21


 窓の外を彼が出て行く姿が見えた。暗い雲から薄いカーテンを下げたような雨、茂った草木の向こうを馬がゆっくりとした足音で去って行く。

 シノ。

 もう戻ってくるな。

 もう、ここに来ては駄目だ。

 駄目だ。

『……』

 それでもどこか期待している自分がいる。

『浅ましいな…』

 何を──何を期待することがある。

 元々相容れない運命だ。

 手をぎゅっと握り締めた。ちり、とした痛みが手のひらに走る。見下ろして、ゆっくりと開く。

 爪で出来た小さな傷が開いた手の真ん中に出来ていた。

 血が滲んでいる。

 まるで花びらのようだ。

 庭に満開の、小さな花びらを無数に付けたあの花のように。

 こつ、と小さな音がした。背後に気配を感じて顔を上げた。

『まだいらっしゃったのですか』

 肩越しに声を掛ける。

 部屋の中は暗い。その影の中に佇んだまま、その人は口元をほころばせた。

『よく言ってくださいました』

『……』

『貴方にとってこの選択が一番良かったと、きっと後で感謝するでしょうね』

『それはどうも』

『婚礼の儀には、どうぞ遠くからお見届け下さいませ』

『……』

『お約束は必ず果たされますように』

 笑いを含んだ声で使いの者はそう言うと、足音を立てて遠ざかっていった。

 やがて扉の開く重苦しい音が響き渡り、ばたんと閉まる音がした。

 静寂にキン、と冴えた空気。

 耳鳴りがする。

 音のない雨が降り続いている。

 どれくらいそうしていたのだろう。

 気がつけば雨雲は一層重く垂れこめていて、あたりは夜のように薄暗かった。

 動かなければ。

 何かをしよう。何か、何でもいい。

 いつものように振る舞うのだ。

 僕は窓辺から離れた。

『……?』

 歩き出したとき、何かを踏んだ。

 なんだ?

 足下を見下ろした。靴底の下に白い紙がある。

 屈んで取ろうと手を伸ばす。

『…あ』

 ぽたりと血が落ちた。

 手のひらに滲んだ血が指先を伝って白い紙の上に赤い染みを作った。そんなに大きな傷ではないのに、どうしてだろう。

 紙は封筒だった。シノに渡したものとまるで同じ手触り。

 中に入っていた便箋を開くと、美しく丁寧な言葉づかいで僕を罵る言葉が綴られていた。

 彼の婚約者だ。

 使者がわざと床に投げたのだろう。

 僕に膝をつかせるために。

 惨めだと思うのは間違っている。こんなはずじゃなかったと後悔するのは違う。はじめから分かっていたはずだ。領主の跡取りである彼と身分の底にいるような僕は元々出会うはずのないふたりだった。

 領地の境目で起きた諍いで怪我をした彼が目の前に現れたのは、去年の春だ。まだ冬の名残がそこかしこに残っていた。あれからもう、一年以上が過ぎた。

 今年の夏はもう終わり、この長雨が止む頃には秋になっているだろう。

 礼には何が欲しい?

 去年の今ごろ彼はしきりに僕にそう言っていた。今年の夏もまた、同じことを繰り返していた。

 何が欲しい?

 …何が?

『そんなの決まってるだろ…』

 きみが欲しい。

 叶うことならきみが欲しい。

 自分だけを見て、ここにいて、どこにも行かないで。

 そう思う自分がひどく浅ましくて嫌いだ。

 出来ることならきみを忘れたい。

 この気持ちを捨ててしまいたい。

 こんなに好きなのに。

『その願い、叶えてやろうか?』

『…え?』

 耳元でした声に驚いて顔を上げた。辺りを見回したが、誰もいない。

 気のせい?

 ざあ、と雨音が大きくなった。窓を見ると、霧雨だった雨はひどくなっていた。

 ひらりと光る。

 あれは…?

 薄暗いその中を蝶が過っていた。

 

***


 外は暗い。

 目の前に座っている人の顔を見ながら、梶浦は内心で深いため息をついた。その後ろには大きなガラス窓があり、柔らかくライトアップされた闇の中に、少しうんざりしたような自分の姿が映っている。

「本当は今日でなくても良かったでしょう?」

「でも約束は今日だった」

 確かに。でもそれは一方的に決められたことだ。そう言い返すと、くすりと笑う。

「言うね」

 ホテルのラウンジのカフェ、上質なソファに座りアンティークのテーブルを挟んで向き合っている。わざわざこんなところを選ばなくても、会って話をするだけならどこだっていいはずだ。

「不満そうな顔だね、そんな顔も出来るんだねえ」

「俺に興味なんてないでしょう」

「ないよ、でも義務だから」

 さっぱりとした口調で言い切られて、梶浦は苦笑した。十八も歳が上の義理のきょうだいは、今では親代わりでもある。

「詞乃が私のことを報告しないと、かわいそうだと思うだけ」

「…それはどうも」

「大変だね、こんな姉を持って」

「そんなふうに思ったことはないですよ」

 テーブルの上のカップを持ち上げる。コーヒーは既に冷めきっていた。

 義姉──和加子が、つ、と眉を上げた。

 何か言いかけて口を開き、やめた。そのついでのように近くを給仕していた従業員を呼び止めた。

「すみません、メニューを」

「はい」

 かしこまりました、と会釈して従業員は優雅な足さばきでテーブルの間を縫って行く。その後ろ姿を惚れ惚れした顔で見ていた和加子が、梶浦に向き直った。

「私お腹空いたから食べるけど、詞乃は?」

 従業員が持って来たメニューを受け取る彼女に梶浦は首を振った。

「俺はいいです」

 和加子は怪訝な顔をした。

「もう二十二時だけど?」

「帰って食べるので」

「帰って?」

「はい」

「…ふーーーん」

 メニューに目を落としたまま適当な相槌を打つと、和加子は控えていた従業員に素早くそれを伝えた。梶浦の方を窺うようにした彼に、梶浦は小さく首を振った。

「失礼いたします」

 従業員が去る。ミントとレモンの入ったミネラルウオーターをひと口飲むと、和加子はにやりと笑った。

「へえ、帰って、誰か待ってるんだ?」

「……」

「あそこに引っ越したのもそれが理由なのかしら」

「そうですね」

 いちいち否定するのも面倒だった。隠せば白状するまで詮索される。あっさりと頷いた梶浦に、和加子は大きな目をいっそう大きくした。

「え、嘘でしょ」

「本当です」

「女に興味のないあんたが?」

 少し大きくなった和加子の声に周りの目がちらちらとこちらを向くのを梶浦は感じた。

「どれだけ女の子が寄って来ても追い返してたあんたが? どんなに告白されても今まで誰とも付き合わなかったあんたが? 嘘でしょ」

「やめてください」

「だってそうじゃない」

 和加子はそう言うとやおら立ち上がり、梶浦に抱きつこうとした。

「何してるんですか」

 何度もされたことのある行為に梶浦はさっと腕を出してそれを阻んだ。和加子もそうなることを分かっているので、大人しく席に戻る。まるで約束事のようだった。

「私がこんなことしても全然動じないくせに、信じられないんだけど」

「それとこれとは違うでしょう」

 ため息まじりに梶浦は返した。和加子は平然とした態度でまた水を飲んだ。周りの好奇心剥き出しの目に一ミリも動じていないこの義姉はやはり只者ではない。初対面の時、まだ中学生だった梶浦をいきなり口説いて来たのも忘れられない記憶だ。

「そんなに好きなんだ」

「そうです」

「へっ、──、えええええ」

 意外、と和加子は言った。

「人間に興味がないんだと思ってたわ」

 確かにそうだ。

 他の誰かに興味などない。

 でも。

「彼は別です」

「ふうーん…………、え?」

 グラスを置こうとした和加子の手が宙で止まった。

「今、…彼って言った?」

 梶浦は頷いた。

「ええ、言いましたよ」

「彼って、男ってこと?」

「そうですね」

 従業員がやって来た。銀のトレイに載った綺麗に盛り付けられたアサリのパスタを音もなく和加子の前に置く。

「おかわりはいかがですか?」

 梶浦は尋ねられて首を振った。時計を見ればいい頃合いだった。七緒のバイトももう終わっている。

「じゃあそろそろ、俺はこれで」

 上手くいけばバス停で待つ七緒を見つけられるかもしれない。幸いにもここはあそこからほど近い。

「え、待ってよ」

 立ち上がると同時に和加子が言った。何だと見やった瞬間、首筋に飛びつかれて梶浦はため息をついた。

「お姉ちゃんを放って帰る気なの!? その子のところに!」

「離してくださいよ」

「ひとりでご飯なんかやだ!」

 はあ、と梶浦は深く息を吐いた。

「あのな…」

 どうしてこうもこの義姉は…

 周りの目が痛い。それはどうでもいいのだが、いい加減離してはくれないだろうか。

「義姉さん、いい加減に──」

 縋りつく和加子の体を引き剥がそうとして、ふと梶浦は窓に目をやった。大きなガラス窓。美しく磨き上げられたそこに映るのは意図せず抱き合うようになってしまった自分たちの姿だ。

 誰かがこちらを見ている。

 オレンジ色の照明。

 夜の街の光、綺麗に整えられた生垣。

 はっ、と梶浦は息を呑んだ。

 七緒?

 七緒がいる。

 暗がりの中に──

「っ、悪い」

 梶浦は和加子を振り切って、走り出した。和加子が小さく悲鳴を上げた。唖然とこちらを見ている人々のテーブルの間を走り抜け、明るいロビーを通りホテルの玄関を出た。

「な──」

 七緒、と叫んだ。

 梶浦の声に通行人が振り返った。構わずに梶浦は車寄せのスロープを走り下りカフェの外側に回り込んだ。

「七緒!」

 誰もいない。

 けれど。

(これは…)

 ひどく甘い匂いがあたりに漂っている。

 七緒の匂いだ。

 見間違いではない。たしかに今ここに七緒はいたのだ。

 どうしてここに?

 梶浦はそのまま大通りまで出た。左右に走り、七緒の姿を探したが見当たらない。

 冷たい空気の中に溶ける甘い匂い。

 あの場面を七緒は見ていた。そう思ったとき、ひやりと梶浦の胸の内側が冷えた。

 同じことを繰り返している。

 自分たちはまるで、試されるように。

「詞乃! もう一体どうしたのよ!」

 人の流れの中で立ち尽くしている梶浦の背中に和加子の声がぶつかった。ゆっくりと振り返ると、怒った顔をした和加子が肩で息をしながら立っていた。

「急に飛び出して! 大体私を放り投げるなんて──」

「七緒がいた」

「は? 誰?」

「七緒がここに…」

 和加子が眉を顰めた。

「だからそれ誰──」

 答えようとして梶浦は息を呑んだ。

 ひらりと飛んでいる。

 和加子の肩の向こう、夜の暗がりの中を。

 瑠璃色の羽をした蝶がまるで梶浦を誘うように舞って、闇の中に消えていった。



 玄関の鍵を開ける手が重かった。

 ゆっくりと差し込んで回す。かちゃりと開いたと同時に、篤弘がドアノブを掴んで開いてしまった。

「おかえり、七緒」

 どうやってここまで帰って来たのかなぜか記憶にない。ぼんやりとしているうちにアパートの前に立っていたのだ。

 七緒はドアを押さえている篤弘をちらりと見て先に入った。

 自分の家なのに重苦しい空気だ。

 七緒が靴を脱ぐと、篤弘も入って来た。

「お邪魔しまーす」

 靴を脱ぎ、廊下で突っ立っている七緒の背を押して、先に行くように促した。

「あーやっと七緒んちに泊まれるな」

 リビングに入ると大きく伸びをして篤弘は言った。七緒はとりあえずキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。ひどく喉が渇いて何かを飲みたかった。水のペットボトルを出してグラスに注ぎ、一気に飲み干した。

「家に連絡しろよ」

「連絡?」

「家の人心配してるだろ」

「しねえよそんなの」

 篤弘は鼻で笑うと七緒の手にしていたグラスを取り上げ、水を入れた。同じように一気に飲み干して、満足げに息を吐く。

「おまえのところのお母さん、瑛司に連絡してたっていうし心配してるに決まってるだろ、電話しろよ」

「いいって、めんどくせえし」

「篤弘」

「七緒には家族がいないからこの鬱陶しさが分かんないんだよ」

「──」

 篤弘の言葉に七緒の首筋が強張った。

 今、なんて?

 気を取り直してもう一度言った。

「…なあ、おばあさんにだけでも」

「うるせえな、ババアがなんだよ?」

 七緒はぐっと言葉を飲みこんだ。

「なあオレ、シャワー浴びたいんだけど」

 明るい声で篤弘が言った。

 七緒は戸惑った。

 今のは何だったんだ?

「いいけど…、着替えとかないよ? おれのじゃサイズ合わないだろ」

「あるよ着替え」

「へえ」

 そう言うと、篤弘は持っていたリュックの中に手を入れた。

 七緒は内心でため息をつきながら残り少なくなったペットボトルを冷蔵庫に戻した。ドアを閉めて振り返った七緒は、ぎくりとした。

「ほら、これ」

 篤弘が差し出したそれに七緒は見覚えがあった。

 それは…

「これなら問題ないだろ」

 きれいに畳まれたそれを篤弘は広げてみせた。間違いない。このまえ梶浦に借りた着替えだ。今朝、脱衣かごから無くなっていた…

「篤弘、おまえ…」

「大丈夫、ちゃんと洗ったしさ」

「ここに入ったのか? なんで──」

 どうしてこんなことを?

 混乱し始めた七緒に、篤弘はすっと真顔になった。

「七緒はさあ、あいつが好きなんだ?」

「…っ」

 下からじっとりと舐め上げるような視線。篤弘の方が背は高いはずなのに、その背中は猫のように丸まっていた。

「篤弘…」

「ねえ、もうやっちゃったの? あいつのもんになっちゃった?」

「何、言ってんだよ…」

「答えてよ七緒」

 天井の蛍光灯の光がゆらゆらと揺れる。眩暈のようなそれに、七緒はくらりとした。

 なんだ?

「いい加減にしろよ篤弘、そんなの…っ」

 言いかけたとき、篤弘が笑った。

「あいつ、今日はもう帰って来ないぞ」

「──」

 どく、と七緒の心臓が大きく跳ねた。

「あの女と一緒だ、おまえも見ただろ」

「あれは」

「くっついてたなあ、抱き合ってたよ」

「あれは、っ」

 義理の姉だと言っていた。歳が離れていると。

 だから。

「だから? だから何だ? 義理だろうがなんだろうが、おまえを裏切ったことに変わりはないぞ」

「……」

 裏切り?

「あいつはおまえを捨てたんだ、二度も」

「…二度?」

 なんのことだ。

 訳が分からない。

「どうしたんだよ、篤弘…おまえ、なんで」

 困惑する七緒に、くくっ、と篤弘は笑った。

 その瞬間、猫のようにしなる背からおびただしい量の揺らめきが噴き出した。部屋中に広がったそれは素早く塊となって篤弘の体を覆い尽くした。

 ああ、これは。

 ゆらゆらと揺れる。

 これは──

「!…っ」

 激しく左肩が痛み出した。立っていられず、七緒は膝をついた。

「はははははっ、あはははははははっ」

「…あ、うっ、」

 息が出来ない。ぼたぼたと噴き出す冷や汗が床に落ちた。

 なんだ、これ。

 体が重い。

 頭上から冴え冴えとした声で篤弘が言った。

「おまえはさあ、最初からオレのものなんだよ」

 違う。

 違う──これは、篤弘じゃない。

 篤弘なんかじゃない。

 篤弘はあんなことは言わない。

 決して。

 七緒は歯を食いしばって顔を上げ、篤弘を見上げた。

「──誰だ、おまえ」

 巨大な海月の中、篤弘は七緒を見下ろしてにやりと笑った。

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