トカゲと猫と男子生徒と

お白湯

トカゲと猫と男子生徒と



 ぐぢゅりぐぢゅりと死を貪る音が聞こえていた。それは亡骸を食べるビビが発する、エイコにとっての福音であった。


 屍を見つめる事が、遺伝子に刻み込まれているのかのような日常感に、心が安らいでいた。エイコは生き物が死んでいく様子を観察する事が、好きで仕方なかったのだ。今まで生きて鼓動のする魂の宿った肉体から、血潮が引いたただの虚になるその様子に、心を奪われていた。


 エイコが死の手触りを知ったのは、小学生低学年の時に猫がガンで亡くなってからだった。温かみも無くなり瞳から光が消え動かなくなる。意識も無くなり、何者からの反応が全て無くなったそれを、エイコは愛おしいと思ったのだ。愛おしいと思う心の正体についてエイコには分からなかったが、抱いた感情は悲壮感と言うよりも花火のように華美な好奇心であった。

 その鮮烈な出来事に頬を赤く染め、滾るように興奮で鼻の息を強くしていた。周りでは猫の死に母が泣き、父がエイコと母の二人を温かく抱きしめていた時でさえ、丸く大きく開いたエイコの双眸に映っていたのは、身じろぎのしない猫の顔だった。

 エイコにはその猫の目が見つめているものに興味が湧いていた。一点だけを見つめる先には、今まで生きていた光ある世界を懐かしんでいるのではないかと、そう思えたのだ。いや、惜しんでいるのか、それとも羨望しているのか。どれにしても、エイコの興味を引くものに相違はなかった。


 そんなエイコがビビと出会ったのは、小学校中学年になった頃だった。死体を眺める趣味を持ったエイコは、周りの子とは違う異彩を放っていただろう。当然の事ながらエイコを不気味な子供として、周囲は思っていたのだった。完全にクラスでは孤立していたエイコだったが、ビビだけは友達だった。


 当初、ビビと呼べるものは小さな虫だった。クラスで飼っていた一匹の鈴虫がある日、亡くなったのを見て、エイコは虫かごの中で朽ちる様子を毎日見ていたのだ。それは突然やってきた。ひっくり返っていた鈴虫は朽ちるばかりだと思って見てたものの、五本の足がビクビクと動き出したのだった。本来なら六本の足も一本は取れてしまい、五本足になった鈴虫が触覚までも動かし、土の上で藻掻くように蠢いていた。その様子は冬眠から目覚めた生物のノロマな動きなどではなかった。まるで、断末魔のような苦しみに満ち満ちているようであり、今にも悲鳴が聞こえるのではないかと、思えるような悲嘆さを帯びていた。

 そして、エイコはその五本足の鈴虫をビビと名付けたのだった。死せる身でこの世に留まるビビはエイコにとって、愛しさを具現化したような存在になった。


 それから、エイコは朝早く登校しては、毎日のようにビビを眺めていた。しかし、飼っている鈴虫の中からビビを探すのが大変になっていた。五本足を探せば見つけ出せることは当たり前だが、エイコはもっと簡単な方法で、探し出す事を思いつく。それは他の鈴虫を全て潰す事だった。朝の誰もいない教室で、ビビ以外の鈴虫を全て潰した時には、虫かごの中は死骸で埋め尽くされていたのだった。ビビの仲間たちを潰すのは忍びなかったが、これで簡単に見つけ出せる事にエイコは笑顔になっていた。

 その後である。ビビは潰れた鈴虫の所に行き、触覚を動かしていた。口を近付け、死骸を舐めるような動きをし始めたのだ。すると、口から透明な粘着質の液体を出し、死骸をその液で包むと、ぐちゅりぐちゅりと吸い始めた。みるみる死骸はなくなりビビの体に吸収されていく。一つまた一つと、無数にあった死骸を、同じように食べていた。全ての死骸を食べ終わった頃には、五本だった足も六本になり、満足そうにビビは鳴き始めたのだった。

 エイコは死骸を食べるビビに心底惚れ込んでいた。死せる身で死を喰らう存在は、エイコの中の生き物の定義を著しく変えるものだった。


 エイコはビビに死骸を与える日々が始まる。次の日、朝の学校にエイコが持ってきたのは、トカゲの死骸だった。ビビはエイコの持ってきたトカゲの死骸に素早く反応し、またしても舐めるような動作で粘液を出し始めたのだった。同じように、粘液で覆うとぐちゅりぐちゅりと吸い始める。その時の様子がこの前と違うとすれば、ビビは吸い続けながら体が徐々に鈴虫からトカゲへ変化している事だった。全てを吸い尽くす頃には、ビビは完璧なトカゲになっていた。次から次に起きるビビの変化にエイコは虜である。死せる身で死を喰らい死に扮する。どこまでも、ビビは死そのもののように、エイコには思えるのだった。

 ビビは死骸を食べるとその都度、姿を変えた。食べた死骸と同じ姿のビビを、エイコは愛おしく感じているのだった。


 通学途中で、猫の死骸に遭遇したのは偶然ではあったが、エイコが死骸を探してなければ出会ってなかったことだろう。首輪のない猫が道路に横たわっていた。エイコには、その光景がどうにも覚えた頃の死の手触りに類似するものであったため、猫を拾いあげるその手には愛しさを宿していた。冷たくなった体も、ふわふわの毛並みも、虚ろな眼差しも、どれもがエイコの心に残る郷愁感で満ちていたのだ。猫を抱えるとエイコは学校に走った。

 それは、ちょうどビビがガマガエルになっていた時だった。ビビ専用の虫かごをクラスから拝借し、学校の裏口近くの物陰で飼っていた。ビビは鈴虫からとっくに姿を変えていたため、教室の中で飼えなかったのだ。エイコは猫の死骸を持ってくるや否や、すぐさまビビに見せる。虫かごの揺れが示したのは、ビビの死骸に対しての激しい欲求だった。ビビを虫かごから出してやると、猫の死骸の全体を舐め回すように、ぴょこぴょこと動き回った。そして、今までと同様に粘液を出して死骸を包み込み吸い始めた時に、まじまじと見るエイコの後方から叫び声が上がった。

 同じクラスの男子生徒だった。


「お前…!な、何してんだよ…!」


「これは…。その…。」


「気持ちわりぃ…!来るな!」


「ま、待って!」


 逃げ出そうとした男子生徒を引き止めた手が悪かったのか、はたまた怖さで足がもつれたのか。結果としては、男子生徒は転げ倒れた。それだけなら良かったが、転げた先が悪かった。男子生徒は、大きな石に後頭部を打ち付けてしまったのだ。エイコは呆然と見ていたが、いつまで経っても、起き上がらない男子生徒を気にかけ近づくと、息をしていないのが分かった。人間の亡骸を前にエイコとて、焦燥感を覚えなかったわけもない。急な事に心拍数が一気に上がった所に、またしても後方から声が上がる。

 息が苦しい。これはまずいと、脳裏では人としての規律に背いた後暗さが、先立って出て来るのである。意を決して振り返るが、そこには誰もいなかった。いや、そうでは無い。その声は先程食事を終え、猫になったビビの鳴き声だった。

 エイコの中で囁くのは、好奇心の皮を被った化け物に間違いなかった。全ての事をなかった事に出来る。今まで通りの日常が待っているのだと、ちゃちな縋り付くような気持ちが湧き上がってくる。それと同時にビビが人を食べたらどうなるのかと言う、悪魔的な考えに足を踏み入れていた。

 悩むべくも無いことを悟ってしまったエイコは、この時ビビだけが化け物なのではなく、自分もまた化け物なのだと分かった。それでも、一歩一歩亡骸に向かっていくビビを、引き止めることはしなかった。ビビと同じなら、それもまたいいと思えたのだ。


 軽い足並みは死神の調べ。ざらつく舌に不気味を宿し、骨すら残さず吸い尽くす。


 ビビは猫から人へと姿を変えていた。そこにはもう罪は半分になっていたのである。ビビは罪を半分食べて背負ったのだと、エイコには思えたのだ。人になったビビに何を話しかけようか、思い付いた言葉をエイコは声に出そうとした瞬間である。

 首根っこを掴まれ声を失った。その手はビビが出したものだった。声にならない音がエイコの喉笛からは漏れ出している。

 ビビは顔を耳元まで近づけると小さく言葉を発した。


「…なんで、殺したの…。」


 その言葉を境にエイコの意識は遠退いていく。

 エイコは急に暗然たる海の底に、叩き落とされたような気分だった。暗闇の中、一筋の光のようなものが見えてきて、目を凝らせばその中には両親の姿が映し出されていた。


───あっちに行きたい。


 エイコは渇望したのだ。エイコの目に映っているのは光り輝く世界だった。その瞬間、エイコは自分の浅はかさを悔いた。死という陰鬱な風体に、夢想を抱いたが為の誤ちであったと。自分が見ていた死の姿は、生に憧憬していた者達の渇きなのだと。

 愛おしさの正体とは渇望を辱めている事だったかと、エイコはようやく死を理解し闇の中に落ちていった。


 じゅぷり。じゅぷり。


 そして、学校からは男子生徒が一人消えたのだった。

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