【BL】僕のあの日の幽霊

菜園絵夢

第1話 遠い日の幽霊

小学3年になる前の春休み、僕は夜の公園にいた。


友達の家に行く選択は、ボッチの僕にはなかった。


別にハブられていたわけではなかったけれど、

早く大人になりたくて勉強を頑張っていた僕には、

クラスのみんなが夢中になっている漫画や、

TV番組もゲームもおしゃべりも興味のない事だった。


何か集まらなければならない事情、

例えば、学級委員の委員長の僕の出番がない限り、

ひたすら勉強していた僕は、選択ボッチってやつだった。


何より僕は、今僕がこの状態であることを、誰にも知られたくなかった。


僕はフェンスの向こうの大きな川と、その向うの家々の灯りを見ながら、

触った所すべてに赤いサビがつく古いブランコに、1人で座っていた。


横の街灯がチカチカして、

幾匹かの名前も知らない虫が、バチバチと体当たりしては落ち、

もだえながら死んでいった。


今では猫のサカリの声と解る気味悪い金切り声が、周囲の暗闇にウロウロして、

時々学級文庫で読んだ怖い話の数々を僕の脳裏に浮かばせたり、

どんどん酷くなる父さんと母さんの怒鳴り合い、

さっき聞いたののしり合いの大声を、僕の耳の奥にこだまさせた。


《アンタまた仕事辞めたんだって?今月の家賃どうすんのよ!》

《お前また客と寝てるんだろ!このガキも本当に俺の子かよ!》


うんざりだ!うんざりだ!うんざりだ!


僕はどんどん出てくる父さんと母さんの怒号どごうを頭の中から消そうと、

心の中でそう叫び、血のようなサビのついた赤い両手で、耳をおおっていた。


僕はどん底の気分だった。


と言うか、世界の終わりの中にいた。


物心ついた時から僕の両親はいつもこうで、

僕はいつもどん底の気分だったけれど、

その日は本当に、もう本当の本当に、

世の中全部が壊れていくような、どん底の気分で、

幾時間もそうして、涙と鼻水でグチャグチャになっていた。



「お前、何やってんの?」



泣きはらして重たい目を開けると、

僕のぼやけた目の前の視野に

小学校高学年か中学生くらいの男の子がいた。


「もしかして…泣いてる?」


そう言われて僕は何だか急に恥ずかしくなって、

服の袖で涙と鼻水ををぬぐってから男の子に尋ねた。


「キミ、どこの子?何年生?」


「俺?幽霊!

だから学年なんてないよ。」


その子が僕に顔を近づけると、

日焼けした黒い顔の右の目の下と口の下にホクロがあるのが分かった。


幽霊は自分で切ったような不揃いな髪、汚れた服を着て、

でもそんなのどーでもいいように、

顔中を白い歯のようにして堂々と、

どこか少し威張いばってるような、勝ち誇るような態度で笑った。


「嘘だ!キミ、足があるじゃないか!」


「足がある幽霊もいるんだぜ、マジで!」


僕はその言葉でちょっと怖くなったけど、

その子が空き缶をカーンと川に向けて蹴り、

それが確実に川に落ちた水音を聞いて、絶対嘘だと確信した。


「やっぱ幽霊なんて嘘じゃないか。」


「まぁ、違うっちゃー違うかな?

でも、そんなようなモンなんだよ、俺。

で、お前、名前は?」


塚本一郎つかもといちろう


「ダッサ!お前今からイッチな!」


自分でも確かにつまらないと思っている自分の名前をバカにされて、

僕は少しムッとした気分になったのだけれど、

それ以上にイッチの呼び名が気に入ったし、

何故なぜかその子とはずっと友達だったような親しみを感じていた。


「なぁイッチ。、

俺、母さんに聞いた呪文知ってるんだ。

悪い事はなんでもなくなっちゃう内緒の呪文。

母さんと俺との秘密の約束だけど、特別に教えてやるよ。」


その子は僕に駆け寄って、急に僕の顔を両手で掴むと、

んまっと勢いよく僕のひたいにキスしてつぶやいた。


「チチンプイプイ!これでもう何でも大丈夫っ!」


その子は愉快そうにくるくる回りながら、

聞こえてきた猫のサカリの声を真似て奇声を発し、

僕の座るブランコの後ろの方に走って行った。


「何かちょっと気分良くなんねぇ?

俺の母さんは嘘は言わない。

俺、いつもこれで気分良くなるんだ。

お前ももう大丈夫だから、

泣かないで家帰れ!」


ブランコに座りながら振り返った僕に手を振りながら、

その子はどこかに行ってしまった。


その翌日、僕の両親は離婚した。


僕は新学期の始まりの前に親戚と言う名の人たちの間を転々とし、

結局、施設に預けられた。


そのせいもあって

あの子、あの幽霊と名乗った子とは2度と会うことはなかったけれど、

あの子のお母さんの呪文は、ある意味効いた。


僕はあの時確かに少し気分が良くなったし、

あの夜以降、僕をあれほど悩ました両親の怒鳴り声、

誰かが怒鳴る声を1度も聞かなくなったから。


代わりに、僕の周りにはいつも、

ヒソヒソとした人々のささやきが満ちていたけれど、

僕には彼らが何を話しているか聞き取れなかったし、

僕は僕の事だけに集中すればよかった。


年月が経つにつれて僕の記憶は曖昧あいまいになって、

あの子は本当に幽霊だったのかもとも思うようになり、

幼い日の僕の想い出の中にいつまでも強く残った。

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