13
月曜日の朝が来た。
教室に入ると篤弘はいなかった。
どこかほっと安堵した自分に、緊張していたのだと七緒は気がついた。
「おはよう奥井くん」
席に着くと茉菜がくるりと後ろを向いた。
「おはよう、今日早くない?」
「ちょっとね」
茉菜の机の上にはノートや参考書が広げてあり、何やら書いていたようだ。
「さすがにちょっと頑張ろうと思って塾行き出したんだ。近所の顔見知りのところなんだけど」
茉菜は最近行きたい学校がようやく見つかったと嬉しそうに話していた。そこは専門学校で、入試が割と難しいことで知られていた。
机の上のノートと参考書は塾で出された課題か予習といったところか。茉菜の苦手な数学のようだ。
「そうなんだ。いいじゃん」
「へへ、ありがと。あ、それでこれ分かる? 奥井くん得意でしょ」
「ん? ちょっと待って…」
七緒は机の上に鞄を下ろし、コートを脱いだ。
始業のチャイムが鳴り、担任がやって来る。ホームルームが終わって一限が始まるまでの短い休み時間になっても篤弘は現れなかった。
まだ怒っているんだろうか。
今朝はメッセージが来なかった。昨日までとは打って変わった静けさが七緒は妙に落ち着かなかった。かといって自分から行く気にはなぜかなれないのだ。
そして顔を合わせないまま、三時限目が終わった。
後一限こなせば昼になる。篤弘が来ないのなら七緒のほうから行こうと思っていたときだった。
「七緒」
呼ばれた声に顔を向けると、篤弘が教室の入り口に立っていた。
「ちょっといいか」
ぞんざいな言い方で顎をしゃくる。外に出て来いと言っているのだ。
「あのさ」
「いいから早くしろよ」
七緒としても篤弘とはゆっくり話したい。だが次の授業まで時間もない。後で、昼休みに、と言おうとした七緒のそんな思考を踏み潰すかのように篤弘は言った。
その声の大きさに賑やかだった教室が水を打ったように静まり返る。
篤弘の声が大きく響いた。
「早く来い」
さっと踵を返すと篤弘は行ってしまった。左の方に行ったということは、きっと奥にある空き教室なのだろう。待っていなくても七緒がついてくると分かっているのだ。
「なんだあいつ」
「苛ついてんねえ」
「ななあ、おまえなに、喧嘩でもしてんの?」
「いや…」
「そういや朝あいつ来なかったよなあ」
ざわめきを取り戻し始めた教室のあちこちから七緒に質問が飛んできた。普段のふたりの様子を知っているせいか、皆心配と揶揄いが半々に入り交じった表情だ。
「大丈夫、何でもないって」
「最近あいつどしたの? すげえムカつくわ」
それは七緒だって知りたい。
本当にどうしてしまったのか。
「奥井くん行くの?」
制服の上着の裾を引っ張って茉菜が言った。
「行くことないよ、やめときなよ」
「そうだよ」
茉菜のに周りの女子達も七緒に不安そうな目を向けていた。
それに軽く笑って、七緒は大丈夫と言った。
「どうせ大したことないって。しょうもないことで腹立ててるだけだから、平気だよ」
「えー…でもさあ」
「すぐ戻るよ」
引き留めようとする茉菜を安心させるように七緒は笑顔で言った。
教室を出て廊下を左に進む。
突き当りには特別教室に続く階段と、今はあまり使われていない空き教室がある。今は古い机や椅子などを置いてあるだけで、普段は鍵がかかっているのだが、その鍵はちょっとしたコツで簡単に開くものだった。時々生徒がサボりに使っているのが教師にばれたのだが、それから半年余りたった今でも鍵は直されていなかった。
「篤弘?」
呼び掛けながら七緒は扉に手をかけた。
案の定、扉は音もなく横に動いた。
「…篤弘、返事しろよ」
窓にはカーテンが掛かっていた。そのせいかまだ午前中だというのにひどく教室内は暗い。部屋の四隅は驚くほど薄暗かった。
篤弘は窓際に立っていた。カーテンを少しだけ開く。
外はよく晴れていた。
「あのさ、こないだのことなんだけど」
後ろ手に扉を閉め、黙ったままの篤弘の背中に七緒は言った。
「追い返してごめん、おれさ…」
「お出かけ楽しかったか?」
ゆっくりと篤弘はこちらを向いた。
教室の真ん中で七緒の足が止まる。
「行ったんだろ?」
「え?」
「養護施設」
「ああ、まあ…」
土曜日の朝のメッセージでどこに行くのかと問われた七緒は、園に用事があって行くと返していた。誰と、と続く問いには梶浦も一緒だとなぜか言えず、七緒はひとりと嘘をついていた。そのことが土曜日からずっと、篤弘への後ろめたさになって胸の中に影を落としていた。
「楽しかったか? 久々だったんだろ」
篤弘の口調はいつもと変わらない。七緒は内心でほっと息を吐いて頷いた。
普段の篤弘だ。苛立った様子はない。七緒は少し嬉しくなって篤弘に近づいた。
「まあな。相変わらず賑やかだったよ」
「よかったな」
「ああ、みんな元気そうだった」
窓から入る日差しが篤弘の足先に陽だまりを落としている。
「今度はオレも行きてえな」
「篤弘が?」
「オレまだ七緒のいたところ見たことねえし」
「ああ…そうだっけ」
七緒はまだ篤弘を園に連れて行ったことはない。
なんとなくいつもはぐらかしてきた。
知り合ってから随分経つというのに。
なぜだろう。泊まらせることにもいつも躊躇する。
「そうだよ」
忘れんなよ、と篤弘が笑った。
久しぶりに篤弘の笑う声を七緒は聞いた気がした。それにつられて笑うと、言葉がぽろりと口から零れ出た。
「じゃあ、今度…」
「──オレもピンクの花買って持って行くわ」
ピンクの花。
花?
「──」
「誕生日とかにさ、誰かの」
七緒ははっとした。
なぜかさっきまで見えていたはずの篤弘の顔が暗い。開いたカーテンから入る光の逆光のせいなのか。
どうして──
そのことを知っているのか。花を買って行ったことなど、ましてや誕生会だなんてひと言も篤弘には言っていないのに。
「誕生日、って…」
「たとえだよ。例えばの話」
篤弘は笑った。
「子供がいっぱいいるんだから誕生日だって多いじゃん?」
「そうだけど」
「花とか持って行っただけで喜んでさ、簡単に懐いてもらえそうだよな」
「──」
その言い方に七緒の体が強張った。
今何て言った?
なんて…
始業のチャイムが鳴った。
篤弘、と言った七緒の声は掠れていた。
「おまえ…」
「授業始まるな」
窓に寄りかかっていた篤弘が体を起こし、ゆっくりとした動きで七緒に近づいてくる。
「オレ行くわ。おまえも戻れば」
そう言って篤弘は七緒の肩に触れた。
その瞬間、電気が落ちたように目の前が暗くなり、瞬くと元に戻っていた。
何だ──今の。
「じゃあまた昼にな、七緒」
背後で扉が開く気配に七緒ははっとした。
「ああそうそう」
篤弘の声に七緒はぎこちなく振り返った。
カーテンの隙間から差し込む陽は遠く、真逆のはずだ。なのになぜか篤弘の顔は暗いまま──
その目の奥に一瞬何か見た気がした。
「今週、楽しみにしてるわ」
薄くナイフで切ったような笑いを浮かべて、篤弘は戻って行った。
***
「おーい、ちょっと」
梶浦、と呼ばれて振り返るとクラスメイトが授業のプリントの束を両手にこちらを見ていた。必死に来いというジェスチャーに、梶浦は手を止めて彼の方に歩いて行った。
「遅いなあ、呼んだらすぐ来て欲しいもんだけど」
「それは悪かったな」
不満げな声には構わずに梶浦は彼が手にしていたプリントの束をひとつ引き受けた。ほっと彼は息を吐き、空いた手をぶらぶらとさせる。
「あー重かった」
腕にはうっすらと赤い跡が付いている。
「これどうするんだ?」
「次の授業で使うんだってさ。持って行くのもついでに手伝ってよ」
彼──高橋は面倒くさそうに言った。高橋は同じクラスの委員長で、梶浦が転校して来たときあれこれと面倒をみてくれた。性格は真逆と言ってもいいのに不思議とウマが合って親しくなった。
「分かった。ちょっと待ってろ」
「早くしろよー」
梶浦は教室に入り自分の席から次の授業の教科書とノートを取ってきた。次の授業は科学で、特別教室へ移動することになっている。
高橋の横に並んで、先導されるままに廊下を歩く。転校してきてから梶浦はまだ一度も特別教室のある棟には行ったことがない。
「そこ右に曲がって渡り廊下渡って左に進んで奥の階段上がる」
「その都度言ってくれると助かるよ」
「いっぺんで覚えてくれると嬉しい」
「努力はするよ」
立地のせいか、過去生徒数が爆発的に増えた時期が何度かあり、その時々で間に合わせの為に無計画に校舎を建て増したせいで、ここの構造は迷路のように複雑だった。高橋が一度ぐるっと案内してくれたのだが、性格的にでたらめだった為、梶浦はほとんど覚えていなかった。必要ならそのときまた聞けばいいと開き直ったまま今に至る。
「ああ寒い。こんな寒いときに渡り廊下なんか渡るの地獄すぎる」
「…そんなに寒いか?」
「寒い、死にそう」
空は晴れ渡っていた。十一月の冷たい風が時折吹くだけで、今日はとてもいい天気だった。
渡り廊下を渡り切り、言われた通り左に進む。休み時間の騒がしさが廊下に満ちていた。
「この下三年の教室なんだよな」
「ああ」
そうか、と梶浦は思い当たった。
以前七緒と鉢合わせたのは確かこの建物の一階だった。今渡ってきた渡り廊下は中庭の上を横切るものだ。
七緒の顔が浮かぶ。
校舎内ではほとんど──それこそ食堂ぐらいでしか会うことがない。
お腹空いた、と高橋が呟いた。
「今日朝食ってない。終わったらそのまま学食行こ…、カジは?」
「俺は今日はいい」
高橋はなぜか梶浦をカジと呼ぶ。最初は驚いたが、もう慣れてしまった。
「なんで? あ、弁当?」
「そう」
今朝七緒から弁当を渡されたのだ。どうせひとつ作るのもふたつ作るのも変わらないからと言って。
少し照れたような顔でそう言った七緒を思い出して、梶浦は知らず口元を緩めていた。
「なにその顔。あっ、彼女だ」
「違う」
「彼女に弁当作ってもらったんだ」
「違う」
「おまえには絶対彼女がいるって女子が言ってた。僕もそう思う」
「なんだそれは」
「女といるのを見かけたやつがいるけど?」
顔を下から覗き込んで目を輝かせる高橋に、梶浦はため息をついて立ち止まった。
「見かけた?」
「聞いたぞ。夜に女と歩いてたって」
夜に。
思い当たって、梶浦はもう一度ため息をついた。
「ああ、それは…」
はっ、と梶浦は顔を上げた。
甘い匂い。
これは七緒の匂いだ。
近くにいる。
近くで──
「それは?」
始業のチャイムが鳴った。
いつの間にか校舎は静かになっている。
うわまずい、と高橋が言った。
「カジ?」
急かすように高橋が梶浦の袖を引いた。だが梶浦はぐるりと視線を巡らせて、七緒の匂いを探す。いつもよりずっと甘く香るのは、何かがあったからだ。
何か、嫌なことが。
七緒にとって。
ある場所を探し当てた梶浦は荷物を高橋に押し付けた。
「悪い。用が出来た」
「はあ? 用ってな、っ、うわ、おっも!」
「先に行ってくれ」
よろけた高橋の腕を取って助け起こすと、梶浦は少し先の階段に走った。
七緒はこの下だ。
梶浦は階段を駆けおりた。
「下じゃなくて上だって」
階段の途中で高橋の声が聞こえてきた。
梶浦は階段を下り切って左に向かった。そこは校舎の一番端で、突き当りに教室がひとつあった。薄暗さから空き教室のようだ。扉が半分ほど開いている。
七緒の匂いはそこからしていた。
梶浦は中に入った。
カーテンの下がった薄暗い教室。
嫌な感じだ。
酷く冷たい空気。
「…七緒?」
呼び掛けた梶浦の顔に焦りの色が浮かぶ。
そこに七緒の姿はなかった。
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