手い方じゃない。

 俺の方が上手いぐらいだ。


 ネットでも散々絵が下手だとディスられている。

 この人が満足できる絵を描けるはずだ。


「まだ、かな?」

「え、あ、あとちょっとです」


 数十分経ってから、美田園先生が覗き込んでくる。

 だが、まだ完成していない。


 緊張のあまり手汗が酷い。

 そこまで今日は暑くないのに、人生で一番汗をかいているかもしれない。

 原稿が汗で濡れている。


「できました」


 急かされたので、少し粗削りだがまあまあの絵が描けたはずだ。

 もっと上手に絵を描けたはずだったが、及第点だろう。


「……そうだね、君にはまずベタとホワイトをやってもらおうか」

「えっ? ベタとホワイトですか……」


 ベタとホワイトは単純作業だ。

 ベタは黒く塗りつぶして、ホワイトは白く修正する作業のことだ。

 簡単にいうと、漫画家じゃなくとも、誰でもできる作業のことであり、俺じゃなくとも、そこらにいる学生でもできる作業なのだ。


「不服かな?」

「いえ、そんなことは……」

「じゃあ、やってもらえるかな? 早速だけど仕事いっぱいあるからね」

「は、はい!!」


 俺はただの新人アシスタントじゃない。

 いずれ漫画で大賞を取ることになって連載し、美田園先生のライバルになる男――いや、美田園先生を遥かに超える漫画家になる男だ。

 そのことを全く分かっていらっしゃらないようだが、俺は絶対にプロになる。


 その根拠のない自信だけが、その時の俺にはあった。

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