22


 ゆらゆらと揺れる篤弘の体。

 でもこれは篤弘じゃない。

 篤弘の顔をした何かだ。

 何か…

「誰って、オレだよ」 

 空気はまるで固い塊のようで、呼吸がままならない。胸が押しつぶされそうだ。肩で息をしながら七緒は睨みつけた。

 そんな七緒を見下ろして篤弘は笑っている。

 ゆっくりと屈みこみ、七緒の前に膝をついた。

「七緒のことが好きでたまらない篤弘だよ」

 七緒の顎を持ち上げて、篤弘は首を傾けて目を覗き込んできた。首を振って指を振りほどくが、体が思うように動かなかった。

「おまえを手に入れたいって願ったから、こいつはこんなふうになったんだよ」

 七緒は目を瞠った。

 こいつ?

 今…

 なんて?

「おまえが払っても払っても結局は無駄だったんだよ。人の欲というものは後から後から湧き出てくる泉のようなものだ」

 いつもよりも少し低い篤弘の声が耳の奥に染み込んでくる。

 この声を聞いたことがある。

 いや、違う。

 この台詞を一字一句違わずに聞いたことがあるのだ。

 どこで?

 篤弘は七緒の顎を上向けてすっと目を細めた。

「まるで源泉だよ」

「…、なに、言って…っ」

「おまえもそうだろう? 昔も今も、欲しがっているくせに」

 昔?

「あいつは今おまえの知らない女といる」

「──」

「おまえを選ばなかった」

「おれは…」

「またしてもおまえを選ばなかった」

 心臓が音を立てる。強く握り潰されたように痛んだ。

 訳も分からず涙が込み上げてきて七緒は歯を食いしばった。

 悲しい。

 悲しみが胸を覆い尽くす。

「かわいそうに」

 髪を撫でられたその動きで涙が零れ落ちた。

「かわいそうに、七緒」

 後から後から涙は溢れて落ちていく。篤弘の指がそれを掬い、赤い舌でべろりと舐めた。

「かわいそうに…」

 胸を締めつける。

 この悲しみはなんだ?

 梶浦の背中が滲む視界の中に浮かんでくる。

 誰かと抱き合っている。

 おれじゃない誰か。

 見たこともない景色、花が。

 花が咲き乱れて──

「どうして…」

 唇の隙間から呟きが零れ落ちた。自分の声なのに自分じゃないと感じた。

「どうして、なんで…」

 あんなことになってしまったのだろう。

 ぼろぼろと涙が落ちていく。

 ぐらぐらと視界が揺れる。

 覚えのない後悔が胸いっぱいに広がっていく。

 篤弘がそっと耳元で囁いた。

「…かわいそうに」

 七緒の頬の涙を味わうように舐めた。

 血のように赤い舌で舐め取っていく。

 かすかに笑い、そして言った。

「その願い、叶えてやろうか?」

 その瞬間、ぎゅうっと七緒の瞳孔が締まった。

 叶えてくれる?

 おれの願い。

「かなえ、て……?」

 体中が燃えるように熱い。

 ああ、駄目だ。

 だめだ、その声を聞いては。

「欲しいものを手に入れてやる」

 欲しい。

 欲しい。

 欲しいよ。

 ──欲しい。

「…シノ」

 その瞬間、七緒の左肩からゆらゆらと揺らめきが立ち上った。それは天井にぶつかり、七緒の背中に覆い被さる。

 ゆらゆらと世界が揺れている。

 足音がした。

 誰かが外の階段を上がっている。

 その足音は七緒の玄関前を通り過ぎた。

 帰って来た?

「七緒、さあ」

 さあ、手に入れておいで。

「……」

 耳元で囁く声。

 ゆっくりと七緒は立ち上がり、水の中を歩くように玄関に向かった。

 篤弘が笑った。



 車を運転する和加子の隣で梶浦は落ち着かなかった。

 苛々として爪を噛みそうになり、止める。

「ちょっと、やめてよね」

 ちらりと和加子が横目に見て窘める。

「それ私の癖よ。真似しないで」

「してません」

「どうだか」

 前方に目を戻し不服そうに和加子はため息をついた。車の流れは少し先の交差点で渋滞していた。赤いテールライトが続いている。

「義理とはいえ姉弟でもそれは許さないから」

「俺も欲しくはないですよ」

 和加子はぐっと黙り込んだあと、ばっと梶浦の方を向いた。

「あのっさあ! 前々から思ってたけどその他人行儀な敬語ほんっとやめてもらえない!?」

 前の車が止まる。和加子は高いヒールの靴でこれでもかと言うような急ブレーキを踏んだ。

 ふたりして前のめりになったまま見合う。

 先にため息をついて目を逸らしたのは梶浦だった。

「あんたお義母さんにもそうじゃない、なんなのよ」

「今更でしょう」

「私とお父さんもやめて欲しいんだけど」

「諦めてください」

「何なの諦めるって」

 遠くで信号が変わった。ゆっくりと動き出す車の列。それを見ながら梶浦は走ったほうが早いような気がした。

 早く、帰りたい。

「実の親にも敬語とかあり得ないんだけど。あんたにとって私たちって何なの」

 さっきとは打って変わって丁寧にそっと和加子は車のアクセルを踏んだ。滑るように滑らかな動きで車は前に進む。

 俺にとって?

 前の記憶を持ち続ける梶浦にとって、家族とは仮のものに過ぎない。

 いつかいなくなるもの。

 いつか離れるもの。

 いつか、忘れていくもの。

 ずっとそう思ってきた。

 梶浦が答えずにいると、和加子ははあ、と大袈裟なほど大きなため息をついた。

「そんな家族にも他人行儀なあんたが人を好きになるってほとんど奇跡なんじゃない?」

 奇跡。

「そうですね」

「そうでしょうよ」

 呆れたように和加子は言った。

「よっぽど好きなのよ、その子のこと」

 すれ違う車のライトが和加子の横顔を照らす。

 車の流れは気づかぬうちに早くなっていた。

「よく見つけられたわね、そんな相手」

「ええ」

 そうですね、と梶浦は頷いた。

「ずっと探していたんです」

「…ふうん」

 和加子はちらりと梶浦を見てそう言うと、無言で車を加速させた。


***


 がちゃがちゃと音がしている。

 梶浦の部屋から。

 ふらふらと廊下を歩き、七緒は玄関まで辿り着いた。

 世界が水の底に沈んだようだ。

「あ…」

 くぐもった自分の声が耳にざらつく。

 でもがちゃがちゃというそれだけは鮮明に聞こえてくるのだ。

 どうして。

 どうして?

 一緒にいてくれるって言ったのに。

 待ってるって言ったくせに。

 言ったのに。

 ひんやりとしたドアノブに手を掛け、ゆっくりと玄関を開けた。

 暗い。

 薄く開いた外から冷たい風が入って来る。

 裸足のまま七緒は外に出た。

 闇が陽炎のようだ。

 梶浦の部屋の前に黒い人影がある。

 ああ、帰って来たんだ。

 帰って来たのに、なんで。

「なんで?」

 影がびくりと震えた。

「なんで、来ないの?」

 何か言っている。

 言い訳だろうか。

 どうして、どうして、そんなことが聞きたいんじゃない。

「なんで…おれをひとりにするの?」

 そうだ、と耳元で声がした。

 そいつは二度もおまえを裏切った。

「二度目だよ、七緒」

 許せないだろう。

 じりっと後退る影に七緒はゆっくりと近づいた。

 来るな、と声がした。

「なんなんだよ…っ、俺が何したって──」

 誰かが耳元で笑っている。

「…なにそれ」

 俺がなにしたって、なに?

 約束したのに。

「約束したのに──」

 そうだ、許せない。

 手に入らないのなら──

「来るな、来るなよおお!」

 隅に追い詰めた影が喚き散らす。それに七緒は飛びかかった。



 アパートの近くまで行くには和加子の車は大きすぎた。

「ここで降ろしてください」

 梶浦はUターン出来そうなところで和加子に言った。

「はあ?」

「いいから止めてください」

「ちょっともう…」

 なんなのよ、と呟きつつも和加子は狭い道の先にあるT字路の前で車を停めた。

 止まるなり梶浦はドアを開け外に飛び出した。

 風邪の中に七緒の匂いが混じっている。

 嫌な予感に梶浦は走り出した。一体何が起きているのか。

 それに、あの蝶。

(間違いない)

 暗い道のあちこちにゆらゆらと漂う海月のような塊を梶浦は指を鳴らして消した。

 これもそうなのか。

 早く七緒のところに行かないと。

「ちょおっと! ほんとになんなのよお!」

 背中にぶつかる和加子の声に悪いと詫びながらも、梶浦は振り返らなかった。



 違う。

 こんなことがしたいんじゃない。

「いいぞ」

 耳元で囁き続けているのは篤弘の声だ。

 でもこれは篤弘じゃない。

 おまえは篤弘じゃない。

 篤弘だったら、あんなこと絶対に言ったりしない。

 家族のいない七緒には分かんねえだろうけど──

 そんなことを篤弘が言うはずがない。癇癪持ちで常に機嫌の波があり面倒な人間だけれど、それでも篤弘は優しかった。

 中学で知り合い、よく話をするようになったころ、ふとしたことで互いの家族の話になった。

『森塚っておばあちゃん子なんだな』

『うちの親家にいないこと多いからな、ばあちゃんとは仲良いんだよ』

 で、と篤弘は言った。

『奥井んとこって親何歳? 仕事何やってる人?』

『ああ、うち親いないよ』

『え?』

『父親は知らないけど母親はもう死んでる』

『…は?』

 特に自分の事情を隠したりしない七緒はあっさりと言った。それに慌てたのはむしろ篤弘の方で、分かりやすいくらいに動揺していた。

『だから、母親の知り合いだった園長がおれを息子にしてくれるって話もあったんだけど、おれはそれが嫌だったんだよね』

『…嫌なやつなのか、そいつ』

『違う。そうじゃなくて』

 険しい顔をした篤弘に七緒は苦笑した。

『いい人過ぎて。園長独身だし、そのうち誰かと結婚するかもしれないし。そうなったときにおれがいると邪魔になるからさ』

 そうはなりたくないから養子の話は最初にしっかりと断っておいた。それに、七緒はこのままのほうがいい気がずっとしているのだ。

 自分の持つ奇妙な力のこともある。

 母親以外の誰かと家族になるのは、今ではないとどこかで感じるのだ。

 それは誰かを探しているような、それに似ている。

 ただこの気持ちをどう言えば理解してもらえるのか七緒には分からなくて、ひとりもいいよ、とだけ篤弘に言った。篤弘はそんな七緒に同情したのか、気がつけばいつも一緒にいるようになっていた。

 だから違うと分かっているのに。

 体が止まらない。

 影になった梶浦を押さえつけている。

 手を伸ばして首に触れる。

 梶浦の顔はなぜか黒く塗りつぶされたように見えない。

「そうそう、そうだ」

 いいぞ。

 違う。

 違うんだ。

 こんなことがしたいんじゃない。

 七緒の視界がゆらゆらと揺れる。

 水の中にいるように。

 悲しくて苦しくてもがいてももがいても抜け出せない。

「は、…っ」

 目の前がぐらぐらと揺れる。目まぐるしく過ぎて行く景色で頭がいっぱいになる。

 知らない。

 全部知らない。

 なのに懐かしくてたまらない。

『約束する、いつかきっと見つけに行くから』

 そう言って髪を撫でる手。

 傷ついた手のひらを伸ばして、最後に触れたのは、きみの頬だった。

「シノ」

 影の上にぼたぼたと涙が落ちる。

 嫌だ。

 嫌だ。

 こんなことをするために生まれ変わってきたわけじゃない。

「──」

 びくりと体が震えた。

 今──なんて?

 おれ、今…

「七緒!」

 その声に七緒は顔を上げた。

 ゆっくりと振り返る。

「やめるんだ、七緒…!」

 息を切らせた梶浦がそこに立っていた。

「おいで」

 両手を開いて梶浦は言った。

 けたたましく篤弘は笑い、七緒の耳元で囁いた。

「騙されるんじゃない」

 さあ。

「──」

 七緒を覆っていた海月が大きく膨れ上がり、梶浦を飲み込んでいった。



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