26


 ああ、まただ。

 またここにいる。

 伸び放題に伸びた低木の枝の間に張り巡らされた、細い銀糸。

 その中央にそれはいる。いつからかいるのか、ずっとこの地にいるのか。この屋敷に棲みついているのか…

 いつもじっと僕を見ている。

 捕らわれていた羽虫を指先で逃がした。



 走っていた。

 庭園を抜け、その奥へ。広大な地の木々を掻き分ける。朝の薄い闇の中をただひたすらに走っていた。

 シノを自分だけのものになんて。

 この手で殺すことなんて──出来ない。

 戻って来てくれたことに浮かれていた。

 顔を見れて嬉しくて、何もかもを忘れていた。

 城から来た使者の──あの老人のしわがれた言葉が蘇る。

 約束の不履行は誰にとっても不幸な結果でしか──

 そうだ。

 一緒にいられない。

 分かったとあのとき決意したはずだ。

 僕を選んでくれたそれだけでもう充分なのに。

 どうして一瞬でもあんなことをしようと思ったのだろう。

 僕は愚かだ。

『はあっ、はあ…っ、はっ…!』

 この地を出て余所に行くのだ。

 別の場所へ、きっとどこででも暮らしていける。

 もともと物心ついたときにはひとりだった。きっと生きていける。

 ずっとそうしてきたのだから。

『は…っ、はあ…』

 この道を行けば境に辿り着く。

 領地の出入りはレクタールの民には許された特権だった。

 あと少し。

 ここを抜ければ──

『…ッつ…!』

 何かに足を取られた瞬間、勢いよく地面に倒れていた。咄嗟についた手に鋭い痛みが走る。

『…っ、は…』

 痛みにびりびりと手が震えた。返した手のひらはざっくりと切れていた。見れば土に埋まった石の端が鋭く突き出ていた。僕の血に濡れている。

 ぎゅっと手を握り締めた。

『……っ』

 立ち上がり、歩き出した。

 離れなければ。

 もっと遠くへ。

 まだきっとシノは眠っている。

 もしも彼が気づいて追いかけて来るようなことがあったら…

 もしも、そんなことが起きたら。

『……』

 もう二度と離れられなくなる気がする。

 目の前の枝を腕で払おうとして、何かが手首に絡みついていることに気づいた。

 これは…?

 蜘蛛の糸?

 どこで付いたのだろう。

 ざあっ、と強い風が吹きつけた。南の方から、僕の背後から風は前へと抜けていく。

 僕は振り返った。

 なんだこの匂いは。

 何かが焦げ付くような、何か焼けているような──

 何気なく視線を上げて僕はぞっとした。

 真っすぐに黒煙が上がっている。

 薄青い空のそこだけが赤く燃えていた。

 地上から昇る火の手。

 それはまさしく僕のいたレクタールの屋敷からだった。


***


 なんだこれは。

 蜘蛛?

 蜘蛛そのものだ。

 遠い記憶の中にその影を見る。

 だがそれも一瞬でまたすぐに元の黒い塊へと戻った。

「なんで…?」

 きらきらと美しい鱗粉が降り注ぐ。それは黒い塊の上に絶え間なく落ちていく。

「ああああああああああ──」

 叫び声は段々と人の声を為さなくなっていた。

「アアアアー…」

『──オリエンス』

 声は七緒の頭の中に直接響いていた。

「──」

 手の下で梶浦を覆う黒い揺らめきがうねり出す。蝶の鱗粉がかかった場所から紙に火の粉が広がるように溶けだしていく。

「詞乃…っ」

 あと少し、あと少しでここから出してやれる。

 飲み込まれないで。行かないで。おれを──

「おれを見ろ詞乃」

 蹲っていた梶浦が顔を上げる。

 息が出来ないのか喉元を手で押さえている。

 七緒は溶けた隙間から手を入れようとした。

「──ッ」

 バチッと電流が走ったように弾かれる。

「詞乃!」

 どうしてどうして、なぜ。

『無駄だ』

 もう一度手を入れて激しく抵抗される。

『これがおまえの望んだことだ』

「違う!」

 違う違う違う。

 ただ一緒にいたくて。

 ただ寂しくて。

 こっちを見て欲しかったから。

 ほんのちょっと開いた心の隙間に囁かれて頷いてしまった。

 でも、でも、こんなことじゃない。

 こんなことは違う。

「詞乃…!」

 生きて、生きて一緒にいたかった。

 弾かれた手に痛みが走り、七緒は手を返した。

 手のひらが傷ついている。

 血が滲んだそこに蝶が降りてくる。

「──」

 光を放つ鱗粉がまるで蛍のように辺りを飛ぶ。

 闇を照らし、導くように取り囲む。

 蝶は手のひらに止まった。

 七緒が息を呑んだその瞬間、カッと燃え上がり消えた。手のひらに花びらのような翅の欠片を残して。

 瑠璃色の翅。

 瑠璃色の──

 何かに誘われるように、七緒はその欠片ごと手のひらを押し付けた。

 


『おまえが好きみたいだな』

 僕を見てシノが言った。

『え?』

『そいつだ』

 そう言ってシノは空を指差した。見れば一羽の蝶が飛んでいた。

『ああ…』

 その蝶はよく庭で見るようになっていた。前に蜘蛛の巣から逃がしてやった蝶とよく似ていたが、あれは一年も前のことだった。

 きっと同じ種なのだろう。

『この花が好きなだけだよ』

 庭一面に咲いた小さな花の中に僕たちはいた。

『何て名だ?』

『え?』

『その花だ。おまえはいつもこの花の匂いがする』

 僕が?

 尋ねるシノに僕は答えた。

『ロブナリアだよ』

 シノが僕を見た。

『古い言葉で、小さな欠片と言うんだ』



 七緒の手が触れたその一瞬ですべてが消えていった。

 梶浦を覆っていた黒い揺らめきは霧のような光の粒となって闇の中に吸い込まれていく。

「七緒…!」

 ぐらりと傾いた体を梶浦は抱き止めた。

 息苦しさに肩で呼吸を繰り返しながら顔を覗き込むと、七緒は気を失っていた。

 その体をぎゅっと抱き締める。

「もう諦めろ」

 黒い塊はずるずると通路を這い、篤弘の影の中に入ろうとしていた。

「そいつは何の関係もない」

 梶浦の頭の中に笑い声が響く。

 心の奥底までをも見透かした声だ。

 ほんのわずかな隙間から入りこみ、人を操る。

 それを何と呼ぶのか知らない。

 何であるのか。

 人の心の深くに眠る欲望を貪り願いを叶えてやると囁きかける。

 篤弘もきっとそのようにして取り込まれた。

 オリエンスと同じように。

 声は笑った。

『──』

 梶浦はそれを睨みつけた。

「失せろ」

 篤弘の体に手を伸ばした瞬間、持てる力すべてを込めて梶浦はその左手の指を鳴らした。

 今なら──

 パン、と夜の暗がりに音が響く。

 同時にぐしゃりと潰れる音がして通路に黒い染みが飛んだ。

 外灯がぱちぱちと瞬いて車の音が聞こえ始める。

 いつもの夜だ。

 日常が戻ってくる。

 篤弘の足下に小さな虫のようなものが転がっていた。まだ小さく痙攣している。

 梶浦は思い切りそれを踏み潰した。

 どこかから足音が近づいてくる。

「ねえ、ちょっと…さっき──」

 和加子だった。

 七緒の手から瑠璃色の翅が落ちた。

 それは幻のように宙で溶け消えていく。

 小さな光が空に上り、やがてそれも見えなくなった。


***


 ああどうして。

 どうしてこんなことになったんだ。

『オリエンス! オリエンス!』

 目が覚めるとひとりだった。シーツの冷たさに血の気が引いた。

 どこに行った?

 庭にいるのか?

 だがその静寂さに手の先が冷たくなった。

 嫌な予感に心臓がどくどくと高鳴り、飛び起きたそのままで扉を開け屋敷を飛び出した。

『オリエンス!』

 夜明け前の薄青い闇の中でその名を呼んだ。

 どうして。大丈夫だと言ったのに。

 何も心配することなどなかったのに。

 連れ戻さなければ。

 そしてちゃんと話を──

 屋敷の裏にある馬房に向かおうとしたその時、火の手が上がった。

 馬の高い嘶きが朝の静けさを切り裂いた。

 炎は高く上がり、屋敷の壁を飲み込んでいく。

 なぜ──

 ただの出火などではない。

 誰か、人の手によるものだ。

 俺は興奮し暴れる馬を宥め馬房から出した。

 探さなければ、オリエンスを──早く。

 早く。

 俺は馬の背に飛び乗った。腹を蹴ると風のように馬は駆け出した。

 


 走っていた。

 来た道を戻って行く。

 死に物狂いで走り、庭園の裏に辿り着いた。

『シノ!』

 炎は高く上がり、屋敷を覆い尽くしていた。

 ああ、どうして。

 どうして。

 彼は眠っていた。

 まだ中にいるかもしれない。

 まだ、この中に。

 扉は既に火に包まれていた。

『シノ! シノ!』

 壁の一部が崩れ裏手が丸見えになった。煙の向こうに馬房が見える。あそこにはシノの馬がいるはずだ。駆け寄ろうとして、はっとした。

 馬がいない。

 馬房の柵が上がっていた。

『…シノ!?』

 そう簡単に柵は外れない。ならばシノが連れ出したのだ。

 どこに──

 もしかして。

 僕はまた──

 振り返り、駆け出そうとしたとき銃声が轟いた。

 左肩を激しい痛みが貫く。

 僕は地面に倒れた。

 背後から銃で撃ち抜かれたのだ。

『う、…ぐ、ぅっ』

 黒い煙と熱が辺りに充満する。

 どっと噴き出した汗が目に沁みた。

 煙る視界の中、誰かがゆっくりと近づいてくる。

『おっと、外してしまったか』

 笑っている。

 僕を見下ろして。

 誰かに面影が似ていた。

『初めて見たが男には見えないな』

 僕の前に屈みこみ顔を覗き込んできた。

『これが兄上の趣味か…』

 兄上?

 シノの弟?

 指先で僕の顎を上向かせ、酷薄に笑った。

『綺麗な顔だ。オレも一度くらい味わっておけばよかったかな』

『…っ』

『ああ、可哀想に、こんなに泣いて』

『や…め、っ、ア! あああああッ!』

 頬を舐められて怖気が走った。振りほどこうともがくと、撃ち抜かれた左肩を容赦なく指で抉られた。

『んんん! んう、んん…ッ!』

 苦しむ僕に無理やり口づけてくる。その顔を夢中で引っ掻いた。シノの弟はゆらりと立ち上がると僕の手を思い切り踏みつけた。

『…ッ!』

『くそ!』

 唾を地面に吐き、口元を拭う。

『男娼ごときがオレの顔に傷つけやがって!』

 そう言って銃口を僕に向けた。

『人の役に立って死ねることをありがたく思うんだな』

 その腕に何かが這っていた。

 黒い影、小さな──

 あれは。

『──』

 再び銃声が鳴り響いた。

 その瞬間、目の前の弟の肩が弾け飛び、どさりと倒れた。

『オリエンス!』

 シノの声がした。

 煙りの向こうにシノの姿が見えた。

 走って来る。

 でも。

『ぐ…っ』

 弟の起き上がる気配に僕は力を振り絞り体を起こした。

 来ては駄目だ。

 来ては──

『シノ!』

 背後でガチャ、と音がした。

 僕はシノに飛びかかった。

 シノがはっと銃を構える。

 けれど一瞬遅かった。

 心臓のすぐそばを何かが貫いていった。

 


『オリエンス!』

 目の前で倒れたオリエンスを抱き止めた。

『オリエンス、オリエンス、しっかりしろ!』

 血が流れていく。

 ごうごうと炎は音を立てて屋敷を飲み込んでいく。

 誰かが駆けつける音がした。

『オリエンス…っ』

 どうして、どうして。

 俺から逃げたりしたんだ。

 どうして、目が覚めるまでいてくれなかったんだ。

 どうして俺は、ちゃんと話さなかったのだろう。

『…シ…、…』

 血に濡れた手が俺の頬に触れる。

 その手を握りしめた。

『死ぬな、死ぬなオリエンス、…誰か、誰か来てくれ!』

 冷たい。

 冷たい指先。

『ごめ…、…こん、な…』

『オル、オル、おい、なあ、俺を見ろ! オリエンス!』

 オリエンスの目から涙が零れ落ちた。指先から力が抜け、ずるりと俺の手から落ちていく。

 地面に落ちた手のひらにどこからともなく現れた蝶が止まった。

 瑠璃色の翅。

 いつも、オリエンスの周りを飛んでいた。

 夜明けの白い光が差し込んだ。

 涙が溢れ世界が滲んでいく。

『オリエンス?』

 唇はもう俺の名前を呼ばない。

 その目はもう俺を見ない。

 もう一度、もう一度、会いたい。

 オリエンス。

『俺を見てくれ…』

 必ずきっと、今度こそ──もしも生まれ変わることが出来たなら。

 今度こそきっと離したりしない。

 掴まえて、ずっと…

『…オリエンス』

 もう一度。

 俺の名を呼んで。

 俺を見て笑ってくれ。

『頼むから──』

 涙がオリエンスの頬に落ちた。

 ゆっくりと伝い、唇の端を濡らす。

 そのとき風が吹いた。

 誰かに呼ばれた気がして俺は顔を上げた。

 目の前の蝶がひらりと翅を動かした。

 夜明けの光を浴びながら、蝶はオリエンスの手の中に溶けるように消えていった。

 その手のひらに誘われるように、俺は自分の左手を重ね合わせた。



「ちょっと?」

 どうしたの、と言う和加子の声に梶浦は顔を上げた。

 遠い思い出がゆっくりと遠ざかっていく。

 波が引いて行くように。

「いえ、何でも」

「なんでもって…」

 嘘でしょ、と篤弘を見下ろして奇妙な顔をする義姉に梶浦は苦笑した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る