25
オリエンス。
『──オリエンス』
シノが僕の名前を呼ぶ。
『シ…』
愛しくて胸がいっぱいになる。
『シノ…っ』
『泣くな』
『ひと月も、な…、どうし…』
手のひらで触れた頬は少し痩せた気がした。よく見れば彼の体は細かな傷がいくつもついていた。
『手当を…』
『要らない』
『でも…っ』
シノは苦笑を浮かべて眦を下げた。
『大丈夫、逃げて来るときに出来ただけだ』
『に…』
逃げて?
それはどういう意味だ。
シノは城にいたのではないのか?
次の言葉を探していると、大きな手が僕の髪を撫でた。
『話はもう──後だ』
ベッドに僕を沈めシノは覆い被さってきた。
『ん…っ、』
唇を舐められる。びくりと浮いた体を強く抱き締められた。大きな身体は僕を囲い、もがくことも出来なかった。
『──オリエンス』
『…は、あ──、っん…っ!』
『会いたかった』
僕も。
僕も会いたかった。
『会いたかった…、オル』
薄い夜着を剥ぎ取りながらシノが言う。乾いた唇が首筋を下りて露わになった肩の薄い肌に押し当てられた。硬い歯が突き立てられる感触に全身が火を吹いたように熱くなる。
『あッ…』
『俺の──』
ピリッと走った痛みにシノに縋りつくと、宥めるように柔らかな舌がそこを舐めた。
『俺のオリエンス』
快感が背筋を震わせる。熱に気ぶる視界はぼんやりとして、輪郭がない。小さなランプの明かりの中でシノの目が食い入るように僕を見つめてくる。
熱を孕んだその視線がどんな意味を持つのか僕はもう知っていた。
けれど、ここにいたら──きみは。
『俺は何も要らない』
シノが呟いた。僕の考えを見透かしたように。
『で、も』
『余計なことは考えるな。大丈夫、全部──』
『あ…っ、あ、い』
『上手くいくから』
目が覚めたのはまだ夜明け前だった。
抱かれている間中ずっと、あの声は僕に囁きかけていた。
(騙されるんじゃない)
抱き締めるシノの腕の中から僕はそっと身を起こした。部屋の中は夜のようにまだ暗く、ほんのかすかな朝の匂いが混じっている。
眠るシノの顔を眺め、瞼にかかる髪を指で払った。
(いずれおまえを裏切るぞ)
シノが、僕を。
(ひと月も帰って来なかったではないか)
それが証拠だと笑う。
(男のおまえと一緒になどいられはしない)
『──』
そうだ、僕は男だ。
僕と一緒にいたところでシノには何の得もない。受け入れてもらえるはずのないこの関係は、彼をいつかじりじりと追い詰めていくだろう。
今はよくても。
(そうだ)
耳元でにやりと笑う。ひたりと影のように肩に貼りつき、僕の首に纏わりつく何かがゆっくりと糸を引く。
(おまえは捨てられる)
シノが身じろぎ、その腕が何かを探すように僕がいた場所を撫でる。シーツの擦れる音がしんとした部屋に響く。指が少し離れた僕の手に辿り着き、指先をきゅ、と握った。
たったそれだけの行為が胸を締めつける。
いずれ──もしも、シノが僕から離れるときが来たら、僕は──
彼がいなかった間の苦しみを思い出す。
身悶えて眠れなかった夜。
嫉妬で身の内を灼いた。
『──』
(さあ、オリエンス──こいつをおまえだけのものにしろ)
『──』
別の誰かに、渡すくらいなら。
いっそ──
いっそ、…
今、ここで。
この手で。
『……』
それはまるで他人事のようだった。
僕の手がゆっくりとシノに伸びていく。
僕の意思とは関係なく、僕を動かす何か。
「そうだ」
声ははっきりと聞こえた。
耳の中に直接吹き込まれる囁き。
息がかかる。
ひたりと笑う。
僕を誘う。
ゆらゆらと世界が揺れる。
眠るシノの首に指を這わせ、そして。
そして。
力を。
『──』
さあ。
「さあ、願え…オリエンス」
どんな望みも叶えてやろう。
『シノ』
そして、僕は──
誰かが遠くで僕を呼んでいる。
僕を、僕ではなくなった僕を。
もう僕ではない名前を。
「七緒!」
世界が戻ってきた。
誰かの悲鳴。
遠ざかっていく足音。
目の前には梶浦がいた。
今見た記憶の中で同じ名前で呼ばれていたのは、紛れもなく彼だった。
手のひらは揺らめきに触れているのに、消えていない。
どうして。
どうして?
「なん、で…っ」
いつもなら簡単に消えてしまうのに。
あんなに簡単に消えるくせに。
「どうしてだよお…!」
指先に残る感触。
それはたった今の出来事のようだ。
「詞乃、おれ、おれは──」
あの記憶が本当なら。
おれは。
「おまえを…」
「オリエンス」
オリエンス。
記憶の中の自分の名前。
篤弘の声に七緒は振り返り、息を呑んだ。
「──」
それはもう篤弘ではなかった。
濁って淀んだ黒い水の塊が、通路に倒れた篤弘の影からのびていた。
「今こそおまえの願いを叶えてやろう」
その声には聞き覚えがあった。
あの声だ。
──どんな望みも叶えてやろう
「やめろ!」
あのとき願ってしまった。
そうだおれは願ったのだ。
その声に負けて、シノを自分だけのものにしたいと願った。
笑い声が響く。
そのとたん梶浦を覆った揺らめきがどす黒い色に変わっていく。梶浦の苦しみが手のひらを通して伝わってきた。
まるで水の檻だ。
「嫌だ、いやだ嫌だ! 詞乃、詞乃ッ!」
手のひらを打ちつける。何度も何度も、七緒は揺らめきを消そうと手のひらに力を込めた。
「なんで、なんでっ…!」
いつもみたいに消せない。
指先だけでよかったのに。
どうして。
どうして肝心なときには何ひとつ出来ないのか。
「おまえが望んだことだオリエンス」
「違う! 違う、おれは…っ、おれは…!」
自分のものにしたかった。
でも、出来なくて。
出来なくて──
涙が溢れ出した。
「だから、逃げて…」
思い出した記憶の断片がぼろぼろと涙と共に湧き出てくる。
逃げ出した自分の姿。
夜明け前の闇の中を、ただひたすらに走っていた。
そして──
「そうだ、おまえは逃げ出した。だからおまえの願いを果たそうと私はここにいるのだ」
「もういい、もう、いいから…!」
「そうはいかない」
黒い水はゆらゆらと揺れた。
これを何と呼ぶのか七緒は知らない。
過去の自分もきっと分かっていなかった。
「契約はまだ終わってはいない」
黒い塊は大きく膨れ上がり、梶浦を覆う黒い揺らめきに飛びかかった。
(あ)
そのとき、どこからともなく蝶が現れた。
夜の闇の中から。
七緒の頭上を舞い、きらきらとした瑠璃色の鱗粉を撒きながら黒い塊の上を羽ばたいた。
「あああああああああああああああ――――!」
その瞬間、激しい悲鳴が響き渡った。
梶浦に取りついた揺らめきが大きくうねり、黒い塊が暴れ狂う。苦しみの声を上げグネグネと動くそれは四方に捩じれ、八つの手足のようなものを生やしてのたうち回った。
それはまるで蜘蛛そのものだった。
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