どうせイヤホンなあなたへ

不溶性

 関西の人情で溢れた土地から、大学進学を機に単身で上京した。

 両親は猛反対していたが、独り立ちを認めさせたかった私も必死で勉強して、国内屈指の学力を誇る都内のS大学に合格したことで、しぶしぶ了承を得られた。

 下宿することの金銭的な問題もあっただろうし、関西の、比較的街に近い地域に住んでいると、わりと何でもそろっていて不便はなく、わざわざ冷淡な(というと偏見だが)東京に出さなくたって、子供の成長をまだまだ近くで見ていたいという親心もあったようだった。特に私はひとりっこだったから、そういう親の心配事は顕著にみられた。

 東京での三度目の春。明け方の外気はまだ肌寒い。

 昨夜のことはよく覚えていなかった。どこかの店のシャッターに寄りかかって、酔いがさめるのを待っていた。コンタクトレンズをどこかで落としてしまっていて、霞んだ目で見えるのは、暗がりにうっすら広がる太陽の断片と、まだ存在感のある外灯のあかり。まばらに通り過ぎるひとの足音と、遠くで古そうなギターの音色が聴こえた。

 ただ、ぼんやりとした頭で思い返して、そうだそうだ、昨日は合コンがあったんだった、と気づく。合コン、という文化はどうも苦手だ。でも、友人の一部には生きがいだという子もいて、私はそちらに同調せざるをえない。誘われるたびにのこのことついていって、最後まで面倒もみてくれないような冷淡な人たちに、おいて帰られる下戸な私はとても憐れ。そんなことはわかっている。

 ギターの音がやんでいた。そろそろ帰ろう、と思う。春先だし凍死することはまずないとしても、ものを考えられるくらいに醒めてくると、流石に寒かった。

「あ、須藤じゃん」大丈夫? おまえ。

 立ち上がる助けになるものを手あたり次第探っていると、目前に男の人影があった。背が高くて、見上げても顔までは把握できない。

「あ、わか先輩じゃん」

 声で悟る。

「いつからいんの」

「そりゃ、昨晩くらいかな、と思う」

 記憶はないですねえ。立つことは早々に諦めて、力なく笑った。

 わか先輩とは行きつけの猫カフェで知り合った。最初は、偶然推し猫が被っていて、同志の思いで顔を覚え、すれ違うと会釈をする仲だった。同じ大学の工学部院生だと知り、少しずつ交流が増えたのは半年くらい前からだった気がする。

 わか先輩は、人差し指をたてて、上に向ける。

「おれんち、そこ」

「上?」

「一階は居酒屋なの。俺は二階を借りてる」

「ああ」

「ここ、まじで治安悪いから。こんなところに座り込んでて無事だなんて、ついてるね」

「ラッキー」私は両手でピースをつくる。わか先輩は呆れ顔でため息をついた。

「もうそろそろタケチさん帰ってくるから、じゃまになるよ」

 タケチさん、というのは家主兼居酒屋店主の名前だろうか。

「じゃ、手貸してください」

ん、と言って、わか先輩は私の両脇下に腕を回した。手際が良いなと感心する。介護のバイトをしている、と聞いたことがあった。

「ちゃんとヘルパーさんなんだ」

「これくらいできなきゃ、もうやめてるよ」

 ありがとうございます。

 礼を言ったはいいものの、足元がおぼつかない。重力の方向がわからなかった。新たな物理法則が私の中に生まれていて、私がそういうと、わか先輩は笑った。

「まだ酔ってんなあ。お茶でも飲んでくか?」

なんといっても、そこだから。

 今度は両手の人差し指を上に向けて、ワイパーみたいに動かした。

「じゃあ甘えましょう、お言葉に」

 男と女だとか、先輩と後輩だとか、同担だとか、そういうことは、私のおめでたくなってまだもとに戻らない頭では考えられなかった。ただそこに霧島わかという人間がいて、須藤いおという自分がいるということ。そしてワイパーになった先輩の指先をみて、このひとはギターを弾くんだなという発見だけが、ゆるやかな重力の中での思考の全てだった。

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