#005_名前

「うぁぁっ……」


 湯船に浸かると、そんな声が漏れる。


 俺は大浴場にいた。

 ここにいるのは俺だけだ。最初のころはクライメイトたちと一緒に入っていたが、いまではこの時間にここに来るのは俺だけとなった。使用人たちの話によると、ほとんどの召喚者たちはこの城を出て、王都やほかの訓練場に移っていったのだという。

 だから、静かだ。浴槽に注がれる水の音だけが聴こえる。


 ふと、今日のことを振り返る。

 図書室で地下への入口を見つけ、そこに足を踏み入れた。

 埃だらけの地下図書室。その奥で見つけた大きな扉。

 そこから出てきたのは、白髪と赤い瞳、眼を見張るほどの美少女だった。


 その少女に魔術を教わることになり、その代価として、俺は少女に名前をつけることになる。

 実際に魔術の講義が始まり、それで半日を過ごした。


 魔術の勉強は面白かった。なにをやっても進展しなかった魔法とは違い、最低限の術式単位さえ構築できれば現象を見ることができる。進んでいることが感じられるというのは嬉しいことだ。

 教えてくれた少女には、感謝しても仕切れない。


 だが……その感謝の言葉を伝えるべき相手はいま、ここにいない。

 男湯だからとか、そういう意味じゃない。

 街を見てくると、それだけ言って姿を消してしまった。


 少女の消えた図書室には、しんと静寂が降りた。

 まるで、少女など初めから存在しなかったかのような、ともすれば夢だったのではないかと、そう思ってしまうほどの喪失感が、俺の胸を刺す。


 けれど、


「……光よ赤く成れ」


 魔法で頭上に出していた光球に、その言葉を投げかける。

 すると、光は赤くなった。


 現実だ。少女から教わった術式、その例文。

 魔術という存在。俺はたしかに、少女から魔術を教わったのだ。


「……いつ帰ってくるのかなぁ」

「あら、そんなに寂しかったかしら?」

「えっ」


 声に振り返ると、そこには少女がいた。

 ティーカップを片手に、浴槽の縁に座っている。


「ただいま」

「えっ、おっ、おかえり……」


 いつからいたんだ?

 たったいま?

 音もなく消えたんだから、音もなく現れても不思議ではないが……彼女は街を見てくると言った。てっきり、数日ほど帰らないのかと思っていた。


「私が眠っていたあいだに、世界は大きく様変わりしていたわ」

「すこし……?」


 1000年寝てたとか言ってた気がするが、精霊は時間のスケールが違うのか。


「この国に限らず、上層の社会階級……平民以上の人間は魔法が使えて魔術が使えない魂になっていた。遺伝子には改造の痕跡が残されていたし、やはり私が教えた高等化術式の改良に成功したようね」


 い、遺伝子に改造の痕跡? 魂の高等化術式って、遺伝子を改造する術式なの? それにまた魂がどうとかいう話……。そんなことができる魔術って……、


「……魔術ってなんなんですか?」

「魔術って、なんだと思う?」


 質問を質問で返す少女。


「不思議だとは思わない? たかが文字を綴っただけで、現象を意のままに操れるなんて」


 それは……たしかにそうだ。

 遺伝子改造なんて実現できるスケールが大きいことにも驚いたが、ほかにも疑問点はある。


 たとえば魔術コードたる言葉に記号、あるいは声。それだけで、どうして現象を操れるのか。

 魔法や魔術なんてフィクションじみた存在。こっちの世界に来てすぐ、そういうものなのだと受け入れていた。


 けれど、それが現実であるこの場所では、きちんとした理由があるはずなのだ。


「これから貴方が見て聞いて感じるすべてを、常に意識しておきなさい。そうすれば、いずれ答えが導けるはずだから」


 いずれ、と少女が言ったのは、いまの俺では知識が足りていないからだろう。

 なら、いまここでうんうん唸っていても仕方がない。

 まずは言われた通り、見て聞いて感じるすべてを意識しておくこと。答えを出せるだけの知識を蓄えるのが先だ。


 ……が、


「……常に意識しておいてって言ってばかりなのだけれど、貴方はさっきから、いったいどこを見ているの?」


 少女が現れてからずっと虚空を見ている俺に対して、少女が訝しげに尋ねた。

 俺が視線を外している理由は、初めて出会ったときと同じ理由だ。


「あの……服」

「ふく?」


 一糸纏わぬ姿の少女は小首を傾げる。


「お風呂で服は着ないでしょう?」

「ここ男湯なんですけど……」

「こんなに広い浴場なのに、独りなんて寂しいじゃない」


 少女はわざとらしく口角を上げて、


「それに、嬉しくないの? 美少女の裸が見られて」


 くすくすと笑い、からかってくる。

 いや、たしかに嬉しいけど恥ずかしいというか見たいけど直視する度胸はない。


「ていうか自分で美少女って言ったな……」

「そういうふうに作ったのよ。人間の肉体に入ってはいるものの、精霊として魔術を教えるわけだから、なにかしらの線引きが必要だと思ってね」


 この世界にはさまざまな髪、瞳、肌の色を持つ人がいる。

 昨日まで俺の担当をしていた貴族の青年は白人っぽく、髪と瞳は鮮やかな赤色だった。

 クライメイトの担当となった貴族も、場内で見かける使用人の人たちも、もといた世界にはないような色合いの髪や瞳を持っている。


 しかし、この精霊の少女ほど美しい……彩度の高い色を持った人は、見たことがない。

 きらきらと光を反射する純白の髪。妖艶な赤を帯びる瞳。絹のようにきめ細やかな白肌。

 浴場の縁に腰かけているだけで、さながら彫像のような美しさだ。


「女神の絵画しかり、聖母の立像しかり、人間は神々しさを美しさで表してきた。それに則っただけよ」

「神々しい……って、精霊は神様なんですか?」

「違うわ。たしかに、地形を変えることも生物を作ることも可能だけれど、実際にこの星を作ったり人間を作ったわけではない……と思う」

「思う?」

「ほかのだれかが作った可能性は、否めない」

「ほかのだれかって、ほかの精霊ってことですか? ……精霊って、ほかにもいるんですか?」

「それなりにね。生じる可能性は限りなく低いけれど、滅多に死ぬことがないから、数だけは増えていくの。私が生まれたときには、すでにこの惑星も人間という種族も存在していたわ。だから、私が生まれる以前の精霊が作ったという可能性は否めない、ということよ」


 惑星を作る、人間を作る……。真偽はともかく、そういうスケールのことができるのか、精霊は。

『精霊は神ではない』と少女は言ったけど、それでは神も同然の存在だ。


 それを聞いて、俺の胸にはわずかな罪悪感が生まれた。

 神の如き精霊から、魔術を教わっていいのだろうか。


 俺一人が魔術を使えるようになったって、なにか世界に影響が与えられるわけではない。

 そもそも魔術を使えるようになりたいというのは、俺個人の願いだ。その身勝手な願望に、少女が束縛されるいわれはない。

 俺に魔術を教えるより、もっと有意義なことが……、


「なにを考えているのかしら?」


 むにっ、と背中になにかが押し当てられる。

 柔らかな感触。そしてその中に紛れる、二つの突起状の……!


「ほあっ!?」


 一瞬のあいだに俺の背後に回り込んでいた(あるいは瞬間移動した?)少女が、うしろから抱きつき俺の背中に胸を押し当てている……!


「ミキヒトはおもしろいくらい初心うぶね。抱きついたくらいで、こんなに心拍数をあげて」


 抱きつくっていうか裸なののほうがやばいんですが。互いの肌が引っ張られるようにこすれ、やけに熱く感じる。

 ていうかなに? なにしてんのこれ? なんの時間?


「……セックスを娯楽として行うのは、人間やエルフ、ドワーフなんかの高い知能を持った生物だけ。ゴブリンやオークのような低知能それ以下の生物とは違って、生殖としてのセックスと娯楽としてのセックスを切り分けて考えている」

「セっ……!?」


 いきなりなんの説明だこの少女……!

 すすす……と少女の右手が俺の脇腹をなぞり始め、腰、太腿と伝っていく。


「精霊には、知的生命の文化や娯楽に興味を持つ個体も少なくないわ。なにかを与える代わりに、それらを対価として要求する」


 少女は左手で俺の胸を包むように触れる。


「たとえば絵画、たとえば音楽、たとえば食、たとえば……」


 そういえばこの少女がかつて魔術師たちに魔術を教えていた際、対価として食事や甘味を求めていたと言っていた。食と魔術が等価なんて精霊はちょろいなんて思ってたけど、あれは人間文化の要求だったのか。


「精霊には、肉体がない……つまり、味覚なんて存在しない。だから、わざわざ肉体からだを作ったの、味覚を得るためにね。けれど、肉体からだで得られる快楽は、味覚だけではないでしょう?」


 少女の左手が俺の首元まで登り、右手が内股まで到達する。


「味覚と嗅覚は、先の魔術師たちからいただいたわ。あとは、聴覚と視覚、そして触覚の充足だけ」


 聴覚は音楽、視覚は絵画とかだろう。して、触覚の充足とはなにを表すのか。


「ミキヒト、私はセックスがしてみたいわ。貴方に魔術を教える対価として、触覚の充足を要求する」

「な、名前!」


 空気に耐え切れず、俺は勢いで口にする。


「名前が対価なのでは?」

「それは最初の一つというだけ。私は貴方に魔術をのだから、貴方は私に対価をのが道理ではないかしら? そして、継続的に支払える対価として、セックスは妥当なところだと思うのだけれど。もちろん、視覚や聴覚の充足でもかまわないわ」


 普通なら、こんな美少女とって言うんなら喜んでヤる。

 けれど、これは対価だ。俺が得をするのではなく、少女が満足しなければならない。

 果たして、俺に少女を満足させられるだけのがあるだろうか?


「……正直、性も、提供できるかわからない、です」

「……不全、ではないみたいだけど」

「け、経験がない、っていうか」

「ああ、童貞ということね」


 不全だ童貞だと明け透けに言い過ぎではなかろうか。


「それは大丈夫でしょう。セックスは芸術と違って、過程を楽しむものだと思うの。必要なのは相性と相互理解。これらは時間をかけて高め合うもの」


 高め合うってどういう……?

 否応なしに卑猥な想像が頭に湧き立つ。いやもうすでに湧き立っている。


 少女の慎ましやかでありながらたしかな弾力が、俺の背中を刺激している。

 柔らかな手のひらが、俺のきわどいところをまさぐってくる。


 脳の芯までのぼせそうだ。

 触れているだけでも行き過ぎた快楽なのに、トドメとばかりに、少女は耳元で囁く。


「それとも、私とするのは、いや?」

「いやなわけないです……」

「じゃあ、決まりね」


 そう言うと、少女はふっと俺から離れ、風呂の縁まで瞬間移動した。ティーカップを持ち直し、一口啜る。


「ともかく、まずは名前から」


 どっ、と体に疲労感が訪れた。

 嵐が去ったような気分だ。


 女の子との肌の接触なんて、彼女もいなければ友達もいない俺には危険すぎた。

 接していた箇所がいまだに熱を持っている気がする。心音もまだ早い。


 肩まで湯に浸かって、ようやく息を整えたところで、俺はふと少女の手元に目を留める。

 白磁に青いラインのティーカップだ。甘く香ばしい紅茶の香り。あれは昼にお菓子とともに運ばれてきたもの……なのだろうか。どこから持ってきたんだ?

 風呂にまで持ち込むなんて、そんなに気に入ったのだろうか。


「……あ、『ティー』とか」


 思わず口にする。

 少女にあるのは、不要なもののない洗練された美しさ。

 ならば名前もシンプルなものがいい。短く、耳触りのいい音。


『ティー』というのは、そんなイメージに合っている気がする。


「どういう意味かしら?」

「えっと、俺のいた世界で『紅茶』って意味で」

「へぇ……」

「いやですかね……」

「そうじゃないわ。ただ、存外、センスがよかったから」


 それ言外にセンスなさそうって言ってないですかね? ていうか『ティー』はセンスいいのか? 


「気に入ったわ。いまから私は『ティー』よ」

「えっ、あ、わかりました」


 そんなんでいいのか、とは言わないでおく。本人が気に入ったのならそれでいいだろう。


「じゃあ、改めてよろしくね、ミキヒト」

「えっと、こちらこそよろしく、ティー……さん」

「それはちょっとよそよそしい」

「はい……」


 いまだにこの少女との距離感を測りかねてるんだよな……。タメ語と敬語が混ざっちゃうし、「えっと」とか「あ」とかから話し始めてしまう。

 ていうかそもそも女の子相手に話すっていうのが慣れてない。それに加えて、相手がこんな美少女だったら気後れもしてしまう。


「自分のつけた名前なんだから、遠慮しなくていいわ。それに、しばらくは二人きりで過ごすことになるだろうし」


 二人きり、という言い方にどきりとしてしまうが、まったくもってその通りだ。

 少女との魔術レッスンには、だれかほかの人が参加する予定はない。使用人たちに少女の存在を明かすこともないだろう。


 となれば、少女が交流を持てる人間は俺だけになる。

 もっと、距離を詰めてもいいだろう。


「……わかった。よろしく、ティー」


 名前を呼ぶと、少女は嬉しそうに微笑んだ。



 ***



「さあ、始めましょうか」

「えっ……と?」

「名前はもうもらったから、次の対価をいただくわ」

「あの」

「初めてだから、優しくしてね?」

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