14
花に埋もれるようにして、彼はいつもそこにいた。
『なんだ、また来たのか?』
呼び掛けるよりも一瞬早く、彼は顔を上げた。
いつも、いつもそうだ。
先に気がつくのはいつだって彼のほうだ。
悔しさに唇を軽く噛んだ。
『…またってなんだ』
『最近よく来るじゃないか』
『悪いか』
『そんなことは言ってないよ』
ぱちん、ぱちん、と伸びすぎた枝を落としていく。初夏の日差しが帽子をかぶる彼の顔に濃い影を落としていて、肌の白さとのコントラストに目が釘付けになる。
いけない。
目を逸らし、手近にあった枝を掴んだ。
見よう見まねで腰に提げていた短刀でその枝を切った。
『こら、駄目だろう』
切った枝の鋭い切り口に満足していたら、彼が言った。嗜めるような声音に、はっとして目を向けると、彼は手元に視線を落としたまま枝を切り続けていた。
『駄目?』
『その枝は切ってはいけないんだよ』
『なぜだ』
『なぜでも、どうしても』
ぱちん、ぱちん、と小気味よく鋏の音が響く。
どこか遠くで蝉が鳴いている。
夏の青空。
『ひとつひとつ、順番があるんだ』
順番?
じっと彼の横顔を見ていると、そのこめかみからすっと汗が伝うのが見えた。
顎を通り、首筋を下りていく。
指先がぴくりと動いた。
拭いたい。
『ならどうすればいい?』
むせ返るような花の匂いが、くらくらと、衝動を膨らませていく。
彼は小さく笑った。
『教えようか?』
触れたい。
近づきたい。
もっと、傍に。
一歩ずつ歩み寄った。
『…ああ』
陽を背にして目の前に立つと、彼の体はすっぽりと影の中に収まった。
彼の手元が暗くなり、それに気づいて顔を上げる。
『教えて欲しい』
汗に濡れた首筋。
彼から香る花の匂い。
指を伸ばしても彼は逃げなかった。
何度生まれ変わっても、彼からはあの花の香りがした。
いつも、七緒である今も、──その前も、いつの彼も。
同じ匂いがする。
花が溢れたあの庭園で過ごした日々の記憶が、それだけで蘇る。
梶浦にしか分からない。
引き寄せる糸のように、それは頼りないふたりの絆を繋ぐものだ。
上だ。
七緒の匂いを辿り梶浦は再び階段を上がった。どこか上の方に七緒はいるのだ。梶浦が下りた階段とは別の場所から行ったのかもしれない。
「あーやっと来た」
教室の入り口にいた高橋が梶浦を見つけて大きく手を振っている。どうやらそこが化学室のようだ。梶浦はぐるりと顔を巡らせた。
どこだ。
どこに…
「先生遅れてるから今のうちに…、何してんのおまえ」
天井を見上げている梶浦に高橋は訝し気に言った。
「誰か、ここに来なかったか」
「誰かって?」
「三年生」
「来なかったけど…?」
高橋が近づいて来る。
「天井がどしたの?」
「高橋」
「ん?」
「この上って何があるんだ?」
「うえ?」
つられるようにして高橋も天井を見上げた。
「そりゃ屋上だけど」
「屋上」
匂いはまだ上からしていた。
きっとそこにいる。
けれど。
階段はここで終わっている。他に上に上がれそうなところはない。梶浦はぐるりともう一度見渡した。
「どこから行ける?」
「え? そりゃ外階段だけど」
「外階段?」
「三年の教室があるとこの非常口からだけど…」
非常口?
うちの学校ほんと迷路だよな、と高橋が言った。
「屋上行きたいの?」
「ああ」
「今から?」
「ああ」
「ふーん」
階段を下り始めた梶浦の背に先生に高橋の笑う声が聞こえた。
***
空はよく晴れている。十一月に入り、ますます高くなった気がする青空には雲ひとつない。風は冷たいが日差しは暖かく、気持ちがよかった。
「……」
七緒は深く息を吐いた。
壁にもたれて陽に当たっていると、それだけで嫌なものが消えていくようだ。授業をサボってしまったことに罪悪感はあるが、あのまま出る気持ちにはとてもなれなかった。
篤弘の顔を思い出す。
なぜあんな笑い方をしたのだろう。
本当にどうしてしまったのか。
それに自分に見せる執着じみたものが、少し怖い。
なにかあったのか、それとも…
「…?」
足音が聞こえた気がして、七緒は目を開けた。
下から誰かが上がってくる。
この棟の屋上には滅多に人が来ない。理由はここに上がってくるための外階段へのドアの場所が分かりにくいからだ。
誰だと横目に見ていた七緒は、ドアが開いた瞬間、目を丸くした。
「…え?」
梶浦が立っていた。
なぜか軽く肩で息をしている。
「詞乃…何してんの?」
梶浦は呼吸を整えるように深く息を吐いて、ぞんざいに髪を掻き上げた。
「そっちこそ、なんでここに?」
「おれは…サボりかな」
篤弘とのことを梶浦には言えない。彼には関わりのないことなのだ。コンクリートの上に座り込んでいる自分を見下ろす梶浦に、七緒は空いている隣をぽんぽん、と叩いた。
「座れば? ここ気持ちいいよ」
わずかに張り出している屋根のお陰で、座るとちょうど胸から上が影になる。足を伸ばせば暖かな日差しを受けられる。ここは七緒のお気に入りの場所だった。
梶浦はゆっくりとした動作で七緒の隣に腰を下ろした。
「外階段から来れるってよく分かったな」
迷路のような校舎の構造は、三年生になった今でも全部把握しきれないほどだ。七緒がこの屋上に出る階段へのルートを知ったのだって、三年になってからだったのだ。
「クラスの委員長が教えてくれた」
「へえ…、友達?」
そういえばよく食堂でいつも同じ男子生徒が梶浦と一緒にいるのを七緒は思い出した。
「仲いいんだ?」
「転校してきてからよく話してる」
「それ、友達って言わない?」
梶浦の言い方はどこか他人事のようで、七緒は噴き出しそうになった。
梶浦がそんな七緒を見て目を細めた。
「おかしいか?」
「おかしいよ、やっぱり変だな詞乃は」
くすくすと笑うと梶浦が少し眉を顰めた。それもなんだか可笑しくて笑ってしまう。壁に寄りかかり、目を閉じると、胸の中が温かいもので満たされている気がした。
「おれさ、ちょっと嫌なことあって」
当たり障りのない口調で笑いながら言うと、梶浦が七緒を振り返る気配がした。
目を開ければ、思った通りの心配そうな顔がそこにある。
「でもなんか…、大丈夫な気がする」
「本当に?」
「ほんとだよ」
さっきまであんなに淀んで沈んでいた気持ちが嘘のように晴れていく。
不思議だ。
「おまえと話したらどうでもよくなっちゃった」
「俺と話したら?」
「うん」
風が吹いて、梶浦の髪が片目を覆ってしまう。
「おまえの声って落ち着くよ」
梶浦がわずかに目を瞠った。
なんだろう。
驚いたような顔をしている梶浦に、何か変なことを言っただろうかと思った。
「言われない? 誰かに」
「…ないな」
「そう?」
「ああ」
「……ふうん」
彼女にも?
そう言いそうになって、七緒はその言葉を飲みこんだ。
梶浦には特定の誰かがいる。彼の隣にはあの女の人がいるのだ。
でも今は、七緒の隣にいて…
ここに来てくれて。
「眠いのか?」
目を擦っていると、梶浦が顔を覗き込んで言った。
「うん、なんか…ちょっと」
安堵して気持ちが緩んだのか、なぜかさっきからひどく眠かった。
考えたいことも、話したいこともまだたくさんあるのに。
「寝ていいよ」
うん、と七緒は子供のように頷いた。
「ごめん…ちょっとだけ」
「ああ」
七緒は目を閉じた。
横にある気配に全てが満たされていく。その感覚に目の奥がじわりと熱くなって、そして気がついた。
ああ、そうか。
これは恋だ。
梶浦に恋をしている。
彼が傍にいるだけで心が凪いでいく。
彼が好きだ。
好きで仕方ない。
手に入らないと分かっているのに。
「…七緒?」
大きな手が七緒の頭をそっと傾けた。肩に寄りかかるように導かれる。制服の生地が頬に当たる。
温かな日陰の淡い光。優しい風。
落ちていくまどろみの中で七緒はあの女の人に謝っていた。
(ごめんね)
今だけ、今だけだから。
今だけは独り占めさせて欲しいと。
どこか他人事のように彼はため息をついた。
『何かがある度に飛んで来なくてもいい』
『そんなことを言っている場合か!』
突き放すような言い方にカッと腹の底が煮えた。
『ひとりで大丈夫だ』
『そんなわけないだろう』
呆れた顔で彼はこちらを見た。
『…大袈裟だおまえは』
『ッ、…、こんな有様で! よくもそんな悠長なことを──』
怒りに任せて腕を掴み怒鳴った瞬間、その体が小刻みに震えていることに気がついた。
『おまえ』
『…離してくれ』
顔を背けた彼の体からひどく甘い匂いがした。これまでに何度も経験した。この香りが強くなったときは、彼が精神的に追い詰められているときだ。
何も言わず、掴んだ腕を強く引いて抱き締めた。わずかに抵抗する体を封じるようにきつく掻き抱くようにすると、やがて震えは収まり、彼の体からゆっくりと力が抜けていった。
『離し…』
さらに強く抱き締めると、彼がかすかに笑う息が胸に当たった。
『心配のしすぎだ』
『心配して何が悪い』
『もう、平気だ』
本当か、と尋ねると、彼は小さく頷いた。腕の中で身じろぎ、頬を心臓の上に当てた。そして目を閉じて微笑んだ。
『おまえの声を聞いたら落ち着いたよ』
大丈夫、と彼は言った。
***
「…七緒?」
眠ってしまった体を肩に寄りかからせ、梶浦はその顔を見下ろした。
以前と同じことを言われたことが嬉しくて堪らなかった。
傍にいられればいいと思っていた。
前のようにならなくてもいい。同じ時代に生まれ、こうして再び会えた。友人となり、七緒を守り、幸せに生きていてくれたら、──笑っていてくれたら。
それでいいと思っていた。それだけを望んでいたはずだった。
何もいらないと、決めていたのに。
でも。
「七緒? …」
触れたい。
もっと近くにいたい。
以前よりもずっと好きになっている。
七緒にも好きになって欲しい。
もう一度俺を欲しがって欲しい。
欲望が膨らんでいく。
手に入れて、抱き締めて、俺だけを見て欲しい。
「……」
風で乱れた七緒の髪を指で梳くと、耳に指が触れた。
その柔らかさに心臓が大きく跳ねる。
梶浦はゆっくりと顔を傾けた。
起こさないようにそっと、かすかに香るだけになった花の匂いのする首筋に唇で触れる。
そこから辿り、頬へ。
「──」
愛しさが溢れ出す。
まだ眠る七緒に口づけたい気持ちを抑え込み、自分の唇を落とした場所を愛おしむように指で拭った。
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