13 ハニトラ
パートは無事に終わった。帰り道も特段淳樹の気配を感じることはなかった。
安堵しながらシェアハウスに戻ると、華奈が共用リビングのソファで大股開きの体勢でアイスを頬張っていた。
キッチンを見ると煙が立ち込めている。マイカが自分用のアイスを作っているのだろう。最近は華奈がボウル一杯分を一人で食べてしまうから、マイカは二回作ることが多い。その度にドライアイスの煙がキッチンに充満する。
「お帰りー! どうだった?」
華奈に尋ねられて心臓が跳ねた。今日淳樹にされたことを言うべきか迷ったが、マイカのことまで知られているので躊躇う必要もない。ソファに座って事の顛末を話した。
「えー⁉ 運命の出会いじゃない⁉」
華奈が前のめりになって私に顔を近づけてくる。
淳樹のストーカー行為について相談したつもりが、彼女の興味は納豆の男性にしかなびいていない。恋愛中毒者の主症状のひとつだろう。
「全然、そんなんじゃないよ。それより淳樹のことは――」
「離婚一択! ねぇ、納豆男ってどんな顔なの? イケメン?」
それから華奈は、マスカラが落ちて黒ずんでいる目を見開きながら質問攻めをしてきた。
どの質問にも曖昧に濁して回答していたが、納豆の男性に最後に言われた言葉だけは自然と口を突いた。
「『知ろうとしないのは損だと思います』って言われたんだよね。なんか刺さって」
「有里は知ろうとしないもんねー」
「え?」
「あたしの恋バナだって相槌はしてくれるけど全然質問してくれないじゃん?」
唇を突き出して不機嫌顔を作る華奈。慌てて謝ると、彼女は「まあ勝手にしゃべるからいいんだけどね」と笑った。
「淳樹のことも知ろうとしてないんじゃない?」
華奈にまた核心を突かれた。
振り返ってみると、私は淳樹にちゃんと尋ねたことがない。だから妊活も彼の気持ちを知らずに勝手に進めていたし、不倫相手のことも深く詮索してこなかった。
もしかしたら、付き合っているときからずっとそうだったのかもしれない。
私は淳樹のことを、何も知らないのかもしれない。
「せっかく運命の人からありがたいお言葉をもらったんだから、この際淳樹に直接問い詰めてみたら?」
「運命の人ではないけど……」
「そしたらすっぱり離婚できるんじゃない?」
離婚という言葉を聞き、不安がよぎった。
淳樹は今日私をストーキングした。『死んでも離婚しない』とも言い切った。
話し合いだけではとても離婚してくれそうにもないし、直接会ったら危害を加えられる危険性もある。暴力的な言動を思い出して背筋がぞわりとした。
その不安を打ち明けると、華奈は胡坐の上に空っぽのボウルを置いた体勢で、腕を組みながら考え込んだ。
「粘着質野郎は厄介だからなー。わかるわ」
「経験あるんだ?」
「ないわけなくない?」
「確かに」
「まあ、有里がほんとに離婚したいなら方法は――」
華奈はそういうと、メガネを持ち上げるジェスチャーをしながらその場を徘徊しだした。探偵気取りのようだ。
私は彼女が探偵ごっこに精を出している間に、自分が本気で淳樹と離婚したいのかを真剣に考えた。
二度も不倫をされ、暴力的な言動まで浴びせられた。そのときに恐怖も感じた。拒絶反応も起きた。彼を好きだという感情もとうの昔に消えている。自分が傷つくくらいなら離婚しておけば良かったと何度も思った。
だけど、淳樹の言い分を私は知らない。自分から知ろうとしてこなかった。男性の言う『知ろうとしないのは損』という言葉は本当だった。
そんな状態で、離婚を強行してよいのだろうか。
そもそも淳樹はなんで死んでも私と離婚したくないのだろうか。二度も不倫をしたのに。もしかして私のことをまだ――
そこまで考えたところで、華奈は得意げに声を張った。
「証拠を掴む!」
確かに不倫の証拠があれば離婚は容易くなる。しかし、直接会うことすら躊躇している状況でどうやって実行すればいいのか。
華奈に尋ねると、彼女はしばし逡巡したのち、あっけらかんと答えた。
「でっちあげよっか」
「え?」
「ハニトラだよ。三度目の不倫に誘導する! そこをパシャッと!」
あまりに突飛な発想に、狐につままれたような気分になった。でも、せっかく考えてくれている華奈の発想を真っ向から否定すると不機嫌になってしまう。私はなるべく丁重に断った。
「いや、それはちょっと難しいかも……頼む相手がいないし」
「ワタシやります」
突然背後からアニメ声が飛んできた。驚いて後ろを振り返ると、アイスの入ったボウルを抱えたマイカが立っていた。
「ワタシおとりやります」
「え、でも――」
マイカは淳樹の元不倫相手だ。確かにハニートラップには最適な人物かもしれないけど、色んな感情が綯い交ぜになる。
「なにそれちょー神展開! そうしよ! でもマイカ大丈夫なん?」
華奈がマイカの抱えるボウルからアイスをつまみ食いしながら尋ねた。マイカはボウルをすぐさま背後に隠し、肝の座った表情で答えた。
「はい。ツグナイですから」
こうして、私の意に反して淳樹ハニートラップ作戦の火蓋が切られた。
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